第二章 ひとりぼっちのエルシエル【11】
今は無き明かりがシャンデリアに灯り、色を鮮明に残した部屋が照らし出される。
その柔らかな明かりの元で二人の人間が笑顔を交わす、一人は厳格ながらも優しい笑みを浮かべた黒髪の男、もう一人は慈愛に満ちた笑顔を浮かべる青髪の女。
そしてエルシエルの足元に転がる正体不明の物体の中には、ブランケットに包まれすやすやと眠る青い髪の赤子。
どうやらこの物体の正体は揺り篭のようだった。
厳めしい夫と、優し気な母、そして二人の子供。
絵画の描かれていた幸せな一家が、そこにはいた。
「さあて、あの子を見せてくれ、仕事で疲れて死にそうなんだ」
疲れ切った表情ではあったが、その中に溢れんばかりの喜びの感情を滲ませた黒髪の夫の様子が可笑しかったのか、青髪の妻は笑う。
「ふふ、あなたったら。今あの子は寝てるから起こさない様にしてね?」
「ああ勿論だよ、あの子が泣いてしまったら君に怒られてしまうからね」
「寝かしつけるの大変なのよ?
唇を尖らせて夫を軽く睨む妻、以前にそのようなことがあったのだろう。
「ああ、気を付けるよ……これじゃあどっちが当主かもわからないな」
おどけた発言と共に肩を竦める夫、そんな
暖かな家庭、穏やかな空気、しかしそれを激しい音が切り裂いた。
がんっ! 過去の部屋のリビングの扉が勢いよく開かれ、黒い外套を纏った二人の人間が血の付いたナイフを構えたまま侵入してくる。
赤子を抱こうとしていた父は、目を剥いて悲鳴混じりの声をあげる。
「なっ、なんだお前たちっ!」
「死ねえっ!」
侵入者は
時折悲鳴にならない悲鳴が混じるが、それが何か意味のある形になる前に次の刃が男へと突き立てられる。
「ひぃっ……!」
その光景を見ていた妻は声にならない悲鳴をあげ、立ち竦む。
それはもう一人の侵入者による心臓への一突きという結果に収束し、青い髪の女は血を侍らせてあっという間に瀕死へと陥った。
一瞬にして血の匂いに染められた空気の中で、黒外套の一人が狂ったような笑い声をあげる。
狂気の笑いと共に足元に転がる自分が殺した黒い髪の男の亡骸を踏みつけ、蹴り上げる。
「はははっ! 良いザマだなぁっ! 兄より成功しやがったお前は罰を受けるべきなんだよっ! いつもお前ばかり成功して、その癖に金を出し渋りやがって! 死ねっ! 死ねえっ!」
憎しみを滲ませ、既に事切れた死体を何度も何度も
やがて満足したらしく、最後に死体を蹴り飛ばすと、静かに佇むもう一人の黒外套に声をかける。
「よし、終わったな」
機械的に頷くもう一人の黒外套、それは揺り篭の赤子を指して、問う。
「あの赤子はどうしますか、殺しますか?」
内容の重さとは相反する軽さで提示された提案、その声に
「いや、手出しはするな。あのガキを引き取れば遺産を手にする正当性が生まれるからな」
悪辣な言葉を並べ立て、卑ひた笑みを覗かせる黒外套。
自分が口にした結末がよほど愉快だったのか、やがて我慢できなくなったように再び男の亡骸を踏みつけて愉悦に満ちた笑い声を漏らす。
「お前の全てを貰ってやるからなぁ! お前が必死に築いた財を全て奪い取ってやるよ! だが、安心しろよ。ちゃんとお前のガキは育ててやるぜ! 政略結婚の道具としてなあっ! ふふふふっ!! はっ!! ははっはははははあっ!!!」
理性の
「ふふふふふ、うふふふふふふふ」
けたたましい笑い声が反響する部屋の中でエルシエルは絶句し、ただただ震えていた。
まだ十ほどの幼子が、目の前で憎悪に満ちた殺人を見てしまったのだ、当然だった。
そんなエルシエルの視界の端で、ふと何かが蠢いた。
それは刺されて床に伏せた青髪の妻、まだ微かに息があるようだ。
愛のなせる事であろうか、彼女は死の淵にある体を引きずるようにして、震えるエルシエルの元へ――正確に言えばその足元の揺り篭へと向かう。
「ひっ……はっ……」
自分へと近づいているのだと錯覚したエルシエルは短い悲鳴をあげ、息を荒くしてあとじさる。
現実では無いとわかっていても、血みどろの女性が這って来るのは恐怖だろう。
時折、ごぼりと血の塊を吐き出しながら、やがて青髪の妻は揺り篭の元へと辿り着く。
しかし慈悲は無かった、そこで彼女は限界を迎え動けなくなってしまう。揺り篭の中で眠る赤子へと手は届かない。
それでも、触れることすら叶わないとしても、母は自らの赤子へ届かぬ手を伸ばし、その最愛の名前を口にした。
「エル、シエ……ル……」
その言葉を最後に、二度と母は動かなくなった。
時を同じくして、部屋に神経を逆撫でするような声が響く。
「おい、帰るぞ。凶器と外套は捨てていけ」
二人の黒外套は返り血に染まった外套を乱雑に脱ぎ捨てる。
未来の世界からの目撃者がいるとも知らずに、その顔を灯の元に晒した。
黒外套の一人は細身で目つきの鋭い男、そしてもう一人は長い赤髪で黒い瞳の女。
エルシエルの知るそれよりは多少若さがあるが、間違いなくエルシエルの義親たちであった。
その場面を最後に世界が色を失い、再び暗闇と静寂の
部屋の隅で立ち尽くす少女の瞳には、もはや生気は宿っていなかった。
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