第33話 堕天使の終焉

「兄さん! 大丈夫か、しっかりしろ!」


 俺は即座に駆け出して、床に倒れた少年の細い体を抱きかかえた。薄くて弱々しい胸元には、口から吐かれた血がべっとりとついていた。

 あの時と一緒だ。いつものように病院でたわいない会話をしていたら、突然目の前で倒れて、集中治療も虚しく、そのまま帰らぬ人となった。


「兄さん死んじゃいやだ! 頼む、死なないでくれ!」


「じ、二郎……」


「意識がある! カロル、お願いだ! 兄さんを助けてくれ!」


「任せて!」


 すぐに駆け寄ってきた医師見習いに対し、兄さんは軽く首を横に振った。


「無駄だ。この体でいる限り、長くはもたない。いいか、よく聞け二郎……」


「無駄なもんか、カロルは呪医だ。科学じゃ治せない病気だって治してくれる」


「お前は本当に言うことを聞かない。カロルさんを困らせるんじゃない……」


 カロルはどうしたらよいのかわからない様子で、ただ困惑していた。

 俺だって無茶を頼んでいる自覚はある。でもどうしたらいいのかわからなかった。


「もう僕に残された時間は少ない。いいか、これだけは聞くんだ」


「……わかったよ」


 俺は右手で背中を支えながら、兄さんの手をしっかりと握った。


「二郎、父さんと母さんを恨んじゃいけない。僕の体は、合併症で治療の施しようがなくなっていたんだ。打ち切るように頼んだのは僕なんだよ。だからふたりは、最後はせめて薬漬けの生活から解放されるよう、痛み止めと祈りの療法に切り替えた」


