夜は短し、鳴けよ、鶯
フローレンス・ナイチンゲールは看護学の祖。Notes on Nursingには彼女の築き上げた看護の極意が記されているのです。日本というのは、看護婦を育ててはいるものの、彼女の言う「看護」とは程遠いものしかできない看護婦が多くを占めていると、私は思っておりました。しかしながら、私とて、それには程遠いのです。看護とは、人間としての善さが求められるのです。何もかもが私には足りておりませんでした。生活の全てにおいて、看護婦として相応しいのか、と自問を繰り返さねばならないと思いました。いつしか、看護学を学び始めた私の心には、空想の「ナイチンゲール先生」が宿る事となりました。実際のナイチンゲールがそういうお方だったのか、無論私は知りませんが、私に問いかけてくる厳しい教官殿の様な声を、私は勝手にナイチンゲール先生と呼ぶ事にしたのでした。
私は食器を引っ掛けて倒しました。ナイチンゲール先生は仰いました。作業域を確保なさい。導線を考えなさい。作業をし易い様に物品を配置するのです、と。
私はうっかり忘れ物をしました。ナイチンゲール先生は仰いました。必要なものは事前に挙げておきなさい。そして、何度も持ち物が正しいか、過不足と間違いがないかを確認なさい。それが患者に投与する薬剤であったらどうするのです、と。
はい、ナイチンゲール先生。次は、気をつけます。
私は、今、公彦さんに縋られておりました。それはもう、文字通り、縋られているのです。泣いていらっしゃいました。はじめての事でした。
彼は、世界の皆が、自分の敵であり、自分はどうしたって独りなのだと仰るのでした。私に向かってそう仰るのですから、私に何かしらの応答を求めている筈です。何を言えば良いのでしょう。思っている事を素直に口にするとすれば、そうお思いならあなたは何故私にその事をお話になるのですか、となります。でも、これでは些か、考えの穴を突くようで気分が良くないかも知れません。私は彼にとって敵なのでしょうか、味方なのでしょうか。彼が私をどの様に捉えていらっしゃるかにもよって、言える事は変わってくるのではないでしょうか。私は彼の味方でありたいとは思っておりますが、彼があの様に言うのであれば、私の事を味方とは思っていないのでしょう。しかし、彼は私にお話下さいました。何方なのでしょう。考えるほど、わからなくなって来る。
ナイチンゲール先生、この様なとき、どの様に声をかければ良いのですか?
ナイチンゲール先生は、寄り添いなさい、と仰いました。
ナイチンゲール先生、私はそれは知っているのです。寄り添うためには、どうすれば良いかというのが知りたいのです。
ナイチンゲール先生の声は、聞こえませんでした。
公彦さんの声で、私は呼び戻されました。
「恋人ですら、僕の考えはわからないと言う」
「まぁ、愛していらっしゃる割に、愛する方の考えを理解しようとする根気も無いのですね、その方は」
つい、何も考えずに口を滑らせてしまいました。公彦さんは、乾いた笑い声をあげました。
「愛されていないんだろうよ。皆、形だけの恋人なんだ、どうせ。僕は、女を誘う事は出来ても…愛される事は無いのだろう」
なんだか、気に食わないと思いました。
「考え抜かれたあなたの思想が誰にも理解されないとは、勿体ない事ですね。私なら、どんなに難解だろうと理解して、その考え抜かれた作品の様なあなたの思想を鑑賞したいと思うのですが」
もはや、ナイチンゲール先生などどうでも良い。今は、看護婦になる前の私として、思った事を言わせてほしい。たとえ、間違っていたとしても。
何が私をそう動かしたのかは知りません。
「少し、自分が表れたね、君」
公彦さんは、私の頬を撫で、そう言うのでした。ナイチンゲール先生のことなど、彼は少しも知らないでしょうに、何故。
私は私の頬を撫でた彼の手を退けて、少しばかり間を取って、礼をしました。それは、私を立て直す為の、まじないの様なものでありました。
公彦さんは、先程までの様子と変わって、無論、まだ物悲しげではありつつも、にんまりとこちらを見つめていらっしゃいました。彼は、私に比べれば、よく笑みを見せる方ではいらっしゃいましたが、私の前ではむしろ、その様な顔はなさらないので、たまにこうしてにんまりとされますと、私は意味を取りかねてしまうのです。彼は道化のような方なのです。ご自分の何かを守る様に、陽気に演じていらっしゃるのだと、私の当たらない直感は言うのです。でも、私にこうして向けられるにんまりとしたお顔は、それともまた何かが違う様な気がしてなりませんでした。
その夜は、思い出せぬほど、瞬く間に明けてゆきました。
仕事中、甕を割ってしまいました。患者を驚かせてしまい、先輩の看護婦には叱られ、ナイチンゲール先生にも叱られました。
白い仕事着から着替える時に、何やらその白の布に黒い染みが付いていることに気が付きました。なんの汚れなのでしょうか、持ち帰って幾ら洗ったとしても、それは落ちないのです。しかし、これでは不潔に見えてしまいますから、仕方なく、私はその染みの上に白い布きれをあてがって、縫い付けておくことにしました。
たった少し、針仕事が増えただけなのに、いつもよりもずっと疲れてしまいました。台の上の布の上に突っ伏しておりますと、襖の向こうから、声が飛んできましたので、中にお通しすると、公彦さんは私に向かって倒れ込んで来たのです。咄嗟に受け止めると、彼は私の後ろにある白の仕事着と、余った白の布と白い糸を見て、にやりと笑い、今度は私を見ました。
何かあったのですね、と声をかけますと、彼は一度首を横に振り、次に、縦に振り、でも、もう良いのだと仰いました。何かに苦しんでおられました。どうにかして重荷を外して差し上げたいと思いました。どうすれば良いのかしらと考えておりますと、目が合い、次の瞬間には、唇が重ねられていたのです。
今度は、何をしているのかを理解するだけの余裕がありました。私は、ただ、じっくりと、彼から向けられる何もかもを受け止めることだけを考えておりました。そうして、夜を過ごしました。それ以外のことを考えてはいけない気がしたのです。それは、決意表明のようなものでもあったのかもしれません。もう、後には引けぬのだと、自分に言い聞かせてやるのです。そうしなければ、お前は人間にはなれないのだと、誰かが言ったような気がしたのです。あれはナイチンゲール先生なのかしら。まさか。私の中のナイチンゲール先生はそんなことは仰らないはず。誰なのかしら。
何年ぶりだったのでしょうか。気がつくと私は泣いておりました。涙知らずの乾いた瞳でした。私はもう一度も泣かないのだと、いつからか思っておりました。公彦さんはどういうわけか満足気な顔をして私を見ました。けして私のことを泣かせたことが満足なのではないのでしょう、彼は優しく私の涙を指で掬い取るのです。それは、まるで、まだ芽吹いたばかりの柔い双葉についた滴を掬うようでした。
「私は、どうして泣いているのでしょうか」
おかしな事を言うね、と彼は言いました。情動の理由付けを他人に求めるものでは無いよ、と言うのでした。私にはどうしてもわかりませんでした。彼が私を優しく見ているという事を意識すると、もっと、もっと涙が溢れてくるという事だけはわかりました。私は何故か、それには弱かったのだと思います。触れられると、身の内側がむず痒く、それに堪えきれそうもなく、振り払ってしまうのですが、彼はそれでも辞めずに触れてくださるので、そのうち私は観念したのです。いよいよ、ほんとうに、退路が途切れた時でした。
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