憂き我は鶯知らず

麻比奈こごめ

閑古鳥

 我ながら、良い家の生まれではあったと思っております。明日の食事に困るということとは無論縁も無く、祖父も、父も医師をしておりました。また親族にも、医師に限らず、師範などをしている者も多く、学校長を務める方もいらっしゃいます。女衆も皆女学校を出、なんの不安定の事もなく、当然のように良い縁談を見つけ、これまた安定のお家に嫁いでゆくのでした。苦労知らずなのです。私は、そういった環境で生まれ育った者なのですから、苦労を知る筈が無いので御座います。


 医師という堅苦しい職にありながら、父は私に良くして下さいました。厳しすぎず、かと言って、甘やかすでも無く、幼子の私がおいたをしたならば、怒鳴りつけることなく、鞭を振るうこともなく、何故それをしてはいけないのか、順序立て、論理を以て説明して下さるのです。本当にお叱りになるのは、それをして尚、二度目に同じことを私がした時くらいのもので、私は大抵は一度の説明で納得を致しましたので、父に叱られるという経験は殆ど無かったのでした。


 母は私に、自由にせよと言うのが癖でした。名付けの親のお祖父様はそれをお望みで、あなたに「桐子」と名を付けたのですよ、と。桐の花が咲く頃に生まれたから、桐子、と、ただそれだけの意で名付けたのだと。何も望むまい、この赤子の思う通りに生きれば良い、と。なんと有難い事で御座いましょうか、そのお陰で私はあの頃も嫁ぐ事なく学業に励み、働きに出る事が出来たので御座います。そう、ちょうど二十歳の年でした。女学校の在学中、そうでなくとも卒業してすぐに、多くの御同輩方は良いご縁に出会い嫁いでゆかれました。女学校を卒業し、まだ結婚をせずその後看護の学びを得た私は、与えられた自由を謳歌していたと言って良いでしょう。


 そうしたわけで、何一つ不自由が無かったのです。自由を選び、突飛な道を歩む私を変人と扱う方もいらっしゃいましたが、気にする事ではありません。早く嫁いでいった御同輩の中には、より多くの学を望む方もいらっしゃったので、そうした娘さん方には、私はそれはそれは羨ましいと言われたものでした。あなたは幸せ者ね、良い環境に恵まれたのね。憧れの的になったところで面白い事は何もありませんから、特に私は何も言わずにおりましたが、それでもその声が止むことはありませんでした。


 ただひとり、私が幸せか否かについて、何方とも付かぬような素振りを見せる方がいらっしゃいました。


 彼は、或る日唐突に、私にひとつの芭蕉の句を寄越しました。


 憂き我をさびしがらせよ閑古鳥


 はて、私は文学というものには如何にも相性が良く無かったので、彼が何を意図して私にその句を寄越したのか、さっぱり見当もつかず、首を傾げることしかできませんでした。


 彼というのは、我が家を下宿として利用する大学生でした。彼の言うには、両親と如何にも折り合いが良く無いので、飛び出す口実を作るため、わざわざ遠方の東京の大学に進む事を決め、我が家に流れ着いたとの事。彼を一目見た時、私は何かの直感が働き、彼とは良き友となれるかも知れない、と感じました。しかしその過去を知ったらどうでしょう。今度は、きっと彼とは親しい仲にはなれぬだろうと思いました。直感ではなく、経験から、でした。恨みも何も御座いませんが、私という人間は、そのような苦労をなさった種の方々にはいつだって嫌われるものなのでした。無理もありません、敵視される理由くらい、私にだってわかりました。ですから距離を置くのが得策なのです。私は元々人と関わり合いになる事にもさほど意味を見出してはいませんでしたから、傷を負わせる可能性を持ってまで、私の事を明らかに嫌うであろう方に近付こうという気にはならないのです。


 人はいつも私に言うのでした。お前は人の心がわからぬから、知らずのうちに人を傷付けているのだ、と。人の心がわからぬから、傷付けている事にも気付かずにいるのだ、と。そして人の心がわからぬから、傷付けた事がわかったとしても気に病まないのだろう、と。


 そうなのでしょうか。私はよくわかりませんでしたから、否定も弁解もせず、そう言われるたび、頭を下げる事しかできないのでした。しかしそれもまた、心にも無い謝罪をするな、と。その通りなのです。何もわかっていないのに、それが礼儀であるからひとまず謝罪をするだけ。やはり、私に人の心など無いのかもしれないと、そういう時に初めて実感を得るのでした。


 そのような私に、あの句を寄越してきた彼の意図が読める筈も無いのです。直接意味を訊ねるなど、恐らく情緒に欠ける事なのでしょうが、わからずじまいで御返事も何も差し上げられない方が失礼かと思い、私は訊ねてみる事にしたのです。


「わからない?そう言っているうちは何時まで経ってもわからないだろうね、君」


 そう言われるだけでした。わかるまで返事も何も要らぬから、考えろ、と。どんな試験の問題よりも難しいものを与えられてしまったと思いました。

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