2 接せざる筈の縁(えにし)
朝、目が覚めると知らない天井。
いや、余り覚えていたくない天井か。
昨日の出来事を思い出しながら、俺は起き上がる。
時計を見ると、時刻は午前五時半を指していた。
起きる時間より少し早いが二度寝する気にはならないし、何よりも昨日からの異常な出来事のせいで眠れないのだ。
俺は立ち上がり部屋を出ると階段を降り、洗面所へと向かう。
蛇口を捻り、出てきた水を手で掬うと、パシャリと顔に掛ける。
「冷たくて気持ち良いな」
俺はそう言ってタオルで顔を拭くと、鏡に映る自分の姿を見る。
そこにいるのは紛れもなく俺だ。
ただし、小学五年生の十一歳の俺。
歳の割に小柄なお陰で酷く中性的な、それでいて性徴期に入り思春期特有の刺々しい雰囲気を纏った少年がそこには立っている。
俺は小さくため息をつく。
これからどうすればいいのだろうか。
もう一度、小学生から人生をやり直す?
まさに、神様がくれたかのようなウルトラボーナス。
……一体、この夢幻は何なのだろうか。
そんな疑問が脳内を巡る。……しかし、どれだけ考えたところで答えが出る筈もない。
そうだな、ただ一つだけ決意したことがあったじゃないか。
――姉さんを犯すと。
そんなことを考えていると、不意に後ろから声を掛けられる。
「おはようゆう君。随分と早起きなのね」
振り返るとそこには姉さん。彼女はまだパジャマ姿で眠そうに目を擦っている。
「あぁ、姉さんおはよう」
「うん、おはよ」
そう言いながら微笑む彼女。
その笑顔は昔と何も変わらない。……だからこそ、辛い。
「ゆう君、どうかした?」
心配そうな表情で尋ねてくる姉さん。
「――なんでもないよ。ちょっと考え事してただけ」
そう答えると、姉さんはほっとしたような顔をして言う。
「良かった。……またゆう君、お姉ちゃんのこと嫌いになっちゃたかと思った」
姉さんの言葉に思わずドキリとしてしまう。
「……そんな訳無いじゃないか」
俺がボソリと呟くと、嬉しそうな顔をする姉さん。
そこにトタトタと足音が近づいてくる。
現れたのは母さん。
雑誌社の編集者を務め、父さんと二人で我が家を支える大黒柱の一。
緩くパーマを掛けたショートヘアがいかにも出来るキャリアウーマンといった感じの女性だ。
彼女は俺達の姿を認めると、
「あら……おはよう。
「あ、お母さん。おはようございます。ふふ、今日はなんだか早く目が覚めちゃって。ねぇ、ゆう君?」
「え、……あぁ、そうだね」
姉さんの問い掛けに曖昧に返す。
「ふふ、そう。まぁ、そういうこともあるわよね」
母さんがニコニコしながら言う。
「ほら、二人共。早起きしたなら朝ご飯の支度を手伝って頂戴。三文の得よ?」
と言って、母さんは台所に向かう。
その後ろを姉さんが小走りで追いかける。
いつも通りの光景。
そうでは無い筈なのに、何故かそう思えるのだった。
――――
朝食を済ませた後、身支度を済ませ、教科書を放り込んだランドセルを背負い玄関に立つ。
履き慣れた靴に足を突っ込み、トンッと床を蹴る。
そして、俺は学校へと歩き出す。
学校は歩いて十分程度の距離なので、もう少しゆっくりとしていても良かったのだが、現状把握の為に少しでも早く学校に行っておきたかったのだ。
テレビや新聞で確認した。
まず、間違いなく俺は丸々二十年分の時間を遡行している。
勿論、俄には信じ難い話だが、目の前に突き付けられた現実がそれを否定させない。
昨日までは確かに俺は会社員で東京で独り暮らしをしていた。
それが、目が覚めたら子供に戻っていた。
そんな荒唐無稽な現実を受け入れ、何かしらの行動を起こすにはそれなりの準備が必要だ。
もし、これが夢でないのだとしたら、俺は何としても元の生活を取り戻す必要がある。
朝日に照らされた町並みを見遣りつつ歩く。
昨日は姉さんに意識が行っていて、街並みなどろくに見向きもしなかったが、こうして改めて見てみると、記憶の奥底にある景色と一致する部分が多くある。
そして同時に、嫌でもここが自分の住んでいた東京ではないということを理解する。
「ははっ……」
乾いた笑い声が漏れ出る。
今更ながらとんでもない事だ。
――――
暫く歩いた所で、学校の校門が見えた。
何の変哲も無い公立小学校。
だが、今の俺にとっては懐かしい場所。
下駄箱の前を通り、教室へと向かう。
時刻は八時半少し前。まだ登校してくる生徒は少ないようで、ガラリと引戸を開け自分の教室に入っても誰も居ない。
五年生三組、出席番号は六番。
自分の物には名前を書きなさい。
何の役に立つのかも分からないルールだったが、過去の記憶も薄れた三十路にはありがたい話だ。
お陰で自分のクラスも特定出来た。
ところがだ、そこでハタと戸惑ってしまう。
間抜けな話で、今の今まで考えてもいなかった。
ズラリと並ぶ木製の机。
