第2話

自然と、その成り行きは当たり前の様なものだった。

俺、狗神いりがみ仁郎じんろうの生き方は自分で言っても良い程にシンプルだ。

幼少期の記憶など無い、気が付けば、日本の災害が起きた場所で、飢餓に飢えていた事が始まりであった。

年齢は分からないが、肉体年齢から察するに二十代後半であり、其処に至るまでの記憶は全て抜け落ちている。

と言っても、俺が俺として、人格を成す為の人生観が消失したと言うだけであり、それ以外の記憶、右は右、左は左、空には太陽、月、星が夫々あり、地球が回っている、と言う基本的な知識だけは理解している。

なので、計算や語学と言うものに関しては苦労する事は無く、また、俺と言う存在が分からないままであっても、其処に関して絶望も失望もする事は無かった。

記憶が無いと言う事は、人生の大半を無駄にしたと思うだろう。

だが、俺にはそれが無い、そんな喪失感を考えた所で、熱が生まれる事が無いのだ。

熱とは、心音だ。鼓動、命が働く様、俺にとって重要なのはそれだ。

記憶を失った所からが俺の始まりであるのだとすれば、俺の根底、その動き、活動は、どうやら心臓の高鳴りが強いかどうかに定まる。

言ってみれば、何処まで、興奮出来るか、と言うのが肝だ。


それは性的興奮でも、戦闘的な興奮でも良い、退屈だと感じなければ、その鼓動の理由が興奮でも恐怖でも良いのだ。

刺激を求めて俺は彷徨い、そして気が付けば、垰店主に出会った。

俺の境遇と根底を理解しているのか、俺が居るべき場所へと誘ってくれた。


それが、本来、人が接する事など無い環境。

人間社会と言う、人が生活し、人が回り続ける場所が表舞台ならば、垰店主が棲む場所は、その逆である表社会となる。

闇企業、裏バイト、そんなチャチなものではない、人が行い、人が産んだものでは、この世界の闇を表す事など出来ない。


俺の仕事は地下であり、法の届かない場所、否、政府が理解し、尚且つ、社会が認知しない様に徹底している政府公認の闇。

人はその地下を、大迷宮と言う有体な空間命名を行い、その大迷宮に通じる者は「奈落迦ならか」と地獄の名称で呼んでいた。

此処が俺の職場であり、資源を回収する事を目的にしている。

大迷宮と言うからには、それなりのお宝や魔物が存在し、その最奥に眠る秘宝は、人の願いを叶える「夢幻の享受」が可能となる。


「ねえ、ワン…もう、今日は休んで、一日中ゆっくりしない?」


香水を掛け直す垰店主は、そう言って俺を誘っているがしかし、そうは言うが、俺にはまだ仕事と言うものが残っている。

午後には、垰店主本人から命じられた取引があるのだ。


「まだ、仕事があるので」


俺はそう言って帽子を被り直すと立ち上がる。

残念そうにしている垰店主は、衣服のシワを伸ばしながら、煙管に口をつけた。


「じゃあ、仕事が終わったら、また逢いましょう?」


俺を離したくないのか、何かと誘って来る。

最近は、薬を使用しなければ興奮すらもしてこないので、垰店主にはすっかり慣れて来た様に思える。

最初は、社内での行為と言う事で興奮していたが、今では慣れが来ると心音も高鳴りが収まって来る。

より強い刺激が無ければ、俺は退屈な日々が続いてしまうのだろうと思う。

彼女の言葉に、俺は首を左右に振った。

決して彼女が悪いワケでは無いが…それでも俺には、鼓動をハネ上がらせる刺激が必要だ。

美人と付き添う事で、この様な弊害が出る事なんて、まさに美人は三日で飽きる、と言う言葉が真に伝わって来る。


「仕事次第ですね、また、連絡を下さい」


俺はそう言うと、垰店主は俺の手に指輪を渡して来た。

婚姻指輪…等では無い、大迷宮・奈落迦へと向かう為には、その鍵と扉が必要となる。

その内の片方、扉を作る為の指輪を彼女が渡して来たのだ、…基本的に、大迷宮の扉は、垰店主が全て管理しているので、彼女の許可無しでは出る事も許されない。


「貴方の考えている事、分かるわ…興味が削いでいるのでしょう?」


手に指を絡めて来る垰店主。

豊満な胸が胸板を押し付けて、その青い瞳が俺に向けている。


「仕事も、他の女の所へ行く方便、…貴方は熱を抱かないと生きる事が出来ない人ですもの、…そんな貴方が、私は欲しいの」


背中に手を回してくる。

甘える様に、垰店主の頬が俺の体に当たる。


「他の女の元に行くのも、誰に愛を囁いて、誰にその体を委ねるのも、私は看過してあげる」


腕を回して抱き締めている彼女は、次第に、尖った爪を俺の皮膚に食い込ませてきた。


「でも、忘れないで?…貴方は必ず私の元に戻って来る、鎖を着けるのは貴方で、手綱を握るのは私だから」


顔を上げる、鋭い視線が喉を刺す。

固唾すら飲み込めぬ気迫に、生命の危機を感じると共に恋しい感情が蘇る。


「主に吠えない貴方は素敵よ?でも…主を乗り替える事は、処分する理由としては十分だから…ね?」


背中から熱いものが流れる。

爪が俺の背中を刺して血が流れていた。

手が離れる、彼女の爪には、俺の血が付着していた。

唾液に濡れた舌先を出すと、人差し指の爪の部分を舐める。

俺の血を飲み干す様に、ようやく俺も固唾を飲む事が出来た。


「私に、飼い犬の血で手を染めない様にさせてちょうだいね?」


じっとりと、滲む様な声色に思わず喉を鳴らすと同時に笑みを浮かべる。

刺激が無いなど、甘えた事を考えていた。

毒の様に深く浸蝕していく彼女の愛には、如何なる薬でも再現出来ない鼓動の速さと熱を感じ得る。


「貴方以上に毒となる人は、居ないでしょうな」


思わず誉め言葉を口にした。

それが人にとっては誹謗中傷にも聞こえる言葉、それに対して垰店主はゆっくりと顔を近づけて唇を重ねると、軽いリップ音と共に顔を離した。


「最終的には、そうなるわ、私以外、欲しくならない様にしてあげる」


独占の欲に、病み付きになりそうだった。


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