河原
一晩中河原で死ぬことだけを考えていたティロは立ち上がると、川に向かって歩き始めた。あまり大きな川ではないが、死のうと思って入れば簡単に全てを飲み込んでしまうくらいの水量はあった。
「姉さん、今行くからね」
決意を言葉にして浅瀬を踏みしめる。冷たい水が服の中に浸入してきて、一気に体温を奪う。その冷たさとは裏腹に朝日に照らされた水面がキラキラと輝いていて、この世界への未練を思い起こさせようとしているようだった。
「姉さん、待っててね」
膝まで水に沈んだところで、そこから一歩も動けなくなってしまった。
「大丈夫、苦しいのはほんの一瞬だからさ」
震える身体を何とか動かそうとするが、ふと自分が沈んでいるのは水ではなく土なのではないかという錯覚に囚われた。水の流れる音が、土の音に聞こえてくる。そこで真っ暗闇の中で「死にたくない」と強烈に沸き起こった感情を思い出した。
「いいんだ、もう僕は死ぬって決めたんだ」
それでも足は動かなかった。長い間水に浸かっているうちに動かない身体が更に言うことを聞かなくなってきた。
「死にたいのに、こんなに死にたいのに、どうして」
(はやく死のう、それが一番いいよ)
頭も心も死ぬことを了承しているはずだった。それでも身体は動かない。
「どうして僕が死なないといけないんだ……」
死ぬなと言ったミルザムと、エディアの血を絶やすなというライラの顔を思い浮かべる。
(生きてるだけで迷惑かけるんだ、何もおかしくなんかない)
「なんで、どうして、どうして、こんな思いしなくちゃいけないんだ!」
(仕方ない、生まれてきたのが間違いの欠陥品だったんだ。これは罰だよ)
そして今一番帰りを待っているはずのシャスタの顔も思い浮かべる。
「嫌だ、もう何も考えたくない。全部全部なかったことにしたい。いらない、何もいらない。特務も、予備隊も、カラン家も、エディア王家も、何もかも……ただのジェイドになりたい。ティロでもいい。何でもいいから、もう、全部全部消えちゃえばいいんだ……」
(なかったことにしよう、だから死のうよ)
「もう一瞬でも苦しいのは嫌だ。楽に死にたい」
(この意気地なしが)
「そう言えば、濡れたままでいると風邪引いて死ぬんだよな」
(それだって辛い死に方かもしれないよ)
「寒くて死ぬなら、それでもいいや……溺れるより苦しくなさそうだ」
ティロは浅瀬まで戻ると、そこに腰を下ろした。濡れた服が下半身に張り付いて、身体の底がどんどん冷たくなっていくのを感じていた。
「このまま眠ったら死ぬのかな……ダメだ、俺眠れないんだった」
特別訓練では昼夜を問わず休みなしで地下へ入ることを強制された。気絶している僅かな時間以外は恐怖で震えているか、恐怖で死んでいるかのどちらかであった。
「眠りたいのにな……眠りながら死んで行けたら、最高なのに」
身体に何か黒い覆いのようなものが重くのしかかっている気分になった。その黒いものに完全に包まれて心臓も呼吸も止まればいいのに、と強く願った。
「姉さん、寒い……姉さん、姉さんに会ったら、一杯抱きしめてもらうんだ。もう寒くないようにって、そうでしょう、姉さん……」
(はやく、はやく死なないかな。楽になりたい。もう苦しいのは嫌だ。痛いのも苦しいのも眠れないのも嫌だ。息が出来ないのも嫌だ。もっと楽に息を吸いたい。どうして息をするだけなのにこんなに苦しいんだろう。間違って生まれてきたからだ。きっとそうだ。だって欠陥品だから。こんな奴死ぬしかないんだ)
「はやく姉さんに会いたいな……」
次第に身体が黒いものと同化して重くなってくる。このままにしておくと、間もなく座っていることもできなくなる。エディアの避難所で早く死にたいと願っていたことを思い出した。
