6 迷い子の瞳に

「……ん?」


 誰かに呼ばれた気がした。


 視線を動かす。

 鍵を回し扉を開けたそこには、ただ薄暗い玄関があるだけで。


「……」


 気のせいか。


 靴を脱ぎ捨て人気の無い自宅に上がると、廊下を抜けてリビングへ入り、明かりを付ける。

 テーブルの上には、姉さんの字で書かれた書き置きと千円札が一枚。


『今日は遅くなるからこれで何か食べてね』


 それを見て、無造作に椅子を引いてそこに座る。

 キッと椅子が小さく軋む。


 ぼんやりと天井を見上げる。

 小さな羽虫が一匹、くるくると明かりの周りを飛んでいる。


 脳裏に今日の出来事を思い浮かべる。

 彼女の、小林さんの異常ともいえる行動。

 彼女が何かしらの粘ついた感情を懐いていることは、俺にも、分かる。


 それが単純に、善意か悪意かに分けられない物であることも。


 俺が姉さんに懐く物と同じ。いや、似て非なるもの。

 ……どちらでも良いか。ただ、個人の何物にも代えがたい下劣なエゴイズム。それで充分だ。


 だが、何故だろうか。不思議とそれについて嫌悪感を抱く事は出来なかった。

 むしろ、どこか心地よいと感じてしまうような気さえする。……まぁ、それもこれも全ては錯覚だろう。


 小林さんは一体何を考えているのか。彼女の目的は果たして何なのか。

 いくら考えても答えなど出るはずもなく。


 一切合切、俺は心底どうでも良いのだ。

 彼女が例えどんなに歪んだ思考の元に、どんな事をしでかそうと。。

 ――俺は彼女に何も求めないのだから。


「……腹が減ったな」


 俺は溜め息を一つ吐いて立ち上がり、冷蔵庫の扉を開け、ごそごそと中を探る。……何も無い。


 仕方ないので、買い出しに出掛ける事にする。

 テーブルの上のお札を手に取った所で、ふと時計を見ると、針は既に夜の八時を過ぎ。


 ……何だ、もうこんな時間になっていたのか。


 帰って来た時に、陽がまだ出ていた事を考えると、たっぷり四半刻は思案にくれていた事になる。


「……何時の間に」


 小さく苦笑すると、家を出る。


 ――外に出ても、俺を呼ぶ声が聞こえる事はなかった。


――――


 近所のスーパーで、値引きされたおにぎりとペットボトル入りのお茶を買う。


 既にめっきりと暗くなった帰り道の途中。

 小さな公園の前で、ふと、足を止める。

 何の変哲の無いベンチと滑り台があるだけの小さな公園。そこに俺は吸い寄せられるように入っていく。


 昼間は子供達の笑い声で賑わうのであろうそこは、今はとても静かで。


 俺は近くのベンチに腰掛け、買ってきたものを袋から取り出すと、街灯の明かりの下でビニールの包装を解き、手を合わせる。


 いただきます。


 まずは鮭のおにぎりから一口食べる。……うん、旨いな。

 良く咀噛して飲み込む。それを数回繰り返した後、お茶を飲む。

 そして、再び次のおにぎりに手を伸ばす。


 黙々とと食べ続ける。


 何の変哲も無い食事。だが、こうして一人で黙々と食事をしていると、何故か少しだけ落ち着く自分がいる。

 周囲に建つ家々から漂う生活の音も、今の自分には届かない。


 この公園、街灯に照らされたベンチのみ。まるでこの世界にたった一人取り残されたかのような感覚。


――いや、違うな。


 正確には、世界には皆、自分しか居ないといった方が適切かもしれない。

 細切れに、バラバラにされているのだ。


 私も一人、貴方も一人。では、自分以外の存在は――


 そこでふと、視界の端に動くものが映った。

 目を向ければ、そこに居たのは一匹の子猫。

 それはまるで、親とはぐれてしまった迷い子のような瞳をして、こちらを見詰めて。


「……」


 じっと、見詰め合う。


 互いに言葉を発しない。しかし、互いの瞳の奥にあるものは俺と同じもの。


「……おいで」


 気が付けば、そう口にしていた。


 彼女は、ゆっくりと近づいてきて、俺の側へと座る。

 おにぎりの中身のシャケを、ベンチの端から落とす。

 その、薄汚れた毛並みを見詰めながら、ただ淡々と、俺はその作業を続けて。


 やがて、最後のひとかけらを放り投げると、俺は静かに立ち上がる。


「じゃあね」


 それだけ言って、歩き出す。

 背後から鳴き声が聞こえるが、振り返らない。


――米粒のベタついた感触が、やけに気持ち悪かった。

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