さびしがらせよ
公彦さんは、怯えた野良猫の扱いがお上手な方でした。母猫が毒団子で殺された子猫ですら、食べ物そのものに対して持った恐怖心を彼には解かされ、その手からものを食べるようになるのでした。彼自身、多くに怯えていらっしゃるので、寧ろ怯える猫に寄り添い易いのかもしれません。
同じことでした。彼は私の怯えを解くのもお上手でした。心というものも、悪くはないのだと彼は教えて下さるのです。私は心を持たないのでは無いから、よく見て触れてみれば、水を吸って潤うだろうと彼は仰いました。彼は、ふとした風景ひとつについても、作品として何かを感じる事の出来る方でした。私は、本当は、それに憧れていたのかも知れません。手始めに、彼を真似て、私は一体何に心を動かされるのか、じっくりと観察しながら過ごす事にしました。
曇天が好きでした。白い空が好きでした。灰に濁らず、真っ白で、日光を透かして光る雲が、けして青空を見せず、空全体を包み込んでいる様な天気が好きでした。
ぼんやりと白い夕方が好きでした。赤く染まるわけでもない力の無い夕方が好きでした。赤い夕焼けは、美しく、寂しいものでしたが、私には耐えがたい力を感じるようで、それよりは、白い夕方が好きなのでした。そうした夕陽が沈むのと同じ時に、心臓が眠りにつく事を何度も想像しました。
秋が好きでした。それも、じき冬になるかという頃の、秋の暮れが好きでした。枯葉が散ってゆくのを見ると、心が安らぐ様な気がするのでした。
その様な事を公彦さんに伝えてみると、そら見ろ、というような顔を彼はしたのです。
「そういう事を感じられる君が、人の心を持たない筈が無いだろう」
はじめての事でした。私の心は、その時初めて、実体を持ったのでしょう。その時、少なくとも私はそう感じたのです。そういう君が見たかったんだよ、と彼は言いました。ああ、あの閑古鳥の句は、そういうことだったのですね。なんと、物好きなこと。
幸せであり、怖くもありました。彼しか居ませんでした。彼と過ごす時だけが、私が心を手にできる時間だと思いました。あれほど心に怯えていたのに、喉から手が出るほど欲しいものでもありました。彼は唯一、私にそれを与えて下さるのです。そんな彼と離れる事が、今度は怖くなりました。私は考えました、彼に絶対に嫌われず、私を側に置いて頂くには何をすれば良いか。私は、彼に尽くそうと思いました。あの決意表明の時と、する事は変わらずとも、その意志はより一層強まっておりました。尽くして、尽くして、彼にとっての理想となれば、彼が私に嫌なものを感じることなど有り得ませんから、ずっとお側にいる事も叶うだろうと、そういう計画を立てたのです。
理想のはっきりしたお方でした。彼は、理想をよく口にするので、私はそれを必死に覚えました。人に寄り添うとはつまりなんなのか、彼の理想とはつまり全てそこに帰結するものなのだと理解をしました。私がナイチンゲール先生に求めた答えを、彼は知っているのだと思いました。尚更、学ばねばならぬと思いました。
「君くらい、僕の理想話を聞いてくれる人は初めてだよ」
公彦さんは、或る日私にそう仰いました。彼に、良い事ができた。そう思いました。こうして、彼がずっと欲していた本当の理解者というものに近付き、それに成れば、彼は私から離れる事は無いのだと、実感を得るのでした。それは、不器用な私なりの束縛でもありました。彼が私と共に居て、何の得が有るのかと考えると、私というのは空虚な馬鹿でしかありませんでしたから、私に大きなものを与えて下さる彼の様に、私が彼に何かを与えられるような気は少しもしなかったのです。それなのに、他の娘達などでは無く私を見ろと、一体どうして言えましょう。私は、彼を一番幸せに出来る人間となり、彼の側に永遠と居る事を望みましたので、逆に、彼が何をしようと、例え私では無い他の娘と逢引をしようと、気にかけぬ事にしたのです。それが彼の幸せなのだとしたら、私は何も申し上げない事に致しましょうと、自由にして頂く事が、私にできる唯一の束縛でありました。
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