【ショート・ショート】ものもらい

川辺さらり

【ショート・ショート】ものもらい

ものもらい


 「相川匠さ〜ん」

 名前を呼ばれて私は診察室に入った。駅ビルに入っている眼科である。

 昨夜、右目にまた痛みを感じたので眼科で一度診てもらおうと思い、駅ビルに入っている眼科を思い出した。ここは土曜日もやっていて、土曜日は特にサラリーマンや子どもなどで混雑していると妻が言っていた。だが、家から駅までは歩いて7分ほどの場所にあり、一番近い眼科なので散歩ついでにやってきたのだ。


「相川さん、今日はどうしました?」

「右目の眼球をガーンと鈍器で打たれたような鈍い痛みがあって。前にも同じような事があったんですけど、これって何かの病気ですか?」


 医師は小さな懐中電灯を白衣のポケットから出して私の眼球に当てて、しばらく診察してからこう言った。


「あー、これはものもらいですよ。まだ腫れてませんけど」

「ものもらい?」


私は拍子抜けをした。


「前にも”ガーン”の後に、ものもらいになったこと、ありませんでしたか?」


思い出してみると、たしかにそうかも知れない。記憶は曖昧だが。


「最近、目を酷使しすぎていませんか?」


 医師は机に向き直ってカルテを書きながら、そう言った。

 そういえば、半年前に校正の仕事を任されるようになってから、1日中パソコンの細かい字を追うようになった。早期退職後、嘱託職員として再雇用されたのがこの部署だ。以前の編集と比べれば動きが少なくて楽だが、1日中パソコンとにらめっこだ。

 昨日は8時間20分、一昨日は残業をして9時間10分、その前は…と、ゆっくりと始業と終了時間を頭の中で辿っていく。


 私は元々、集中するとのめり込んでしまうタイプだ。一度座って作業に入ると、次の休憩時間のチャイムまでつい没頭してやり続けてしまう。つまり、朝8時30分に出勤したら次の12時の昼食休憩まで、昼食を済ませて机に突っ伏して15分の仮眠をとり、午後1時に再びパソコンを開いたら、次は夕方5時の終業までノンストップといった具体だ。話しかけられても聞こえないことが多い。そのため最初のうちは無視していると周囲から誤解されていたが、今は私の特徴を理解してもらっている。

 よく、「オフィスワークは1時間やったら10分休憩」なんて言われるけど、そんなことをしていたら集中力が途切れて効率が悪い。第一、集中が途切れると気分が悪い。


 ただ、50歳を過ぎた頃から体に無理が効かなくなってきて、年齢を思い知らされている。若い頃は少しくらいの無理も効いたし、2日続けて徹夜したって気力で乗り切れた。しかし、今はそうはいかない。一日中座っていれば腰も痛くなるし、肩も凝る。頭だけ使って他の部位を使わなければ、そうなるのも当然だ。そして、気力では挽回できないほど体が疲れてしまうので、最近ではなるべく定時で切り上げることにしている。

 いつもは忘れているが、人間も自然の一部だ。私達人間も動物と同じ。動物は眠くなれば眠るし、腹が空けば食べる。日の出と共に目が覚めて、日が暮れれば眠くなる。人間も本来であればそのようにできているはずだ。だが、人間が動物と違うところは、本能を意識――脳――でコントロールできるということだ。だから、意識で体を頑張らせるほど、食事や睡眠すら忘れてしまう。体が発する日々のサインを感知することも鈍らせる。


 「目に髪の毛かなにか入って、髪の毛についていた菌が感染したのでしょう。菌と言っても、普段顔にある常在菌なので、心配ありません。通常は入っても感染しないのですが、睡眠不足や目が疲れて免疫力が下がっているときなんかは、感染を起こすのですよ」


 なるほど、と頷きながら、医師が意識的に”そうなのです”という具合に「の」を使って丁寧に説明していることに意識が向いた。言葉に敏感なのは職業病だ。この医師の矜恃なのだろう、と説明とは関係ないことを頭の片隅で考えたりしている。


「あなたの場合、ストレスが体に出やすい体質のようですね。特に、目に」


医師が、ついでのようにそう言った。


「え? 普通みんなそうじゃないですか?」

「あなたの場合、人よりそれが顕著みたいですね。普通、ものもらいは目がゴロゴロしたりするのが予兆なのですが、あなたの場合”ガーン”ですからね」


 医師はそう言って笑った。”ガーン”という表現がよほど面白かったらしい。


 とにかく、変な病気ではないと分かって私はホッとし、家路についた。これからは目を極力休ませることにしよう。1日の終わりにスマホアプリで30分ほど漫画を読んでリラックスする習慣だが、これもしばらくはやめておこう。できれば、帰宅時にも夜空を見てみよう。夜空を見ると視力が回復すると聞いたことがある。


 家までの道のりを歩きながらそんなことをつらつらと考えながら、ふと、先ほどの医師の「あなたの場合、ストレスが体に出やすい体質のようですね。特に、目に」という言葉を思い出しだ。そして、「ものもらいは、自分にとって体調の限界を知らせる重要なサインなのかもしれない」と思った。

 ものもらいになれば、右目はほとんどまぶたに覆われて使い物にならない。その結果、視力の弱い左目しか使えなくなり、仕事ができないという状況になる。つまり、日頃意識で体をコントロールしすぎるあまり体が悲鳴を上げると、パソコンがフリーズしたときのように、強制的にお休みモードに切り替えるのだろう。体というのは、本当によく出来たシステムだ、と感心した。



 翌朝、目が覚めるとどうもまぶたが重い。医者が言っていた通り、たしかにものもらいになったようだ。洗面所で顔を洗おうとして鏡を見てみると、ふっくらとまぶたが腫れ上がっていた。

