第32話 堕天使と魔王3

 静かなる怒りをあらわにした魔王は突然、小刻みに全身と翅を震わせた。硬そうな昆虫の体が脈打ち膨れ上がり、次第に人と大差ない、だがほっそりとした形へと変化していく。

 似たような光景を見た記憶がある。いや、あれは夢だ。兄さんが顔が割れて、巨大な複眼が現れた恐ろしい悪夢。

 今度は蠅の顔がぱっかりと左右に割れて、中から人の顔が見え始めた。


『!?』


 俺たちはその異様な姿に絶句した。

 美しい貴公子然としたベルゼブブ。醜かった顔と丸々とした体は、今や魔神としてふさわしい高潔さと禍々しさをそなえていた。額に残る触覚の跡と蠅を模した燕尾服に名残は垣間見えるも、もはや完全に別人。これが魔王の真の姿だというのか……?


「余を本気にさせた人間は、はたしていつ以来であろうか。ゼクスよ、これはただの怒りではない。君のその才能、悲憤、情熱が、長きにわたり沈みこんでいたわが感情を突き動かしたのだ。さあ見せておくれ、最高の勝負をしようではないか!」


 そう言って両手を高々と掲げるその神々しい姿は、まるで兄さんと同じ病気をもつ大人のようだった。


「……先ほどの無礼はお許しいただけるのでしょうか?」


 俺は完全に腰を引いて、恐る恐る尋ねた。なにが青白き焔を纏う漆黒の堕天使だ。本物を前にして、完全にびびってしまった。


「ふふふ。あれは狙ってやったのだ。いわば鉄板ネタさ。さあ、君の一番好きな曲を教えてくれたまえ。それをもって最後の戦いを華々しいものとしよう」


「俺の一番好きな曲……?」


 そんなものは幾らでも思いつく。しかし、記憶の中に折りたたまれていたあの感動の記憶が、突然まざまざと蘇ってきた。

 俺はほとんど無意識に、慣れ親しんだその題名を口にする。


「ジェイムズ・スウェアリンジェンの『アヴェンテューラ』……」


「ほう? どうしてそれを選んだのか、ぜひ聞かせてくれたまえ」


「小学校に通っていたころ、体育館で先輩たちが演奏してくれたんです。その中に俺の兄さんも混じってた。俺は鳥肌がたつほど感動し、それまでさほど興味のなかった音楽に初めて憧れをいだいた。それで自分も吹奏楽部に入ろうと思ったんです」


「おお、とてもすばらしいきっかけだ。そのような話が聞きたかった!」


「でも兄さんはすぐに病気が悪化して、一緒に演奏することはできなかった。結局、そのまま亡くなってしまい、夢を叶えることはできなかった……」


「ああ、なんと悲しいことだ……」


 魔王は美しい顔を持ち上げ、ほっそりとした手を当てて嘆く。

 敵の行為をすばらしいと褒め称え、悲しみには親身に心を寄せる。逆張りと言えばそれまでだが、たしかに神を崇める者どもとは真逆の言動だ。

 俺は救出という目的を果たしたあとは、ただ招かれるまま流されるままにここへたどり着いた。だが今は、反抗心から憧れてきた悪魔からちからを譲り受ける試練を乗り越えようと、心の底から覚悟が決まっていた。


「俺は、悪魔に魂を売った音楽家たちの隣へと登り詰める。勝負だベルゼブブ。そのちから、必ずや貰いうける」


 指でつくった銃口をつきつけると、いつものように眼鏡を外して、青カビチーズをひとかけら摘まみとった。もう持ち合わせは残り少ない。ここまで一敗一分け。相手が対等を求める以上は、せめて五分に戻さなければならない。


