第2話 フリー

 その女の子は、スリムだった。しかも、抱きしめると、骨がポキポキと折れてしまうのではないかと思うほどの華奢な感じで、まるで、

「こわれもの。取扱注意」

 とでも、どこかに書いてあるかのようだった。

「そういえば、最初に相手をしてくれた人が、女の子を乱暴に扱ってはいけないと言っていたが、ここまで華奢な子だったら、どう扱っていいのか分からない」

 と思った。

 その女の子は、無口なタイプだった。おとなしいのはいいのだが、ここまで何も言わないと、客側が気を遣うことになる。

「こんなのっておかしいだろう」

 と思った。

 そこで感じたのが、

「俺がおとなしいことが好きだと思ったのは、あくまでも、この俺に従順で、慕ってくれる女性がいいからなのであって、俺のことを何とも思っていないだけの静かなやつは、正直、これ以上いたくないくらいだ」

 と、心の中で叫びたかった。

「貧乏くじを引いたな」

 という思いだった。

 正直、フリーだったので、最短の40分コースでよかったと思った。それ以上一緒にいると、息苦しく、何が親といって、

「ソープを嫌いになることが嫌」

 だったのだ。

 きっとこの後、ソープが自分の癒しになり、気分転換の役目をはたしてくれるということを思えば、何も風俗通いが悪いことだとは思わない。

 確かに、高校生くらいの頃までは、

「風俗に通って何が面白いんだ。彼女もできないやつが、性欲を晴らすために、お金を払っていくところじゃないか?」

 と、毛嫌いをしていた。

 別に、本当に嫌いだったわけではない。そう思うことで、自分が、正当性のある人間なんだと感じたかったのだ。

 中学時代の思春期真っただ中の時に、まわりがエロ本や、エロDVDを見ていても、知らんふりをしていたが、心の中では、

「俺はそんなことで発散させるようなことはしない」

 と思っていたのだ。

 なぜなら、思春期には、自分の気持ちをしっかりしていなければ、まわりのように好奇心に負けて、皆同じような、

「色狂い」

 になってしまう。

 という、優等生的な管変え方を持っていたのだった。

「色狂い」

 とまでは言い過ぎであるが、自分という人間が分からずに、戸惑っていると、ついつい自分を正当化させる何かがほしくなるというものだ。

 それが、

「性欲に乱された風紀に、この俺が交わらないということが、思春期においての自分の正当性なんだ」

 と思うようになったのだ。

 性欲というのが、どういうものなのか、中学時代は分からなかった。皆がエロ本やエロビデオなどを見て、興奮しているが何がそんなに興奮する材料なのか分からないのだ。

 確かに、自慰行為は、小学生の頃からしていた。

「ムズムズするんだからしょうがない」

 というのが、その時の正当性だったが、それでは正当性としては甘いと思っていた。

 しかし、実際はそうではない。正当性を求めているのは自分だけではなく、皆が求めている。ただ、その行き先が違っているだけのことであって、マサムネは、

「俺は色狂いにはならないんだ」

 という、優等生的な方に、舵を切ったのだ。

 実はそっちの方が、

「楽だと思った」

 からだったのだ。

 だが、思春期の頃に優等生ぶっていると、まわりからつまはじきにされるようだ。つるんでいるのは、一見不良に見える連中で、一見おとなしく、優等生っぽい連中が、つるんでいたり、一緒にいるところを見たことがないし、聴いたこともなかった。

 図書館で勉強していても、確かに図書館では、あまり騒いではいけないので、声を出せないのは当たり前だが、挨拶すらしないのだ。

 それに比べて、他の連中は、試験前など、24時間のファミレスに行って、端の方で、5,6人の団体が屯していて、結構ワイワイとやっている。

 何を話しているのか分からないが、テーブルの上には運ばれてきたメニューやドリンクの他に、ノート教科書が、結構乱雑に置かれている。何をしているのかまでは分からないが、少なくとも、勉強の意思はあってきているようだった。

