糸を引けば腕を引く
私は彼にとって嫌な存在ではありたくありませんでした。ですから、一度だって、彼の気を損ねる事をしたくはありませんでした。まして、彼の心に傷を付けるなど、もっての外なのです。けれども、散々、人の心がわからぬと言われた性質の私です。私は、公彦さんの言う通り、確かに心こそは持っていたのかも知れませんが、人の心がわからぬというのもまた本当の事でした。私は何が公彦さんを傷付ける事に当たるのか、幾ら考えても、どうにも上手くいかず、山ほど失敗をしたのです。
公彦さんは仰いました。僕は死ななければならない様な気がする、と。死ななければならない、というのは、つまり、彼の意志に関わらず、恐らく彼の認識する世界全体の方が、彼の死を望んでいる様な気がすると、そういう事を言っているのだろうと私は考えました。そして、そんな事は無い、と私はすぐに思いました。私自身が彼をこれほど欲しているのですから、そして、私だって世界の一部分なのですから、そんな事は無いのだし、生きていて下さると私は嬉しいです、とお伝えすると、彼は、そういうものなのか、とお答えになるのでした。
また別の時、公彦さんは仰いました。死にたくて堪らない、この世界で生きるのは酷く辛い、楽になりたい、と。先程の様に、私は無論、公彦さんには死んで欲しくはありませんでした。けれども、この様に仰る方に、死ぬなと申し上げるのは、如何なものかと思いました。死にたくなる程残酷な世界に、私の望みのためだけに縛り付ける様な気がして、それは彼を苦しめる事になるのだろうと考えました。ですから、私は、せめて彼を一人にして突き放すつもりは無いという気持ちを込めて、もし死ぬのでしたら私もご一緒します、と申し上げたのです。そう、それしか思いつかない程、私は心というものをよくわかっていなかったのです。彼は、そうか、それほど僕に死んで欲しいのか、と言うのでした。そういうつもりではなかった事をお伝えすると、彼は、本当に死にたいのでは無い、ただこの世界が余りにも苦しいから逃れたいだけ、この苦痛を側で和らげるから共に生きてはくれないか、という言葉が欲しかったのだと仰いました。意図を読め、と彼は念を押しました。私は、心に深くそれを刻み込み、二度と忘れまいとしました。
長く続く過酷な入院生活により精神をも患った患者を担当した時のことでした。その方は、死にたい、もう楽にしてくれ、と仰いました。私は、苦痛を出来る限り取り除きますから、生きましょう、私はあなたに生きていただきたいのです、とお伝えしました。ただ、その苦痛から逃れたいという事を言葉にしたのであって、本当の死を望むのでは無いのだろうと理解したからそうお伝えしたのです。ですが、患者は言いました。お前に何が出来る、どんな医者でもこの苦痛を取ってはくれなかったし、看護婦ごときに何が出来る、小娘が無責任な事を言うな、そんなので生きようという気にはならない、と。
私は、怖かったのです。自分が大した力も持たぬ馬鹿である事を自覚しておりましたから、私が救うから生きてくれなどと言うのは、本当に無責任で、意味のない事だという気がしてなりませんでした。私にそう言われたところで、一体どうして救われるのでしょう。けれども、公彦さんは、私にその言葉を求めたのです。それならば、次からは、その様にお声掛けしようと思いました。きっと、彼にはそれが合っているのだから、と。
或る日公彦さんは、同じように、死にたくて堪らないと仰いました。私は、心に刻み込んだあの言葉をお伝えしました。言ってほしいと言われた事をそのまま口にするだけになってしまう気がしたのが気掛かりでしたが、私の本当の気持ちとは些かの乖離もありませんでしたので、そのままお伝えしました。けれども、不安は当たり、君は言われた事をそのまま口にしているだけでは無いか、僕が言わせているんだろう、と、彼は仰るのでした。そう感じなさるのも当然の事なのです。私は、それが予想できておりましたし、どうして彼がそれで泣いたのかもわかっていたと思います。
単純な思考の馬鹿な私は、鸚鵡の様に言葉を吐きますし、傀儡の様に、引かれた糸に連動して腕を挙げることしか出来ないので、そこに何の暖かみも無く、心も無く、冷酷無慈悲と感じられるのも、よくわかっておりました。言葉に、態度に表れぬ感情など、無意味に他ならないのです。それは、私とて、よくわかっておりました。
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