第 漆 話
* * * * *
桃次郎が走り去った方向から、河原の方に向かったのは分かっていた。
後を追って辿り着いた河原で、まず最初に目に付いたのは、昨日までそこにはなかったはずの大きな黒い木だ。
黒い木は十尺程度の大きさで、昼間見た黒い桃がいくつも成っている。
コイツが店主を狂わせた原因なのは、間違いないだろう。
そして、同じ黒い桃を桃次郎は手に持って黒い木の近くに立っている。
「馬鹿な真似はよせ、桃次郎!」
オレの姿を確認した桃次郎は、手にしている桃に視線を移してから口を開く。
「……僕は、生まれて初めて、自分の我儘を貫こうとしています。……何故こんな気持ちになったか、貴女に解りますか?」
桃次郎から、
桃次郎の後ろにいる黒い木の異常さに、本能がこれ以上近付くなと告げている。
「悪ぃがサッパリ解らねぇ。お前はもっと思慮深い……強い奴だったはずだ」
「……ありがとうございます。ですが、僕はどうしても超えなくてはいけない存在がいるんです」
「……」
「僕にぶっきらぼうな手を差し伸べてくれた『鬼嶋円』という高い高い壁を超える為、僕は僕である事をやめる!」
「止めろ、桃次郎!」
黒い桃を口に運ぼうとする桃次郎を見たオレは、無意識の内に走り出していた。
あと少しで桃次郎の手に届くと頃で、腹に衝撃を受けて後ろに吹き飛ばされる。
地面を転がっても勢いを殺しきれず、辻斬塚の墓を全て薙ぎ倒して、やっと停止した。
「クソッ……。何だってんだ?」
顔を上げて桃次郎の方を見ると、黒い木の周囲から太い根っこが数本突き出して蠢いている。
「おいおい……。あの木、意志でもあるのか?」
そうこうしている内に、桃次郎が黒い桃を丸ごと食べてしまった。
桃次郎の全身を、人間ではない気配──『妖気』が包み込んでくのを感じ取る。
「馬っ鹿野郎が!」
「…………」
白かった肌は褐色に変わり、瞳の色が血の様に紅く染まって──。
「……は?」
桃次郎の姿が消えたと思った瞬間、背後から両手を後ろ手に拘束されてしまった。
少し力を込めた程度ではビクともしない。
明らかに、先ほどまでの桃次郎が出せる腕力ではなくなっている。
「桃次郎! てめぇ、何のつもりだ!」
「……人ならざる力を取り込んで、ようやく理解しました。やはり、貴女は人ではなかった。かつて父……桃太郎が滅ぼした鬼族の生き残りだったのですね」
真後ろに立っているせいで、桃次郎の表情を窺い知る事は出来なかったが、声色からは別段、驚いている様子は感じ取れない。
まぁ、オレもそこまで隠そうとしてはいなかったからな。
オレが桃太郎を恨んでいる事は知っていたし、村でのやり取りも含めて、ある程度は察していたかもしれない。
「……あぁ、そうだ。人間じゃなくて失望したか?」
「いえ、むしろ納得しました。祖母は、貴女が何故父を恨んでいるかまでは教えてくれませんでした。一族全て抹殺されてしまったのであれば、その恨みたるや想像に難くありません」
「そりゃ、どうも!」
オレは全身に力を込めて、桃次郎の拘束を強引に解きに掛かる。
骨の軋む感触を覚えながら、桃次郎の手を振り払い、そのままの勢いで桃次郎に拳を振るう。
しかし、桃次郎は軽やかにオレの拳を躱すと、再び黒い木の前に移動した。
「この力を持ってしても、単純な力比べでは貴女に敵いませんか……。ますます、超えがいがありますね」
「なんでオレを超える事に拘るんだ?」
オレの質問を聞いた桃次郎は、一瞬驚いた表情を見せると、何かを諦めたように笑顔で首を横に振る。
そして、今までとは違う、少し緊張を含んだ真剣な表情を見せると、口を開いた。
「貴女が好きだからです」
………………は?
「貴女が好きだから、貴女が納得するだけの力を示す。……弱い男では貴女に相応しくありませんからね」
──こいつ、本気で言ってんのか?
「本気で、言ってんのか?」
「冗談を言って良い内容ではありませんよ」
真剣だ。……と思う。
桃次郎の表情や声に嘘は感じられない。
正直、この状況で何を馬鹿正直に告ってんだと思って、内心動揺が酷い事になっているが、その反面、表面のオレは異常な程平静だった。
オレは深く溜め息を吐いた後、軽く準備運動をして体を伸ばす。
「そうか……。なら、解らせてやらねぇとな。お前の勘違いに」
桃次郎を真っ直ぐ見て宣言した。
今この瞬間、やらなきゃいけない事は解っている。
「……殺してしまっても、恨みっこなしですよ?」
物騒な事を言いながら、桃次郎は嬉しそうに薄汚れた刀──恐らく辻斬塚に供えられていた武士のだろう──を構えた。
恐らく機会は一度だけ。
桃次郎の言った『殺してしまっても』という言葉は冗談ではなく、本気の一撃を以って応えるという事だ。
場合によっては、オレの首か胴体がサヨナラする事になる。
それは勘弁してもらいたいが、今のオレじゃ桃次郎の動きが追いきれないの事実だ。
まぁ、それでも手が無いわけじゃねぇ。
ただ、オレじゃ手が出せない。
「……参ります!」
「来い! 桃次郎!」
桃次郎が神速の動きでオレに迫る。
今度は意識を集中させていたので、辛うじて桃次郎の動きを捉える事が出来た。
とはいえ、桃次郎の動きに合わせてこちらの拳を当てる事は叶わなそうだ。
先の攻防の時の様に、ワザと体を斬らせる事も出来ない。
なら、どうするか?
「──うらぁっ!」
「なっ⁉」
オレは拳を構えるフリをして更に踏み込み、桃次郎の斬撃の内側に入り込んだ。
そして、そのまま桃次郎に体当たりをした。
「──ぐっ!?」
流石に予想はしていなかったのか、一瞬だけ桃次郎の動きが止まる。
オレはその一瞬の内に、自分の小袖の帯を解く。
「な、なにを!?」
「ほらよ!」
とりあえず距離を取ろうとする桃次郎に向かって、脱いだ小袖を投げつけた。
オレは普段から小袖の下に
というか、故郷では晒と腰巻が基本の格好だ。
小袖の影に隠れるようにして、桃次郎に迫る。
だが、小袖を貫いて刀の切っ先がオレの──を切り裂いた。
「……
──を斬られた事で、オレの雑に伸ばしていた髪が靡く。
血が頬を伝う感触に、自然と笑みが零れる。
「あぁ、そうだな。媼が言っていたのは嘘じゃなかったな。考えるな、感じろってか?」
桃次郎が切った髪紐》が地面に落ちた。
そして、それはオレにとって『力の解放』を意味する。
「……これは、一体」
桃次郎もオレの異変に気付いたのか、言葉を失いながら後退った。
オレの内側に押さえつけていた『モノ』が溢れて出て来る。
「悪いな、桃次郎。これが『本当の鬼』だ」
視界の端に入る自分の髪が黒から赤に染まっていく。
髪紐に施された封印の術が解けた証だ。
あれこれ確認するまでもない。
オレは一歩踏み込んで、桃次郎の腹に拳を振るった。
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