4 淡い錯覚

 翌朝、少し遅めに学校に登校する。

 朝起きるのが遅かった訳じゃない。

 ただ少し、小林さんと顔を合わすのが億劫だっただけで。


 教室に入ると、既に小林さんは自分の席に座って黙々と本を捲っていたが、俺に気付くとパタリと本を閉じ、何かを言いたげに口を開く。

 しかし、声が発せられる前に、教室内で思い思いにたむろする子供達の騒ぎ声によって、それは掻き消される。

 俺達はただ互いに互いを見つめ合う。先に動いたのは小林さんの方だ。

 彼女はゆっくりと立ち上がると、こちらに歩み寄り、俺の目の前までやってくると、言った。


「昨日はごめんなさい」


 深々と頭を下げる小林さんに、俺は慌てて首を振って見せる。


 ――どうして彼女が謝る必要があるんだろう。

 悪いのは俺なのに。

 俺はただ、彼女に自分の気持ちを押し付けようとしただけだ。自分勝手に。


 そのせいで、彼女を傷付けた。

 それならば、謝罪しなければならないのは俺自身であるべきだ。

 だが、謝罪の言葉は喉元から出てこない。

 代わりに出たのは、こんな一言だけだった。


「……いいよ、別に」


 俺はただ、そんな情けない言葉でその場を取り繕う事しか出来ない。

 ちょうどそこに教師が入室してくる。と、俺はこれ幸いとばかりに自分の席に着く。

 彼女は、寂しげに微笑み、そのまま何も言わず、踵を返して自席へと戻っていく。


 その後には何とも言えない苦味だけが残った。



――昼休み。


 校庭を元気に跳ね回る子供達を見やりつつ、俺は校舎裏手にあるベンチに腰掛けていた。


 ぼんやりと空を眺めながら、つらつらと思考を巡らせる。


 ――果たして、俺はこの摩訶不思議な逆行を経て、何かを為す事が出来るのだろうか。

 未だに俺は、過去の幻影に囚われたままで。

 このままではいけない。それは分かってはいるのだが……。


 ふと、背後から足音と気配を感じる。

誰かが近付いてくるのを感じつつも、俺は振り返らずにいた。

 すると、その人物は俺の横に座ると、声をかけて来た。聞き覚えのある、低く落ち着いた声色。


「隣、良いかな?」


「……」


 俺は答えない。


「高田君。高田君はいつも一人だね。友達と遊ばないの?」


「――同じだろ? 小林さんも」


 俺の返事にくすりと笑い声を漏らすと、彼女は俺の隣に座り直す。

 その動きで、甘い、クチナシの様な香りが漂ってきた。

 俺は視線を前に向けたまま、彼女に向かって訊ねる。


「どうしたんだい? 昨日から、やけに絡んでくるじゃないか。用があるならはっきり言ってくれ」


「…………」


 俺の少しキツい物言い。それに彼女は口をつぐんでしまう。



「……ごめん」


「え?」


 俺の言葉に、彼女はフッと驚いてみせる。

 よほど、その言葉が予想外だったらしい。


「きつい言い方をして悪かった。そんなつもりじゃなかったんだけど……ごめん」


 そう言って頭を下げると、クスクスと彼女は可笑しそうな声で笑う。

 何がそんなに面白かったのだろうかと、不思議に思っていると、彼女は俺の顔を見て言った。


「高田君ってやっぱり優しい人なんだね」


「……はぁ。俺がかい?」


 全くもって理解に苦しむ発言である。

 俺みたいなひねくれたクソガキ――まぁ中身は三十路だが――の何処に小林さんは優しさを見出だしたのだろうか。

 俺が困惑していると、彼女はどこか楽しそうに話を続ける。それはまるで、友達に内緒話をするように。


「うん。だって私に謝ったりするもの」


「そりゃあ、まあ。女の子だし」


「ふぅん?」


 彼女はそう言って意味ありげな笑みを浮かべると、続けて言う。


「ねぇ、もし良かったらさ。今日こそ、家に遊びに来ない?」


「……ん?」


 脈絡の無いそんな言葉に驚き、間抜けな声を上げてしまう俺。だが、彼女は俺の戸惑いを無視して、言葉を紡ぐ。

 彼女はどこか悪戯っぽい笑顔で言う。


「それとも、お姉さんに怒られる?」


 姉さんは怒りはしないだろう。むしろ喜ぶ。

 だが……。


「……なんでそんなに俺なんかを誘ったりするんだい?」


 そう尋ねると、彼女は少し考える素振りを見せた後、口を開く。


「うん。どうしてだろう。何だか、高田君と話していると、自分がとても上等な人間になった気がするの」


「なんだいきなり、人の事を貶してるの?」


 その、あんまりな言葉に、少しだけ不機嫌そうにそう呟く俺。

 すると、彼女は慌てて首を振ると少し恥ずかしそうに頬を染めながら、それでも彼女ははっきりと口にする。


「違うのよ、私は、ただ……」


 彼女は何かを言いかける。

  だが、その続きを聞く前に休み時間の終わりを告げる鐘の音が響く。

 彼女はハッとした表情を見せ、立ち上がると俺に向き直り、告げた。


「……ふふ、高田君。そういう事だから。放課後、約束だよ」


 それだけを言い残して、彼女は小走りで俺の元を離れていく。




 去り際に見せた彼女の横顔。それは、ほんのりと赤く染まっていたような気がした。

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