 魔王は柔和に微笑むと、指を打ち鳴らして相棒を帰還させ、壇上に瞬間移動した。

 こちらに背を向けているということはつまり、指揮者として戦うようだ。

 ベルゼブブは指輪を掲げ、再びアムドゥシアスとその眷族たちを呼び出す。骸骨は管楽器が苦手そうだから、補おうというわけか。


 いつの間にかベルヒトルトとシスターはこちら側に降りてきていて、勝負の行方を見物する気のようだ。カロル、ジェランドさん、オベールさんの三人も端にのいて、ラ・トゥールだけが残った。


「魔界のオーケストラ相手にひとりはつらかろう。ここはわたしも協力しよう」


 これまで背後から支援という形で共闘してきた男は、ようやく俺の横に立ち、師弟で挑むのが明確になった。俺はうなずき返し、魔神と髑髏の楽団をにらみつける。

 あいだに余興を挟んでくれたお陰でチーズを食べる準備も整っている。どこまでも公平な勝負にこだわるとは、見上げた魂だ。


 魔王がタクトを高々と掲げる。それが降ろされるとともに、ゆっくりと金管楽器が吹き鳴らされて、いよいよ勝負が始まった。悪魔と死者たちによる負のメロディーに打ち勝つべく、俺はチーズを飲み込んで、ラ・トゥールと共に演奏を開始する。


 暗く重々しい短調から始まった調べが、一気に長調へと切り替わる。最も好きな曲の最も熱いところ。

 弟子は熱く激しく、師は明るく楽しく、魔界のオーケストラに負けじとふたつの魂がほとばしる。

 ぶつかる音波。飛び散る火花。共に譲らず、生と死は互角の勝負を繰り広げる。

 すばらしい! すばらしい! 魔王の背中から心の叫びが聞こえてくるようだ。


 『アヴェンテューラ』は決して難易度の高い曲ではないが、その熱さゆえに吹奏楽ではとても人気の高い曲だ。

 ひんやりとした体育館の空気と、静寂した生徒たちの厳かな雰囲気は、幼きころのわが神経を昂らせ、音楽の道へと駆り立てた。

 活力に満ちていた兄さんの姿を見て心が揺さぶられた。それまでは弱くて情けない兄貴だと馬鹿にしていた。でもそうじゃなかった。兄さんは最高にかっこいい、俺の憧れとなったんだ。


 明るいパートはラ・トゥールに主役を譲り、激しさを増せばまた自分が前に出る。頭数では負けていても、一歩も引けをとっていない。

 魔王の指揮には癖がなく、それでいてほかにはない流麗さだった。なめらかに揺れ動く魔王の背を見つめながら、そのリズムを利用させてもらう。


 再び短調に入った。陰鬱なメロディーに乗せて、敵の勢いがいや増していく。

 神から悪魔、生者から死者へと悲哀を経験した者たちの調べが大きく膨れ上がり、死の旋律が俺たちに襲いかかる。

 体から魂が吹き飛ばされそうだ。ラ・トゥールの長い髪が後ろになびき、逆立つ俺の髪も折れそうになる。悪魔に屈してなるものか。死者に負けてなるものか……。


 俺の本当の夢は、人に評価されることでも注目を浴びることでもない。ただ兄さんと隣り合い、向き合い、演奏して笑い合いたかった。でも二度とそんな瞬間はやってこない。

 周囲からは馬鹿にされ、金のせいで音楽もできなくなった。幼いきょうだいのために生きているだけで、本当は全部どうだっていい。もう、こんな人生はまっぴらだ、終わってしまっていい。生きてたって仕方ない。

 何度も振り切った暗い思いが、突然ぶり返してくる。


 じりじりと押されている。師匠が踏ん張る一方で、俺は後方へと下がっていく。

 魔王の完璧なる指揮に統率された悪魔と髑髏の楽団によるハーモニーは、心と体を徐々に蝕んでいく。

 兄さんの死後、俺は両親を恨み、神を呪って悪魔に憧れるようになった。

 だが悪魔は俺が思っていたほど甘いものじゃなかった。今はただ、受け入れたい。勝ってちからを手にするのではなく、敗北して彼らの一員となりたい。そんな思いが募っていく。