 しかし、結構騒いでいる中でも、実際に勉強している人もいる。

「よくあんな状態で勉強できるな」

 と思ったが、いろいろ聞いてみると、

「一人で静かにしていると、勉強なんて進まない」

 というのだ。

 つまりは、

「勉強なんて、かしこまってやろうとすればできないもので、騒がしくて気が散るが、それでも、しなければいけないと思えば、集中力が生まれる。それは、一人でいる時よりもまだマシなようだ」

 と感じているようで、どうやら、自分はそれまで、

「おとなしい環境の方が実力を発揮できる」

 と思っていたが、逆だったようだ。

 子供の頃、友達と勉強するというと、親から、

「どうせ、騒ぎ始めて、勉強なんてまともにできないでしょう?」

 と言われ、なかなか友達と一緒に勉強といってもさせてくれなかった。

 結局一人で家で勉強することになるのだが、一人で集中などできないタイプの人間だということをその頃は分からなかった。だから、本人は勉強しているつもりだったが、できていない。だからこそ、

「あれだけ勉強したのに、どうして成績が悪いんだ?」

 と自分を責めるようになり、

「ああ、結局俺は、バカだったんだ」

 と思わざるを得なかった。

 勉強に集中できないということが、

「静かすぎるからだ」

 と感じるようになったのは、高校生になってからだった。

 だから、無理を言って、予備校に通わせてもらった。自習室もあり、少しは勉強をしようという環境だと思ったからだ。

 確かに、一人部屋で籠って勉強していた時よりも集中できる。予備校の自習室の中には、自習室にいながら、この雰囲気に拒否反応を示している人もいて、

「これが、俺の性格なんだ」

 とさぞかし思ったことだろう。

 だが、マサムネは、一人でいるよりマシだったこともあって、何とか集中できている気がした。

 さすがに、ファミレスで屯している連中ほど騒いでいると、今度は集中できるわけはないと思うので、予備校の雰囲気は比較的、マサムネに合っていたのかも知れない。

 ただ、ある時、親から、

「今日は、お父さんもお母さんも、お出かけしなければいけないので、夕飯は、申し訳ないけど、表で食べてきて」

 と言われ、仕方がないので、予備校の帰りにファミレスに寄ることにした。

 時間的に、11時近かったので、お腹もすいていた。ただ、他のレストラン系は、どこも閉まっているので、ファミレスしかなかったのだ。

 お客さんは結構たくさんいた。空いている席は珍しいくらいで、2,3人くらいの客が多いようだった。その中で、奥の方で、勉強集団の連中がいるのが見えた。他に客がいるので、本当なら少々うるさくても目立たないのだろうが、結構目立っていたのだ。それは、唐突に奇声をあげる人がいて、それが、女だけではなく男もであった。まるで、自分たちの存在感を示そうとしているようで、何かおかしな気分になったが、そのおかげで、

「やっぱり、俺はやつらとは住む世界が違うんだ」

 と感じたのだ。

 そんなことを考えていると、

「確かに俺は、一人で静かにしているのが基本的にダメなんだが、同じくらいに、人と屯するのがダメなんだ。だけど、それは、あくまでも、他の人と同じでは嫌だという感覚があるからであり、やはり基本は、一人で何かに集中しようとするのがダメなんだ」

 という、理屈的には難しい考えを何とか自分の中で理解することができるようになったのだった。

「お前って性格的には分かりにくいんだけど、女の好みは分かりやすいよな」

 と大学に入ってできた友達から言われていた。

 高校生の頃に、

「何も友達を全部一緒くたで考える必要などないんだ。勉強する時の友達、遊びに行く時の友達ということで分ければいいだけではないか」

 と思うようになると、結構気が楽になった。

 勉強する相手も、賑やかではなく、お互いに基本は静かにしているが、たまに意見交換をしたり、気分転換に話をしたりする相手だったので、かなり楽であった。しかも、相性がピッタリだったと言えばいいのか、集中して集中力が切れる瞬間まではほとんど同じ周期だったのは、ありがたかった。

