8 主人公として

「……ただいま」


 夕暮れ迫る頃、俺は家に辿り着く。

 玄関のドアを開けると、薄暗い廊下に影法師がボウッと伸びた。


「おかえりー!」


 パタパタとスリッパを鳴らしながら出迎えてくれたのは姉さん。


 いつも通りの光景。だけど、どこか違和感を感じる。

 その正体を探ろうとするが、上手く思考が纏まらない。


 どうにも、小林さんに陣内さん。二人の事が頭から離れないのだ。


「どうしたの?」


 動かない俺を見て不思議に思ったのか、姉さんが顔の下から覗き込むように様子を伺って来た。


 その仕草には一切の警戒心が無くて。

 俺に対しての彼女の感情が良く分かるのだ。


 ああこの人は、俺を弟として、庇護の対象としてとしか見ていないのだと。


「ん? 何が?」


 俺はズキリと走った胸の痛みを誤魔化すように笑うと、靴を脱いで廊下に上がる。

 そのままリビングへ向かうと、テーブルの上には夕飯の支度がもう出来ていた。


 いつもの光景だ。ここ数日ですっかり慣れた、いつも通りの日常。

 だが、俺はどこか居心地の悪さを感じていた。


 罪悪感とでも言うのだろうか。

 本来ここに座るべきなのは、入れ替わる前の自分。

 俺が座って良い場所じゃない。

 そんな気がしてならない。


「……ねぇ、姉さん」


「んー?」


 俺が声を掛けると、彼女は食器を並べながら返事をする。

 俺はそんな彼女の背中に語りかける。


「もしもさ、将来姉さんが結婚して家を出ていっても、俺は姉さんの弟なのかな?」


 呆けたような俺の口から飛び出たのは、そんな質問だった。

 自分でも何を言っているのか分からない。

 自分自身がどんな返答を求めているのかすら分からないのだ。

 頷いて欲しいのか、否定して欲しいのか、それすら分からない。


「そうだねー」


 姉さんは顎に手を当てて少し考えるように目を閉じ、ゆっくりと目を開く。

 そして、真っ直ぐに俺を見ると笑顔で言った。


「きっと、変わらないと思うよ、今と」


「……そっか。良かった」


 その答えを聞いて安心した自分が居た。

 それと同時に酷く惨めな自分もまたそこには居る。


 俺はまた、前世と同じ轍を踏むのか。

 大切な人が、いずれ俺から離れていく。その時を怯えながら待つのか。


 なんと無様な事だろう。

 考えれば考える程に、自分がどんどん小さくなっていく気がする。


 だからこそ決めたじゃないか。

 姉さんの笑顔を永遠に俺の物にするのだと。

 その為なら、俺はなんだって出来る。何だって差し出せる。


(――と、思っていたんだが)


 どうやら俺は随分と弱い……いや、打算的な人間だったらしい。


 陣内さんの言葉がずっと脳裡にくすぶっている。

 そうだ。絶対に手に入らないという絶望は、裏を返せば永遠に恋い焦がれられるという事に他ならない。


 永遠の恋慕。

 何て甘美な幻想だろう。


 だが、まるで麻薬のように俺を捕らえて離さなかった幻想は、今にも崩れ落ちようとしている。


 時を遡るという奇跡が、自分自身を蝕んでいる。


 今この瞬間に俺の目の前に突きつけられているのだ。

 選ばなければならないと、無慈悲に現実を突き付けられているのだ。


 ああ、このまま時間が止まってしまえば良いのに。

 そうすれば、俺はずっと姉さんの弟で居られるのに。


 でも、時は止まらない。止まる事を許されない。

 常に選択を迫っている。

 この世界はそう出来ているのだ。


(……これが物語の主人公になるってことなのかな、小林さん)


 ふと、そんな事を思いついて自嘲する。


 もし、俺が主人公として物語を紡ぐ事が出来るのなら……。


 そうだ、とことん狂った物語にしてやろう。


 それが俺に出来る、精一杯の抵抗だ。

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