 しかし、いつもとは違う奇妙な感覚がした。なんだろう。顔を洗い終わって、着替えのために自室に戻る階段を上がりながら、この奇妙な感覚の正体を探った。

 ものもらいに意識を集中する。まぶたが熱を帯びて少し痛痒い。それでいて、なんだか自分の体の一部ではないような気がしている。

 腫れているまぶたの上をそっと指で触ると、柔らかくてフニフニして、少し弾力がある。いつもの皮膚感覚なのに、なぜか初めて触るような。そして、なぜか私から離れて独立したもののような。


 『まぶたの中に入る』


 急にそんな発想が頭に浮かんで、私は苦笑した。

いくらなんでもSFじゃあるまいし。まぶたが別世界とつながる扉にでもなっていて、目の中にエイリアンでも住み着いているのか? ものもらいになる独特なあのゴロゴロした感じは、もしかしてエイリアンが暴れているとか。


 しかし、そんな空想を押しのけて、私はすぐに真顔になった。なぜだか本当に、まぶたの中に入れそうな気がしてきたのだ。


「いや、馬鹿げてる。本当に疲れているんだろうな」


誰もいない部屋で声に出してそう呟くが、そのつぶやきは全く自分自身を納得させてはくれなかった。

 私はスマホのカメラ機能を鏡代わりにして、再びまぶたを色々な角度から観察した。


 約1分後。まぶたの中に入れそうな気持ちは、確信に変わっていた。「入れる」。だが、全く、全く馬鹿げている!

 私はまずはあぐらをかいた。それから、部屋に誰もいないことをいいことに、大人げないと思いつつも、親指を目に近づけてみた。子どもの頃、兄と”足が顔よりどこまで高く上がるか競争”をしたときのような格好で。


 すると、足の親指はまぶたに吸い込まれるように、ぬるりと入ってしまった!


 それからはあれよあれよという間に、足の甲、アキレス腱、ふくらはぎ、腿、腰、上体と、沼に埋もれていくようにぬるぬると入っていった。いや、入れていった。そして、最後にくるりと身をねじると、やがて全身を入れることに成功した。



 まぶたの中の世界は想像を絶していた。夜空よりも黒くて暗い、漆黒の無限空間。その空間に、星のような小さな光たちがチカチカと輝いている。赤、青、黄、緑、ピンクなどの幾何学模様が蝶のように、あるいはネオンサインのようにゆったりと不規則に舞っている。マゼンダ、シアン、イエローの砂嵐が吹き荒れたと思えば、突如、フラッシュのように眩しい閃光が顔スレスレにかすめる。遠くに漆黒よりもまだ黒い、大きな楕円が重なり合っては消えていく。

 せわしないような、のんびりと間延びしたような変な気分だった。しばらく眺めていて、それぞれの模様によって流れている時間も異なるように見えるからだと気づいた。


 それぞれの模様は全く意味をなさない。ただ、事象があるだけだった。


 私は思わず見惚みとれた。長い時間、心が空っぽになった。やっと心が戻ってくると、「夜空よりも美しい」と思った。毎日こうやってまぶたの中を眺めれば、視力も回復しそうだと思った。

 そうしてしばらくすると、今度はふと「なんだか見覚えがある」と思った。そうだ、まぶたを閉じて指で少し圧を加えたときに、まぶたの裏に浮かぶあの模様だ。子どもの頃、よくそうやって遊んだことを思い出した。今、自分は、その光景をまさに見ているのだ。そう考えると興奮した。誰かとこの景色を共有したい!


 だが、それは無理だった。まぶたの中の世界には、当たり前だがどこを見回しても自分しかいない。これは自分のまぶたの中なのだから。私はただこの空間に身を任せ、幾何学模様の狭間はざまに浮かんでいることしかできないでいた。宇宙空間にポーンと放り出されたような気分だった。この世界に他の誰かが入ってくることもないと分かっていた。幸せなような、それでいて少し寂しい複雑な気持ちを味わっていた。



 自室の床には、私が入ってしまった跡の、三日月のような肌色のまぶただけが落ちていた。それもそのはず、私はそのまぶたの中にいるのだから。しかし、誰がそんなことを想像できるだろう。


 自室の少しだけ開いたドアを、ムギが鼻先でさらに広げて顔を覗かせた。ムギは家で少し前から飼い始めた猫だ。ムギは、床に転がる三日月状の物体に気づき、部屋の中に一歩踏み入れようと、前に出した前足を宙で止めた。そのままの姿勢で動かずに、床の上のをじっと見ている。初めて見る知らないものに近づくときは、いつもそうだ。

 しばらくして、凝視したままやっと少し近づいた。そして、恐る恐るシュッと猫パンチを食らわした。どうやら害がないと分かるや、もう二、三発パンチを食らわした後、獲物を得たりとばかりに口に咥えた。そして、妻のいるキッチンに走っていった。


 ムギは収穫物を、キッチンマットに立っている妻の足元に捧げた。得意そうだ。猫はよく、好きな人に獲った獲物をプレゼントするのだ。


「なぁに、ムギ。何持ってきたの?」

 妻は優しい声を出しつつも、ムギがまた、虫かなにかを捕まえてきたのだろうと、包丁を置いてから、かがんでマジマジと見た。

 そして次の瞬間、


「ヒッ! ナメクジ!」


と叫び、バタバタとスリッパを鳴らしてティッシュを3〜4枚掴んで戻ってきた。そして、を直接触らないようにティッシュでつまみ取り、トイレにティッシュごと放り込んで急いで水を流した。

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