 勉強とは違う、遊びに行く時の友達が、結構自分からいろいろ経験を話してくれるやつだった。

 ほとんど人に秘密を持たない性格のようで、本人も、

「俺、人にはすぐに話すから、逆に友達がまわりからいなくなったんや。きっと皆秘密バラされたらいやだとでも思ったんだろうな?」

 というではないか。

「秘密なんか、洩らさないだろう?」

 というと、

「ああ、俺はそんなことはしない。だって、自分がされたらいやなことは、俺もしないって決めてるからな」

 といっていた。

 彼は、どちらかというと、興奮したり、自分の意見を相手にわかってもらいたい時など、関西弁になる、そういう意味でも分かりやすいやつだったのだ。

「関西に住んだことあるのかい?」

 と聞くと、

「いいや、住んだことはないけど、中学の時の友達に、関西人のやつがいて。そいつとちょくちょく、言い争いをしていてな、その時、売り言葉に買い言葉、こっちも負けてられへんと思ったら、興奮する時は関西弁になるという癖がついてしまってな。興奮するというよりも、自分の意見を相手にわかってもらおうという気持ちになった時といっていいんじゃないかかな?」

 というのだった。

 高校時代に、マサムネは、それまでの自分と少し変わった気がしていた。

「大人になった」

 ということなのかも知れないが、それよりも、

「自分のことが、少しでも分かってきた」

 と言えばいいのだろうと思うのだった。

 ただ、中学生の頃に、一度、

「彼女がほしい」

 と思う時期があった。

 それは、たぶん、他の男子が考えている、

「思春期における、普通の異性への感情」

 とは少し違っていたように思う。

 というのは、中学時代の自分は、結構思春期に入るまでが遅れていて、中学3年生になって、やっと、異性への興味のようなものが生まれたのだった。

 しかも、その感情は、

「友達に彼女ができたことが羨ましい:

 というもので、自分にいないということが、女の子の気持ちや態度というよりも、女の子が、同級生に対して甘えてみたり、慕っている様子や、二人で嬉しそうにしているのを見ると、耐えられなくなる感情。

 そう、いわゆる、

「嫉妬」

 という感情だったのだ。

 だから、

「彼女がほしい」

 というのは、

「俺も、あの時の自分が感じたように、まわりから、

「羨ましがられたい」

 という感情が強かったのだ。

 だから、

「女の子から、ちやほやされたい」

 あるいは、

「女の子と一緒にいることを、楽しいと思いたい」

 という感情を持ったとしても、結局最後は、

「まわりの男子から羨ましがられたい」

 という感情に行き着くのであった。

 確かにちやほやされたいという気持ちはあるのだが、それも、

「ちやほやされている自分をまわりにひけらかしたい」

 という思いだった。

 子供の頃、金持ちの坊ちゃんを友達の一人に選んだために、まわりの皆と同様に、

「お父さんから、こんなに高価なおもちゃを買ってもらったんだ」

 といって、威張っているやつを羨ましく思っていたが、考えてみれば、そいつが、ひけらかしたいのは、おもちゃではなく、自分が親からいろいろ買ってもらえる立場にあることで、皆から、