その内のどれが、自分の席なのだ……と。
――――
ズラリと並ぶ木製の机。
それを見て俺は困り果ててしまう。
当たり前の話だが、俺は二十年前の自分の席なんて覚えていないのだから。
どうしたものだろうか……。
そう思った時、背後から誰かに声を掛けられる。
「――おはよう高田君。
そんな所で何をしてるの?」
振り返るとそこには小柄なオカッパ髪の女の子。
酷く、表情の薄い子だ。
確か名前は……そう、小林さん。
ああ、彼女の事は覚えている。
やたらと物静かで、中学どころか高校まで同じだったのだが、殆ど絡みが無く、そのせいで逆に印象に残っているのだ。
「おはよう小林さん。
……実はさっき学校に着いたんだけど、どこに座れば良いのかわからなくなっちゃったんだ」
正直に話すと彼女は驚いた顔を見せた後にクスっと笑った。
「フフ。高田君っておかしな事を言うのね。
……あそこでしょ? 高田君の席は。ほら、あそこの後ろから二番目」
そう言って彼女が指差したのは窓際の、後ろから二つ目の席。
「あ、あそこなのか……ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
彼女はそう言うと、何やら言いたげに俺の顔を見た。
「あっ、ごめん。
俺が居たら入れないよね」
出入り口に俺が居座って塞いでいる形になっている事に気づき、慌てて退く。
「ううん、大丈夫よ。
私は別に気にしないし」
事無げに、俺が退いて空いたスペースを通って自分の席に歩み寄る彼女。
一番壁側の列、前から二番目だ。
そして彼女は、荷物を置くとこちらに向き直り言った。
だが、相変わらずの無表情。
そしてどこか不思議そうな表情。
「高田君。今日は随分学校に来るの早かったんだね」
「ああ、ちょっとね……」
俺は誤魔化すように、小林さんが指し示した自身の席に歩みを進めつつ応える。
その拍子に、足にぶつかった机が、ガタリと思いの外大きな音を発した。
ガチャン!
「あぁ、ゴメン。うるさくて」
「ううん、平気だよ」
「そっか」
「………………」
「…………」
俺達は互いに黙り込む。
両者の間に流れるいくばくかの気まずい沈黙。
「こ、小林さんこそ、随分早く学校にくるんだね」
そんな空気を何とかしようと、取り敢えず話題を振る。
すると、彼女はほんの僅かに首を傾げた。
そして、ややあって口を開く。
「……うん。うちはお父さんとお母さんが喧嘩ばっかりしているから。早く家を出るようにしてるの」
抑揚のない声で淡々と答える小林さん。
その姿に思わず言葉を失う。
大怪我をして、尚もそれから目をそらす……手負いの獣のような、やるせなさすら漂う静けさになんとも言えない気分になる。
だから俺は努めて明るい声を出した。
「……へぇー、それは大変そうだ」
しかし、返ってきたのは先程と何ら変わらない声色での返答。
「そうでもないよ。もう慣れたから」
――そうして、またもや訪れる沈黙。
「…………」
やはり、俺も彼女も会話が得意ではないらしい。
ふと、彼女がランドセルから取り出した一冊の本に目を向ける。
いわゆる純文学というのだろうか、俺が高校生の時、さわりだけ習った本の一冊。
小学生が読むには少々敷居が高い、サイコロのような文庫本。それを、彼女は小脇に抱えていた。
ふと、俺は彼女に尋ねていた。
「小林さんは……その本読んでるの?」
すると、彼女は一瞬キョトンとした顔をした後、コクりと小さく首肯する。
「……そんな分厚いのよく読めるね」
「本が好きだから。それに、この本は読みやすいもの」
「そっかぁ……まぁ確かに、この作家の本はテンポ良くスルスル読めるかな」
「…………え?」
言ってからしまったと思う。
俺がこの本の作家の本を初めて読んだのは、まだ先の事じゃないか。
案の定、小林さんは俺の言葉にコテンと首を傾げ
「高田君。……この人の本、読んだことあるの?」
と呟く。
「いやっ、違った! ……姉さん。姉さんがそう言っていたんだ」
慌ててそう誤魔化すと、彼女は納得した様子で小さく数度相槌を打つ。
「ああ、お姉さんが」
「あ、ああ……」
彼女はそれ以上深く追求することもなく、丁度他の生徒がやって来たこともあり、話はそこで終了する。
やがて人が増え、徐々に教室が騒がしくなってゆく。
授業が始まる。
そんな中、俺は自分の席で一人、ボーッと窓の外を見つめた。
僅かに記憶にある景色と同じ場所。
だが、何かが違う気がするのは何故だろう。
記憶の中の空と、今目の前に広がる青空に差を感じるのは何故なのだろうか。
俺は答えを見つけるべく、視線を外へと向け続けた。
――だからだろうか、この時俺は気づいていなかった。
チラリと、時折こちらを眺める少女が一人居たことに。
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