「やっぱりあの時死んでおけばよかったんだよ……土の中にいるか、避難所で野垂れ死ぬか、どっちか選んでいれば今頃こんな思いをしなくてよかったのに……」
いつ死んでもいいように指輪を握りしめ、河原に座り込んでいた。先ほどまで寒くて仕方なかったのに、次第に身体が暖かくなってくるように感じていた。
(何だかあったかくなってきた。姉さん、もうすぐ会えるね)
誰かがそばに来たような気がした。いよいよ姉が来たのかと思ってティロは嬉しくなった。
「この馬鹿野郎!」
やってきたのはシャスタだった。思い切り殴られてティロは河原に倒れ込んだ。もう起き上がる体力も気力もなかった。
「お前、何考えてんだよ!」
シャスタに胸ぐらを掴まれて起こされた。頭が全然働かなかった。ひとつだけわかったのは、このまま河原で誰にも見つからず死ぬことはできなくなったということだった。
「……やっぱりダメだな、自分で死ぬことも出来ない。生きてたって仕方ないんだ」
まともにシャスタの顔が見れなかった。
「何言ってんだよ、別に……その、生きてれば何とでもなるだろ!」
「ダメだよ、俺みたいな欠陥品、さっさといなくなればいいんだ」
(もう放っておいてくれないかな。これ以上こんな姿を見せていたくないんだ)
もう何も話したくなかった。ただただ消えたいという惨めな思いばかりであった。
「お前、何日寝てない?」
(なんだこいつ、今更俺の心配なんかしてくれるのか?)
「さあ……わかんない」
シャスタは悔しそうな顔をして、ティロの腕を引いた。
「帰るぞ」
シャスタに起こされそうになったが、これ以上惨めな姿を見られたくなくて抵抗する。
「いやだ、放っておいてくれよ。ここで死ぬんだから」
「ダメだ、お前はとにかく寝ろ。どうせ飯だってろくに食ってないんだろ?」
(飯か……何か食べてたかな、俺)
訓練中のことはよく覚えていなかった。流石に7日間飲まず食わずというわけもないと思うので何かを口にした気はしたが、そんな記憶も抜け落ちるほどティロは消耗していた。
「予備隊帰って皆に怒られて、飯食って暖かくして眠剤でも何でも入れて寝ろ。寝て訓練のことなんか忘れろ」
寝て忘れられるなら全部忘れたいくらいだ、と瞬間的に怒りがこみ上げてきた。
「嫌だよ、もう皆に合わせる顔だってないんだから」
本気でもう誰の顔も見たくなかった。いっそこのまま川に飛び込んでしまおうかと思ったが、弱った身体は思うように動かなかった。
「うるせえ、力尽くでも連れて帰るぞ……こんなに冷たくなって」
シャスタに引きずられるようにして、ティロは河原から連れ出された。その後観念したティロはシャスタに担がれて予備隊までの道を辿った。リィアの街へ入ると自分なんかが存在するのが情けなくて「今すぐ死にたい」と強く思った。そして死を阻止しようとするシャスタを少し恨めしく思い、そんな自分がまた酷く情けなかった。
***
その後予備隊に戻されたティロは「自殺のおそれあり」として厳重な監視の下に置かれ、静養を余儀なくされた。惨めな姿を晒したくないと何度か逃げだそうと思ったが、黒いものに包まれた身体は一向に動かなかった。まるで声が喉に張り付いていた路上時代に戻ったようだと情けなくて仕方なかった。
何度も睡眠薬に頼って、ようやくまとまった睡眠がとれた。それでも思い通りに身体が動かず、まるで頭と身体がばらばらになったようだとティロは思った。監視の名の下に世話をしに来る教官や予備生は気を遣って特に何も言わず、それが余計ティロの心に惨めさを募らせていった。
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