「ちくしょう、羨ましい」

 という、嫉妬や妬みを感じたいというのが本音なのだろう。

 知らず知らずにその思いが身についていて、

「今度は俺が、あの立場になりたい」

 と思うようになっていた。

 しかし、それとは裏腹に、

「偉いのはあいつじゃなくて親じゃないか。そんな親のところに生まれたから、いい思いができるんだ」

 ということをひけらかしているだけだ。

 だから、マサムネには、どうしてそいつがひけらかしたい思いになるのか分からなかった。

 分かることとしては、

「俺はあんなやつにはならない」

 ということであり、だから考えているのは

「俺は、他の人と同じでは嫌だ」

 と感じることだった。

 皆と同じように、歯ぎしりして悔しがるのは、何とも惨めなことだと分かっている。

 しかし、その友達だって、自慢をしている時、何か、あまり気持ちのいい顔をしなくなってきたのが分かっていたのだ。

「ひょっとすると、これが親の七光りであって、自分の力でも何でもないという当たり前のことに気づいたのではないか?」

 という思いだった。

 考えてみれば、思春期と同じ時期に存在し。同一視されているものの中に、

「反抗期」

 というものがある。

 親や大人に逆らい、自分が大人になりつつあるということを、知らしめたいという気持ちだ。

「いつまでも、子ども扱いするんじゃない」

 という感情の表れが、反抗期に繋がるのだ。

 だから、思春期の頃に反抗期のなかった子供や、その親は、

「親離れ、子離れ」

 それぞれできていないということになるだろう。

 それを思うと、反抗期のない子供は、ある意味。

「可愛そうだ」

 と言えるだろう。

 だが、マサムネは、その時期、反抗期と一緒に、

「他の人と同じでは嫌だ」

 という感情に陥っていたのだ。

 それを感じていると、

「金持ちの子供のあの時の気持ちが、分かるような気がしてくる」

 と思うのだった。

 フリーで入った女の子は、正直、

「地雷」

 のレベルだった。

 プレイも曖昧で、こちらから言わないと、何もしてくれないというひどさ。

 だったら、

「会話の時間が楽しくて、ついつい時間の計算を間違えた」

 でも言えばまだかわいいというもので、会話ができるほどのバイタリティも教養もない。

 ただ、いるだけで、時間を潰そうなんて、冗談じゃない。確かに、

「フリーでいけば、誰にも指名されないような子しか残っていないから、ロクなのに当たらないぞ」

 と言われたが、まさにそれを地で行った感じだった。

 しかし、中にはフリーの女の子でも、一生懸命にしてくれる女の子もいる。まるで、キャバクラでいえば、

「ヘルプ嬢」

 のようなもの。

「そんなところで腐っているんじゃなくて、ここで気に入ってもらえれば、次からは指名してくれる」

 とどうして思わないのだろう。

 フリーだって、お客さんと相手をさせてもらって、お金がもらえ、しかも、次は指名してもらえるかも知れないというチャンスなのに、それができないということは、

「何かの事情で、ソープに身を落とした」

 としてしか思っていないのだろう。

 確かに気の毒だとは思うが、もっとポジティブに考えられないのだろうか? 

「どうあがいたって、やることはやるんだ。客だって、楽しもうと思ってきているんだから、女の子だって楽しめばいいだけじゃないか? それで目的のお金ももらえるし、指名してもらって、早くその事情とやらを解消し、辞めることもできる。このままだったら、まったくたまらずに、ただ時間だけが過ぎていく地獄の毎日だぞ?」

 と、店の人から言われるのが関の山だ。

 別に、昭和初期の、

「昭和大恐慌」

 のような、

「娘を売らないと、次の日の飯も買えない」

 という時代でもあるまいし、女の子も、楽しめばいいと思うのは、マサムネだけであろうか?

 あからさまに、あざとい、

「色濃い作戦」

 で来るのを、客の方も分かっていて、まるでゲームのように男は通い続ける。

 女の子も、誰もが金銭的な事情を抱えているわけではない。中には、

「私は、とにかく、えっちが好きなのよ」

 というだけの子だっているのではないだろうか?

 写メ日記にも、

「皆と遭えるのが、楽しみで、今からムズムズする」

 などということを書いていたりする。

 いくら営業日記とはいえ、まったく思ってもみないことを書ける女の子もいないだろう。そう思うと、

「女の子だって、楽しんでいるのではないか?」

 と思うのは、男側のエゴなのだろうか?

 ただ、女の子がそう書いている以上、その言葉を信じてあげるのが、オキニだと言えるのではないだろうか?

 昔と比べて、今はいろいろな種類のお店がある、ソープ一つとっても、値段でランクが別れている、

「高級店」

「大衆店」

「激安店」

 などであろうか?

