蝉鳴く火鉢の床

 何事も無い日々でした。

 淡々と、ただ、これまでと変わらぬ時が過ぎてゆきました。仕事をこなし、家に帰り、休み、また仕事に行く。家には、愛する人が居ましたから、それはもう、欠けることもない、満足な日々でした。



 何かがおかしいと思いました。

 私は顔を顰めて、唐突に襲ってきた酷い頭の痛みを受け流そうと試みましたが、無駄でした。私は道の向こう側に目をやりました。ひどく、長く、無限に、何処までも続いていくかのように、道が延びているように見え、ふっと、気の遠くなる感じがしました。このままでは、私の意識は、あの果てしない道の向こう側に、身体から引き剥がされるのではないかしら。


 ゆら、ゆら、ぐらぁっと、まるで地面が布で出来ているかのように、脚がまるで意味を成さなくなりました。あぁ、この感じ、日射病かしら。あら、あら、そんな時期だったかしら……。

 蝉の鳴き声を遠くに聞いた気がしたのです。



 気がつけば、私は自分の寝床におりました。部屋はつめたく冷えており、しかし、たしかに、火鉢は暖かくなっておりました。あら、やはり、夏なんかでは無かったのだわ。あら、私は一体いつ気を失ったのかしら、もしかして、夏に倒れて、冬まで眠っていたのかしら。


 未だ揺れる感覚を持ちながら、這うように自分の日記帳を手に取って確かめてみますと、昨日書いたはずの短い記録は二月の半ばの日付を記してありました。あぁ、では、冬に倒れて、すぐに起きたのだわ。



 身体には、なんの異常も無いのだそうでした。

 気を張り過ぎれば、身体に異常は無くとも、この様な事は起こり得る。何か気を張る事があったのか、と、私は幾度も、誰かに、もはや鬱陶しく誰が誰かも覚えられずにいましたが、とにかく訊ねられました。


 心当たりは有りません、と答える他、何が出来るでしょう。


 誰も、悪く無いのです。誰も、私に害を成す訳では無いのです。私が不器用である事、それだけが問題だったのです。けれども、それも、自分のせいにするものでは無いと言われるのが常でしょうから、それだって、ただの私の性質なのであって、私が悪い訳では無いとするのが、正しい事なのでしょう。ですから、私は私が悪いなどとは申しませんが、でも、自分というどうしようもなく馬鹿な存在を他人に関わらせる事が、もう、許せなくなっておりました。私は私自身の事も自分だとは捉えておらず、私という人間と、他の誰かという人間との関わりを傍観するうち、頼むからお前は誰とも関わるなと、私という人間に対して懇願するようになったのです。


 私という人間は、初めこそ抵抗しましたが、今ではその気力も無いようでした。

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