鹿威し


 看護婦は、感情的になるのは避けるのが良い、あまり感情的になると患者の方は置いてけぼりになるか、動揺をより強めるか、何れかであるから、と習いました。


 君は落ち着いているから、こちらの不安も話しやすいよ、ありがとう、との言葉を実際に患者にいただく事もありました。私は感情的にならぬ様にという事に於いては長けておりましたし、それが正しいのだと、すっかり信じておりました。


 ある患者が亡くなりました。私達は必死の治療を行いましたが、衰弱の一途を辿るばかりで、そのうち息を引き取ったのでした。医師が死を確認し、御遺族に告げる場に私はおりました。先生の後ろで、看護婦である私はやや頭を下げてそこに控えているのでした。御遺族は部屋の去り際、私に向かい、看護婦は涙ひとつ流さないのだな、と言い捨てて行きました。

 よく、わかりませんでした。



 公彦さんは、人間に感情的になられるのが怖い、と仰いました。自分は繊細な部類で、自分の感情は勿論のこと、他人の感情にも敏感過ぎるから、ことに負の感情をあまり表出されると、何でもかんでも自分が悪く責められているかの様な気がして怖いのだと彼は言うのでした。何の不自然も無いその反応に私は納得をし、そうであれば、彼に対しては殊更気を付けて接する事にしようと心に決めました。私はやはり、彼が不快と感じる人間ではありたくなかったのです。


 彼は、心を大事になさる方でした。ですから、彼は他人の心にまで気を遣い、そのあまり、自らの心を表出出来ず、独りもがいているのを私はよく目にしました。彼は心を大事にする方ですから、やり場の無い気持ちを無視する事もしないのです。したく無いのです。そうであれば、私のする事はただ一つ、私を使って思いを何でも吐き出して構わない、という事でした。

 実際、どの程度満足にそれが出来ていたのか、彼の心の実際を私は知りませんから、何とも言えない所ではありますが、時が経過するにつれ、私をそのように使って下さる事は確実に増えておりました。彼は度々、君はそれで不快にはならないのかと私に訊ねましたが、私は本当に何の不快も感じませんでしたから、何も気にする事は無いのですとお伝えしました。



 或る日、とある患者が、私に仰いました。

「君は何も考えずに働いている。言われた事を言われたままするだけで俺に寄り添えると思っているのか。その頭じゃ、きっと俺のように病に倒れる事も無かろう。馬鹿は風邪をひかない」


 何がいけなかったのでしょう。

 また、ある患者は言いました。


「あなたときたら、いつも他人事みたい。どうして、こんなにも冷たくいられるのかわからない。あなたはどうして私が何を言ってもただ聞くだけなの。何を言って欲しいのか、何にもわかっちゃいないのね」


 私は、必要な言葉を私なりに考えて、お声掛けをしたつもりでした。つもりですから、無意味だったのでしょうけれど。


 また、誰かが言いました。

「君のような幸せ者に、わかるわけが無い」

 あぁ、それは、もう数え切れぬほど、頂戴した御言葉です。



 よく、わからないのです。

 わかるわけが無い。そうなのかも知れません。しかし、私は、理解をしたかったのです。でなければ、一体どうして、救えると言うのでしょう。


 そうだ、幸せ者にわからぬと言うのなら、私が不幸せになれば良いのだわ、と思いました。

 何の苦労も知らずに甘い蜜を吸うだけの私に罰が下される、その時が来たのだろうと思いました。


 天よ、どうか、私を痛め付けて下さいまし。

 そう願うと、気分は少し軽くなり、ゆうらり、ゆらりと、重かった足を、進める事が出来る様になりました。



 私の存在そのものが罪なのでした。苦しむ人々は大抵、幸せな人間が居ると許せなくなるのだと溢しました。私は、何時も、幸せ者だと言われる人間でしたから、私が居るだけで苦しむ方が、山といるはずなのです。


 私は、何より、愛する方を苦しませる事が嫌でした。私の愛したお方は、誰よりも、本当に誰よりも大きな苦悩を抱えていらっしゃいましたから、そうであれば、私のことが憎くて仕方が無いのでは無いかと思いました。


 ずっと、ずっと、私がお側に居るだけで、苦しめていたのなら。


 けれども、私が自宅に帰りますと、彼は私を抱きしめて、遅くて心配した、もう側に居てくれないのかと思った、と言うのでした。


 鹿威しの様なものなのかも知れません。

 馬鹿な私は不器用でもありました。私は、カタン、カタン、と、或る方向に倒れ、また反対に倒れ、という事しか考えられないのです。水を零すなと言われれば溜めますが、零せと言われれば、全てを零す事しか思いつかず、かといって、その様な事をしては、取り返しのつかぬ事が起こるのは、よくわかっておりました。

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