 昔は高級店しかなく、基本サービスはすべて、整っていた。だから、一回で、6万円など普通だっただろう、そうなると、ボーナス時期の、

「年に2回くらいしかいけない」

 と思うだろう。

 だが、今は、大衆店であれば、3万から4万で、120分くらいはいける。毎月は大げさかも知れないが、

「2カ月に一回くらいは行ってもバチは当たらない」

 と思う。

 しかも、コンセプトが決まったお店が多いし、女の子が気さくなことで、

「毎月通ってもいいよな」

 と、罪悪感がまったくないようになるのだった。

 男性というのは、性欲が溜まっていても、一度放出すると、次の欲望までに時間が掛かる。

 それを、いわゆる、

「賢者モード」

 というのだが、だから、

「今日は、何回いける?」

 と言われ、いくら若くても、普通だったら、3回が限度であろう、

 一度放出してしまうと、一気に脱力感が襲ってきて、さらに、自己嫌悪に陥ってしまう。

「セックスは悪いことではない。だから、風俗で発散させることに対して、まったくの罪悪感のない人が、風俗に通うのだが、そんな人でも、放出してしまうと、その脱力感から、普段は味わうことのない、罪悪感が目覚めてくるのだった」

 つまり、風俗というものが、あろうがなかろうが、男には、欲望があり、それを正当化できるような都合のいい考えが備わっている。

 最近では、女性用の風俗だったり、ホストクラブに嵌る女性も多いが、基本的に、風俗というと、

「男性のもの」

 だったのだ。

 確かに、昔から、男尊女卑の考え方は日本では大きかった。もちろん、日本にだけあった考えではないが、強く、残っていた法律が、

「大日本帝国」

 には存在した。

 それは、旧刑法と呼ばれるもので、同じような法律は外国にもあったが、男尊女卑をあからさまに示したのは、大日本帝国だけだったのだ。

 その法律は、今では全世界から消滅し、日本も、日本国になった時に削除されたので、ある意味早かったと言えるだろう。

 お隣韓国などは、2000年以降にも存在していて、実際になくなったのは、つい最近のことだった。

 その法律というのは、

「姦通罪」

 と呼ばれるものだった。

 つまり、

「配偶者がいるにも関わらず、他に誰かと姦通すれば、それは重罪になる」

 というものだった。

 だが、大日本帝国の場合は、あくまでも、女性が姦通をしなければ罪ではない。男性が姦通をしていて、それを女性が見つけたとしても、姦通罪で訴えることはできなかったのだ。

 日本で、敗戦後すぐに新法が設立された時に、この法律が削除になったのは、この法律が、

「女性のみに適用される」

 ということがあったからだ。

 つまり、新憲法において、

「法の下の平等」

 において、基本的に法律上、同じことをしても、

「罰せられるのは女性だけだ」

 ということになってしまうと、法の下の平等の精神に逆らうことになる。

 だから削除されたのだ。

 こんな法律が、まかり通っていた大日本帝国というのが、ある意味、封建的であり、本来なら、諸外国に追いつくために作ったはずの法律であっても、随所に、かつての日本の伝統が残っていたということであろう。

 それを思うと、

「外国に、追いつけ追い越せ」

 という発想ではあったが、昔からの伝統が残っているのは、薩摩であったり、長州であったりという藩閥政治の名残のようなものだったのかも知れない。

 そんな今の時代からは考えられないような時代があったわけだが、風俗も、基本的には男性の性欲発散のためにあるといってもいい。ただ、女性と男性の違いは決定的で、

「男は一度出すと、次までに絶対に賢者モードが襲ってくるが、女性の場合は、何度でもいける」

 というところである。

 女性の性欲解消のためには、下手をすると男性が束に掛かってもできない可能性もある。そういう意味では、実現が難しいというもの、無理もないことなのかも知れない。

 そんなことを考えると、女性の性処理解消産業が伸びないのは、やはり、肉体的な問題が大きいのではないだろうか?

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