夏越しの紅金魚

@___mugi

夏越しの紅金魚



「もし人間以外に生まれ変わるとしたら何がいい?」

「欲がないなあ。俺は鳥がいい」

「鳥になれたら……」


 たられば自由人。無邪気と言えば聞こえはいいけれど。その破天荒さが持つ色彩が私の人生には鮮やかすぎたのだと、今ではそう思える。




 私を呼ぶ笑顔が薄らいで、目が覚める。居心地の良いような悪いような不思議な夢だった。少しずつ遅くなってきた日の出は、ほんのりとした涼しさをまとう。

まだ午前5時前。のそのそと起き上がりカーテンを開けると、窓に貼り付く暗いグレーの景色。秋の長雨。ニュースは連日、雨の話題で持ちきりだった。


たいして好きでもない、ときどき吸うだけの煙草に火をやった。9月22日──誕生日の朝。もう、それくらいしかすることがない。肌寒さと心許なさから、放ってあった深紅のカーディガンに袖を通す。


極端に彩度の低い部屋。モノトーンが好き、というか、そういったもので身を囲うと落ち着くのだ。そんな空間でいつまでも馴染めずにいるこのカーディガンが、どうにも愛おしくて手放せずにいる。連絡もデートも自分次第。仕事と私どっちが大切かなんて子供じみた質問はしなかった。そんなこと訊かなくたってわかる。それでも嬉しかった。てんで趣味じゃない色のカーディガン。先にくたびれたのは私のほうだった。




──誕生日おめでとう。

 声が聴こえるようでも振り返らない。振り返った先に彼の姿を見たためしはないから。ぼうっと視線を投げた机上で、日記帳と目があった。手に取れば、ブックカバーの濃紺は深く、どこまでも沈んでいけるような気さえする。


新しいページを開いた。まず日付、それから“鳥になれたら。”と書いて、その空想の続きを思いつくかぎり箇条書きにしていく。

空を飛ぶ。海を渡る。大きい声で鳴く。街中のカラスを懲らしめる……。

薄い、どうしようもなく薄い空想を書き出していく。


ただそれだけの時間がごくたまに必要になることが、もうわかっているからだ。日記として書き続けることも、思い出として読み返すこともなくなった一冊が、手の届くところに置いてある理由。


結局ぱっとしたものが思いつかずベッドに戻ると、その日はくったりと眠り込んでしまった。




「誕生日に独りになんてするわけないじゃん。約束してもいいよ。でも俺が会いに行けないときは、そっちが会いにきてね。」

 図々しく笑う声が遠くなり、かわりに雨音が響く。目が覚めるとすっかり夜になっていた。

「そうだ。」

窓がぽつぽつと鳴っている。カーテンを閉めて日記帳を手に取ると、ペンを走らせた。たった一つの続きをページに閉じ込める。カーディガンを羽織りなおして部屋を出た私は、日記帳だけを持ってマンションの屋上へ向かった。




 じゃりじゃりと音を立てる、錆びた非常階段。まるでお飾りのような“立入禁止”。管理がずさんなこのマンションは、小奇麗な外装に反してぼろぼろだったのだろう。屋上を囲うフェンスもすっかり風化している。掴んで力をこめれば、簡単にひしゃげて通り道ができた。両手はべったりと汚れ、私は、それがきっと赤茶色であることを想像する。


狭い部屋から飛び出し、フェンスを越え、たったそれだけで自由の頂点に立ったような気分。まとわりつく濡れ髪も厭わず、さらには、手の汚れさえ誇らしいほどに。金網越しの情景だって、指の触れそうなところまで手繰り寄せてみせた。

どれほどちっぽけで寂しく、掬いようのない心であったか。永遠というものは味がしなければ、孤独そのものだった。赤く点滅する航空障害灯が今夜も遠い。



 雨の滲みた日記帳はページが貼り付いて、もうめくることはできなくなった。これ以上触れては崩れてしまいそう。できるだけ優しく、足元に置く。瞬間、懐かしい情景に引き戻された。ちょうど今日みたいな秋雨の夜。手が疲れて傘が傾くほど話し込んだあの夜を、この湿度のなかに感じる。

それ以上深くは覚えていないけれど、どうせたいした話なんてしていない。それだけは確かにわかる。



私は空を飛んだ──。

どうでもよくて当たり前で、馬鹿らしくて。忘れてしまうほどに大切だったこと。

こんな瞬間に思い出すのは、約束を欲しがった代償だ。




 秋雨はガラス越しに見ていたよりもずっと強く、アスファルトを、そして私を打つ。

──ああ。カーディガンの紅色が流れ出してしまう。

ぼんやりと、そう思っている。







 9月22日

 鳥になれたら貴方のところに行きたい。

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