第7話 過去という影

『ねぇジン、このまま二人でさ…この研究所から抜け出さない?』


『ダメだよ、見つかったら…』


『もーつまんないの、でもそっか…ジンは進むより止まっていたいんだね』


そう言った少女の顔を、今ではほとんど思い出せない。自分とほぼ変わらない年齢だったはずなのに、どこか大人っぽさがあったその少女。


フェリシーの研究所になる前、別の人が所長をしていたこの研究所ではあまり公には言えない実験を行っていた。それが『能力者』を人工的に生み出すという禁忌。それで生まれたのが俺と今の404、そして死んでいった兄弟達…


「…酷い夢だ」


真夜中、汗だくになりながら目を覚ました。寝つきは良い方なので珍しいことだ。


「ちょっと気持ち悪いな…」


少し夜風に当たろう。あの少女はいつもそうしていた。俺のことをジンと名付けたのはその少女だ。当時俺には名前が無く、番号で呼ばれていた。


だが結局、ほとんどその名前は呼ばれることはなかった。エーデルワイス、あるいは隊長としか呼ばれない。


「…紗夜、いるんだろ」


「バレてしまいましたか…」


異次元から出てくる紗夜、彼女ももちろん研究所で生まれた。彼女の能力は次元の移動と言った方が早いのだが、詳しく説明すると彼女が生きているのは四次元であり、俺達が見ているのはあくまで三次元を移動する彼女だ。つまり、俺達に観測できない次元を移動する間彼女は誰にも干渉されない。それが彼女の能力。


絵の中の人物は前後と上下を視認できても、左右を認識することはできない。それと同じだ。彼女が三次元の軸にいる時だけ、俺達は彼女を見て、触れることができる。…とはいえ、それはフェリシーの見解であり、あまり難しいことは俺も理解できていない。


「何か思い詰めているようで…」


「隠しても仕方ないか…401の隊長が殉職した。ダンジョンで決闘してた時だ」


「…辛かったでしょう」


無自覚に高次元を生きる彼女の感覚は俺たちとは違う。しかし、俺の感情がまるで分からないわけではないことを知っている。


「慣れっこだ」


「本当に?」


「…悪い、久しぶりだったから結構キツい」


だらしない笑みがこぼれた。


「引き戻そうとしたのは私達ですが…お兄様は重荷を背負いすぎていると思います」


「ホント、どの口がって話だがな」


「お兄様は一人しかいないのですから…」


「だからだろ?俺が兄弟の死を無駄にするかどうか、それを決められるのは俺だけしかいない」


死んだ家族失敗作の念は今でも俺を苦しめている、そんな気がしたから、最終的には戻ってきてしまったのだろう。結局のところ、俺は運命と向き合わないといけないらしい。…ダンジョン探索のために生まれた、ただの道具でしかないという運命に。


「意志は明瞭に。確固たる意志がなければ人は壊れてしまいます」


紗夜は消えていってしまった。まだ一言二言言っておきたいことはあったが…


「だからどの口が言ってんだよ…」


……………………………………………………


昨日夜中に起きたせいか、朝になってもまだ眠い。どうせ造るなら睡眠も食事も必要ない体に造ってくれればよかったのにと思うことはあるが、彼女達と食事を楽しめるのなら別にいいかとも思う。


「ふぁ〜…早いね隊長〜」


血のシミがついた寝巻きでキッチンに入ってくるマーガレット。404の朝食は基本早く起きたやつが作る。今日は俺だ。というか今までずっと俺だった。自分で作れば、料理に血やら髪の毛やら薬やらを盛られなくてすむからだ。


「お前もな。コーヒーは?」


「いる、ブラックで〜。あ、シャツが血まみれだよ?」


「誰のせいだと?」


「えへへ…あ、相変わらずミルクだけなんだ。砂糖とか入れないの?中途半端じゃない?」


「これでいいんだよ」


言われてみれば確かに、他の隊員もミルクと砂糖かブラックかのどちらかしか飲まない。コーヒーにミルクだけ、というのは俺だけだ。そうそう、コーヒーで思い出したがリコとニコを見分ける方法として、リコはブラックが飲めない。


