桐たんす


 下宿の彼は、或る日、このような事も言いました。


「桐子さん、君は本当に、君の名前が自由なものと思っているのかい」


 そう言う彼の名は、公彦さんでした。いかにも高貴なお名前。彼は彼で良い生まれの方と聞いておりましたから、概ね、その家に相応しく高貴であれ、との事なのでありましょう。


「僕はそうは思わないけどね」


 私がまだ何も言わないうちに、彼はそう続けるのでした。


「そうでしょうか。生まれた日、庭に桐の花が咲いていたからだそうですよ、ほら、あの木です。今は花はありませんが」

「桐といえば桐箪笥、嫁入り道具じゃないか。昨日だって、君は母親に、いずれ独りになった時具合でも悪くなったらどうするのだと言われていただろう」

「患者を相手にしていますからね、伝染されたらどうするのかしらと思っているのでしょう」

「君は本当に意図が読めないんだな」


 返す言葉もありません。そういえば、閑古鳥の句の意味だってまだよくわからないのです。桐箪笥の桐の名を持つからと言って、親が私に結婚を望んでいるのだと言えるのでしょうか。


「桐子さん、桐というのはね、鳳凰がとまる木でもある。紫色は高貴な色だし、色々な意味で、そうやって持て囃される神聖な木なんだよ」

「木がそうであるだけではありませんか。私がそうなれと言われた事はありませんから」


 どういうわけか、自分でもわかりませんが、その時の私は笑っておりました。笑っているのはいつものことだったかも知れません。ただ、その時、自分が笑っているという事を何故か意識し、記憶に残っているのです。


 その後、どういう会話をしたのか、あまり覚えてはおりません。



 街を歩けば、華々しいなりの若者達が目につきます。とりわけ娘さん方のなんと華やかなこと。恐らくは、蝶よ花よと愛でられ、育てられてきたのでありましょう。私には、縁の無い事でした。さして着飾る事に興味も無く、何時も、何の変哲もない、普通の清潔な着物を着るのみ。簪など、髪が纏まれば用は済んでいるのですから、それで良いのです。それだけで満足をしてしまうから、愛でられることが無いのでしょう。しかし、愛でられるほどの可愛げというものを持たぬ私が着飾ったところで、高が知れているとも言えるのです。卵と鶏は何方が先なのでしょう。


 通りすがった簪屋で、目の保養のためだけに簪を眺めて家に帰りますと、夕飯時だというのに公彦さんは帰っていらっしゃいませんでした。とは言え、珍しい事でもありませんでしたから、私は特にだからどうするわけでも無く、何時もの時間に御夕飯を済ませ、何時ものように入浴し、あっという間に一日が終わろうとしていました。公彦さんは、まだ帰ってはいらっしゃいませんでした。大方、何処ぞの娘さんと夜を過ごそうとしているのでしょう。恋多きお方でした。どういうわけか、私は彼が想い人の女性について語るのをよく聞かされておりましたが、まあ、なんとやら。さびしがっておられるのだわ、と思いました。馬を乗り換えるかのように相手を変え、世には遊び人と言われても仕方の無い事を彼はしていたのでしょう。彼が私に恋の話をなさるのは、決まって元の恋人の方に恨みを向けられた時でしたので。ですが、私は彼が遊ぼうと思って女遊びをしているようには、どうしても見えなかったので御座います。何時も、その日の想い人のことを語る彼は真剣な眼差しでいらっしゃるのですから。しかし、それは、紛らわせ、誤魔化し、縋るようなものにも見えました。根拠は無く、ただ、なんとなく、私の直感はそうだと感じているのです。とはいえ、私の直感は当たらないのです。だから人の心がわからぬのだと言われるのです。私は彼の話をただ聞くことしかできませんでした。


 床につき、うつらうつらとしていた頃、玄関の方でバタンと物音がしましたので、私は飛び起きて様子を見に行きました。玄関には、公彦さんが倒れていらっしゃるのです。何事かと思い、うつ伏せの顔を仰向けに返しますと、まぁ、酔っているのは明白でした。外で呑むなど珍しい、などと思いつつ、一先ず私は彼を担いで運び、ひとしきり吐かせた後に、水を飲ませては厠へお連れし、ということを繰り返し、体の中の酒を抜かせるようにしました。幾らかやつれた様なお顔ではありましたが、そうしているうちにややすっきりとした様子になりましたので、頃合いを見てお部屋にお連れし、寝床を用意して横になっていただきました。体の中のお酒が大分抜けましたので、もう大丈夫だと思います、と告げて帰ろうとしたところ、彼は私に背を向ける様に寝返りをうち、