「そんな、嘘だ。じゃあなんでそう言わなかった」


「嘘じゃない。お前は治る病気だと言って聞かなかったから、説得するのを諦めたんだよ。でも嬉しかった。少しでも長く生きていてほしいんだと、わかっていたから」


 兄さんは俺の手を離すと、血のついた細い指先で、俺の頬をそっと撫でた。


「そんなかわいい弟を置いて、天国になんかいけるわけないだろう? だから僕は、神を信じなかったのさ」


 頭が真っ白になった。

 てっきり兄さんも両親を憎んでいたとばかり思っていたのに、今さらそんなことを言われても感情の整理がつかない。

 兄さんを死に追いやった両親を憎み、罵倒してはばからなかった。公然と神を否定し、それを崇める者たちを見下していた。

 俺が科学に快復を願ったように、両親は神に安らかな死を願っていたというのか。

 結局、科学も神も何もかも、兄さんを助けてはくれなかったというのに。


「すまない、二郎……。もう時間みたいだ。魔王のギターを血で汚しちゃったこと、謝っておいてくれないか……」


「兄さん……」


 目の前が光り輝く。か細い少年の体はまばゆいきらめきを発しながら、腕の中であっという間に小さくなっていった。


「……キュゥ……」


「チュー太郎……。おい、しっかりしろ! 目を開けるんだチュー太郎! どうして動かないんだよ!」


 手のひらに乗ったハツカネズミは、なぜか微動だにしなかった。


「目を開けてくれよ。どうせ死んだふりなんだろ。わかってるんだよ……」


「二郎……」


「くそ……。オーバードーズだ。ネズミには負担がデカかったんだ。小さいくせに、食べ過ぎなんだよ、馬鹿……」


 女の子の前だってのにボロボロ涙なんてこぼして、我ながら本当にダサい奴だな。

 だから俺は、所詮チー牛なんだ。馬鹿にされたって仕方がない。俺だって嫌いだ、こんな奴……。


 チュー太郎の上に涙がこぼれ落ちても、それで奇跡なんて起きやしない。誰しもが言葉を失い、場が静寂に包まれるなかで、俺はひとりむせび泣いた。

 ふと横に気配を感じた。上質な黒いスラックスの裾が見える。魔王だ。ベルゼブブが横に立っている。


「じつにすばらしい演奏だった。兄弟の美しい魂の絆、しかと聞かせてもらった」


「……悪いけど、勝負なんてどうでもよくなってしまった」


「最後のは666点。つまり君たちの勝利だ。ゼクス、約束どおり我らのちからを授けよう。欲しいのだろう? 類稀なる音楽の才が」


「いらない。もう悪魔のちからなんて、俺は望まない」


「そうか、それはじつに残念だ。我々は理解し合えると思ったのに……。では、君はどうかね、ラ・トゥール?」


「わたしは今のままで十分さ。たとえ最上でなくても、自由に生きていたいんだ」


「ふむ、ふたりとも要らないと申すか。それなら君はどうする、チュー太郎?」


「……」


 わが耳を疑った。いったい何を言ってるんだ。俺のネズミが死んだのは明らかだ。やっぱりこいつは悪魔だ。地獄に堕ちて当然の存在だ。


「ベルゼブブ、貴様……。言って良いことと悪いことがあるだろう。人をからかうのもいい加減に──」


「ほう、そうかそうか」


「……え?」


 魔王は不自然にも虚空にうなずくと、俺の手のひらに載ったネズミをひょいと持ち上げてしまった。


「何するんだ、返せ!」


「ミュンジング太郎。彼の魂まだここにいる」


「馬鹿な。なんでお前が兄さんの名前を……」


「そしてこう言っている。僕は望むと」


「は……?」


「ならば与えよう! 悪魔のちからを与えよう! ここに、取引成立だ!!」


 突如、魔王の手のひらからどす黒い闇があふれ出て、視界がたちまち真っ暗に閉ざされた。


「うわあああああ! 何をしたんだ貴様! チュー太郎! 兄さあああああん!!」


 何一つ見えない。暗く冷たい深淵のようだ。

 初めて『死』を知ったのは、いつのことだったろう。

 幼いころ、灯りを消すと眠れなくて、兄さんに手を握ってもらったっけ。

 不思議と怖くはなくなって、夜闇は癒しをもたらす揺り籠になった。

 からからと響く笑い声は、まるで流れ星のようだった。


 いつしか俺は、死を恐れなくなった。

 兄さんと祖父母、両親が亡くなり、死んだように生きていた。

 今は死が恐ろしい。怖くて怖くてたまらない。己の死よりも他人の死がたまらなくつらいんだ。


 このまま闇に包まれて眠れればいいのに。何も知らなかった無邪気なあのころに戻れればいいのに。

 でも俺は死ねなかった。残酷にも生きていた。

 目の前に光が射し始める。その黒い霧が晴れたとき、魔王の細い手の上で、見慣れたハツカネズミは二本足で立っていた。


「やあ、二郎……」


「……チュー太郎……。いや、兄さん……」


 涙を袖で拭い、手のひらを伸ばすと、ひらりとそこに飛び移る。


「ああ……これは喜んでいいんだよね……」


「もちろんさ。これで僕は、晴れて悪魔の仲間入りだ」


「はは……なんて言ったらいいんだろう……。感情が追いつかないや。ありがとう、ベルゼブブ。いや、バアル・ゼブル。嵐の神よ」


 魔王はそれには答えず、そっとピンクのエレキギターを拾い上げた。


「音楽会の神童……その手型が加わった。また価値が上がってしまったな、相棒よ」


 そう言ってまた指を打ち鳴らしてギターを消すと、立て続けに今度は兄さんをタキシード姿に変え、腕の中に小さなヴァイオリンを呼び出した。


「それは餞別せんべつだ。すばらしい演奏、美しい兄弟愛を見せてくれたお礼だよ」


「ありがとう。大切に使わせてもらうよ」


 すっかり演奏家の姿となったネズミは、丁寧にお辞儀をしてみせた。


「さて、三番勝負はこれにて終了。すばらしい退屈しのぎとなったよ。君たち、余の招待に応えていただき、誠に感謝である」


 魔王は深々と礼をすると、俺に手を差し伸べてきた。


「こ、こちらこそ……」


 慌てて頭を下げ、手を握る。ほんのりと温かく、長細い……。

 彼はいったい何者なのだろう。

 それはかつての神か、あるいは悪魔の王か、はたまた元は人間だったのか、本当のところは知る由もない。

 しかしなんだか、大人になることのできなかった兄さんのようでもあった。


「さて、そろそろお別れですね。会えて良かったですよ」


「ベルヒトルト! それにシスターも……。いろいろあったけど、ありがとう」


「拙僧はこれからも、バアルさまの信者獲得のために尽力する所存でございます」


「信者にはなれないけど、ファンにはなっちゃたかもしれない」


「なんと、狂信者ファナティックですって? それはたいへん心強い!」


「ああ、いやそういう意味じゃなくて……。俺はまだ魔王が何者なのかを知らない。悪いけどまだ信仰するわけにはいかないよ。だけど芸術は別だ。人格……いや、神格とは別に、彼の弾くギターと指揮には惚れてしまった」


「そうですか……。ではまた次のお機会に……」


 ワイルドハントをがっかりさせて申し訳ないと思ったのも束の間、横からふたつの影が前方にぐぐいと進み出た。


「私はベルゼブブさまの信徒になります!」


「僕もです! 奇跡を目の当たりにしたのです!」


「おお、本当ですか! 歓迎しますぞ、同志よ!」


「ちょ、なに言ってるんですかジェランドさんとオベールさん! そんなあっさりと信仰を変えてはいけませんって!」


 俺とカロルは、魔王に縋りつこうとするふたりを羽交い締めにして、なんとか思い留まらせた。

 信心深い人々は、目の前で起きたものをすぐに信じてしまうピュアさがある。それが彼らの魅力であり、また心配なところなのだ。


「あたしも信者欲しいな」


「お前は何を言ってるんだ?」


「じょーだんよ。あたしはあんたと違って、帰りの心配をしてんの。こっから歩いて裏ジュネーブに帰るのよ」


「そ、そうだった……。家に帰るまでが冒険だ……」


「案ずるな。君たちをこの城まで招いたのは余である。なにやら配下が迷惑をかけてしまったしな。そなたの父ザカリウスも、あらためて山頂に葬ると約束しよう」


「あ、ありがとうございます……」


「送ってくれるんですか?」


「もちろんさ」


 魔王がパチンと指を打ち鳴らすと同時に、暗黒の渦が出現する。その価値を理解する魔術師ふたりは、恐れるような表情を見せた。


「そんな、ポータルをあっさりと呼び出すなんて……」


「くぐり抜けたら魔界なんてことはないだろうね?」


「それは行ってのお楽しみだ。では諸君、さようなら! この者たちに祝福あれ!」


 ダン・デュ・ミディ山の渓谷には、毎年冬になると魔王がやってきて、サラバンドを指揮するという。そしてアルプスには、罪深い大司教がワイルドハントとなって、永遠に終わることのない罰を与えられてさまよっている……。

 まさか異世界の雪山にて、このような伝説を目の当たりにするとは、予想だにしていなかった。

 俺たちは、悪魔に貶められたいにしえの神と再興を目指す者たちにあらためて別れを告げると、行き先の知れない怪しげなポータルの中へと入っていったのである。

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