「シェフ、今日の朝食は〜?」


「シェフじゃねぇ。…パンの気分か?それとも米?」


「うーん、今日はパンかなぁ」


マーガレットは気分屋だ。ルナリアはパン派、紗夜は米派、フェリシーは特に決まっていないが、マーガレットはパン派になったり米派になったりする。


「サラダは?ソース有り?」


「ポン酢で〜」


長年彼女達と同棲しているがマーガレットの好みだけは把握していない。ころころ変わる彼女の好みを把握していたらキリがない。


「あ、そうだ。隊長、こっち向いて〜」


「?なんだ?またリスカしたのか?」


仮にも刃物を持っているので安易に近づかないでほしいが、神秘を持つ者にとっては関係ないかと、マーガレットの声の方に振り向いた。


「ちゅっ、えへへ〜」


唇に触れる柔らかい感触、息がかかる距離、口の中にほのかに広がるコーヒーの苦い味と香り…


「どう?」


「料理中なんだがな」


「あ、照れてる〜」


「…今更照れるわけないだろ」


「そんなに魅力無い?」


「そうは言ってない」


「じゃあもう一回していい?」


「…別に構わないが…っておい、ベーコン焦げてるじゃねぇか」


フライパンの上で黒い肉が跳ねている。なんともまぁ醜い光景だ。


「大丈夫大丈夫、


「ッ…!!」


体がその言葉を拒絶し、皿を落としてしまった。破片が床に飛び散り、足を切った。


「どうかした?」


大きな破片から拾いながら、マーガレットが俺の顔を見る。


「い、いや…!なんでもない、脂が跳ねて熱かっただけだ。すまんすまん、すぐ焼き直すから待っててくれ」


「?少しくらい焦げてても大丈夫だよ〜」


「そ、そうか?」


失敗作は捨てればいい…その言葉だけが脳を支配した。失敗作…9年前まで当たり前に聞いていた言葉…あの少女は失敗作だったのか?


幸いマーガレットは当時のことをあまり覚えている方ではない。だがいずれ彼女も知ることになる。その時彼女は耐えられるのか…


「ちょっと神経質になった?まるで何かに怯えてるような…私達から逃げたことは怒ってるけど、もう精算し終えたことだから安心してていいよ〜?」


「ああ、そうだな。ありがとう。ちょっと疲れてるだけだ。いやーまったく、体が鈍って仕方ないな」


いや、今はそんなことを考えても仕方ない。彼女は知らなくていい、彼女は傑作側なのだから、失敗作がどうなるかなんて知らなくていい。


「体動かさないとダメだよー?次の任務、結構大規模らしいからねー?」


「大丈夫大丈夫、404は最強なんだ。九年間も誰一人欠けずに現役の部隊なんてここだけだ」


「ふふ、隊長のおかげだよ〜」


気を取り直そう。なに、研究所時代の方がよっぽど苦しかった。毎日聞こえる怒号、失敗作達の悲鳴、それをガラス越しに見る自分。


それが終わって、同じ能力者の兄弟達がダンジョンに向かわされる中、誰よりも傑作だったはずの俺だけは所長の元で実験と訓練を続けさせられた。既に兄弟達が束になっても勝てないほどに強くなっていたのに…


そんな日々に比べれば、たかが一人、会って間もない人間が死のうが何とも思わない。探索者にはそういう精神が求められるのだ。


「美味しそうな匂い…そうか、今日は隊長がいるのですね。私の分もお願いします。何か手伝いますので。それかおはようのキスをお願いします。それさえあれば朝食は不要です」


ルナリアも起きたようだ。彼女の分も作らなければ。今日も彼女の意味の分からない言葉はスルーし、追加でベーコンを焼く。


「いや大丈夫だ、もうすぐできるから。先に座っててくれ」


「健気なルナちゃんがお手伝いしたいって言ってるよ〜?」


「ちょっとマーガレット、その呼び方は…」


「まぁいい、コップだけ用意してくれ」


404、エーデルワイス小隊の一日はこうして始まる。そうだ、俺は何を余分なものを求めている?家族との平和な日常さえあればいいじゃないか。彼女達はここにいるし、俺が命令さえすればずっとそばにいてくれる。


散々叩きつけられたはずだ。守れるものには限りがあると。だから本当に守りたいものだけを決めるんだ。それが探索者になる前に嫌でも理解した真理なんだ。非情に見えるかもしれない。けど、俺が優しくできる人間の数には限りがある。


そうやって自分を正当化しないと俺は壊れてしまうことを自覚できているだけ、俺はラッキーだった。


「隊長の昨日の戦闘記録を見ました。流石です。必死な顔も余裕そうな顔も、痛いけど我慢してる顔も好きです」


「食いながら喋るな。喉詰まるぞ」


落ち着いたルナリアは忠犬のようだが、そうで無いときは狂犬なので注意が必要だ。それを言ってしまえば全員そうなのだが…


今はただ、彼女達の笑顔が何よりも尊い。



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