「そうやって、皆いなくなる」

と、それだけ口にしたのです。


 あぁ、やはり、さびしいのだわ。そう、合点がいきました。しかし、私に何ができるのでしょう。良い言葉が何も浮かびません。私は、改めて寝床の横に座り直し、後ろから頭を撫でる事しか出来ないのでした。


 夜は毎度突然に明けるのです。

 ふと気がつけば、すっかり日が昇っておりました。休みの日だからと気が抜けていたのでしょう。私は昨日と同じ、寝床があった場所の隣にすっかり横になって眠ってしまったようでした。しかし、布団は既に片されており、代わりにそこには、公彦さんが胡座をかいていらっしゃるのです。


「……他人様のお付き合い相手の殿方の部屋で眠ってしまうとは、不覚でした」


 本音を私なりの冗談で包んでお渡ししただけでした。これがいけなかったのでしょう。


「居ないよ。昨日居なくなった、そんなものは」


 あぁ、だから飲んで倒れなさった、と。だからさびしがっておられたのだ、と。何故気付くのが今だったのでしょう。だから、人の心がわからぬと言われるのです。


 彼は、直ぐにまた新たなお相手を見つけた様で、その方の為に贈り物を用意している所を見かけたりなどしました。まぁ、何ら不思議は無いのです。彼には、人を惹きつける何かがあるようなのです。私には、よくはわかりませんでしたが、実際、彼の事を噂する娘達を私はよく目にするのでした。彼自身も、狙った女がこちらを振り向かなかった事など無いのだと言いました。私はそれについて何を思うわけでもなく、何を申し上げるわけでもありませんでしたが、なんだか私では決して辿り着ける事のない、遠い所に彼がいる様な気がしたのでした。


 また、私は簪屋に足を運び、何も買わずに帰ろうとしておりました。何の意味もない行為だとは思いつつ、何故か、やめられない。あぁ、繊細な、手の込んだ装飾だこと。これを髪に挿したら、どうなるかしら。


 でも。

 私は顔を上げ、引き返そうとしました。振り帰ると、予想外にそこに人がいらっしゃいましたので、私はつい、仰け反ってしまいました。しかも、よく見知った顔なのです。


「……すみません、わかりやすく驚いて、失礼を。公彦さん」

「その簪、買わないのかい。似合うじゃないか」

「似合いません」


 私は何かに焦っていたのかもしれません。私は、反射的にそう答えていたのです。


「僕の見立てを間違っているとよく言えるね」

「欲しくもありませんから」

「そんな人はわざわざ店に通ったりしないよ」

「私は欲しいと思ったことはありません」


 そう、無いのです。一度も無いのです。買ったところで何になりましょう。そう心の中で自分の気持ちを確認していると、彼はどういうわけか、にんまりとなさいました。


「すごい顔だな」

 咄嗟に俯くしかありませんでした。表情のことだよ、と彼は続けました。そんなのは何方でも構わない。私は、失礼にもそのまま、何も言うことなく、その場を立ち去ることにしたのでした。


 似合うじゃないか。ぐるぐると、頭にこびり付く声でした。早く消えてしまえ。私はひたすらそう念じるのです。あんなに綺麗な簪が似合うと言われたのです。普通に考えたら、喜ばしいことではありませんか、私は何故、吐き気まで催しているのでしょう。


 すごい顔と言われた私の顔が、あのときどんな歪み方をしていたのかはわかりませんが、そちらの方がよほど、受け入れ易いものでした。しかし、後から考えてみれば、彼は本当にそう言ったのかしら、と、疑問にも思うのです。私は、しばしば、本当に言われた事とはやや違う記憶を瞬時に行なってしまう性質を持つのでした。私の解釈は一瞬のうちに起こるため、私の思い込みにより変換されてしまうのです。彼は、彼はそんなことを言うようなお方だったでしょうか。わかりません。


 彼は、美意識、美学の塊の様なお方でいらっしゃいました。独自のそうした軸をお持ちであり、美しいものだけを常に身の回りに置こうとしていらっしゃいました。誰にも譲れぬ拘りがそこにはあるのだそうで、つまり、美しさに嘘はつけないお方のはず。では、あの綺麗な簪が似合うと言うのは。あぁ、でも彼は私を、すごい顔をしていると仰った。もう、それで良いではありませんか。


 家に帰ると、庭の桐が目につきました。桐箪笥の桐。嫁入りの象徴、娘らしさの象徴。その意味を込めた名だとしたら、私は何故今この様になっているのでしょう。娘らしい可愛げが無いとしか言われてこなかった人生でした。本当の事でしたから、それで良いと思っておりました。私は独り、蝶として羽化する事も、花を咲かせる事も無く、淡々と、看護という面白い仕事に一生を捧げるのです。

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