 まずい、このパートは……。もう時間がない。チーズが……チートが切れる……。ズルが終わる……。

 見せかけの自分。なんの努力もせずに得たちから。

 こんなものが勝負か? いったいなんの意味があるんだ? 俺は……こんなものを目指していたわけじゃあ……──


「二郎!」

『チュン二郎さん!』


「ぐあああああああ────‼︎」


 俺たちはとうとう吹き飛ばされ、ラ・トゥールと共に壁に打ちつけられた。


「ぐはっ……」


「キュー‼︎」


 俺は仰向けにぶっ倒れた。苦痛に身もだえて目を開けることもできない。

 鉄の味がする。口を切ったのか、それとも血を吐いたのか。

 負けた。完敗だ。何がチートで無双だ。偽物が本物に勝てるわけがなかった。

 胸のあたりがもぞもぞ動く。慰めてくれるのか、チュー太郎。

 すまんがチビどもを頼む。と言ってもネズミにゃ荷が重いか……。

 ああ……兄さん、ごめん……。俺、約束守れなかった……。

 意識が遠のいていく。ここまでか──。


「────ませ!」


 ……?


「──を覚ませ!」


 誰の声だ……? ラ・トゥールじゃない。知らない子供みたいだ。

 なんだか懐かしい気がする。声は記憶の中で一番最初に薄れていくんだっけ。

 思い出せない。君はいったい誰なんだ……。


「目を覚ませ、二郎!」


 ……兄さん? 思い出した。これは兄さんの声だ。

 ああ、そっか。俺、死んじゃったんだね。

 兄さんと一緒の煉獄に来れたのなら、それもいいや。俺は地獄に行ってもよかったけど、兄さんが行くわけないしな。

 でも……そもそも信じてなかったら、煉獄にも地獄にも行かないよな。

 それじゃあここは、いったいどこなんだ?


「目を開けるんだ、二郎!」


 うっすらと目を見開くと、見知った懐かしい顔があった。ほっそりとした体つき。色白で優しい顔。間違いない、やっぱりそうだった。


「……やあ、兄さん。また会えたね。ここはどこだい? 妖精の国?」


「やっと起きたか。さあ、立つんだ二郎。戦いはまだ終わっちゃいない」


 ここは魔王城の最奥のようだ。音楽は止まり、みんなが俺を見つめている。


「どういうこと? どうして兄さんがここに……」


「チーズだよ。最後のひとかけらを頂いたのさ」


「なに言ってんだ、理屈になってないじゃないか。相変わらず冗談ばかり──ハッ! チュー太郎、どこだ、どこに行った?」


「僕はここにいるよ」


「……え?」


「僕がそのチュー太郎なのさ。あの青カビチーズは何だい?」


「……想い描く……本当の自分に……。そんな、まさかチュー太郎……」


 嗚呼──。熱い吐息が漏れる。


「さあ、立つんだ二郎。魔王が待ってくれている。音楽を止めるなんて相手にも観客にも失礼だ。チーズの効果が切れる前に、早く立て、二郎!」


 痛みをこらえて立ち上がると、背の高かった兄さんが俺よりも小さかった。夢ではもう少し大きく見えたのに、なんだか不思議だ。

 兄さん、ずっと俺と一緒にいてくれたんだね。チュー太郎として……。


「フハハハハッ! これは妙なことになった。ネズミが人間に化けるなど!」


 ベルゼブブは壇上からこちらを見下ろし、高らかに哄笑した。対する兄さんは一歩前に進むと、毅然とした表情で懇願する。


「魔王よ。僕にも戦わせてもらえないか?」


「面白い、いいだろう。君にわが相棒を貸してやるとしよう。兄弟の絆、余に見せてくれたまえ!」


 魔王はそう言うと指を打ち鳴らし、例のギターを兄さんの腕の中に召喚した。

 俺は懐を探るも、チーズは残されていなかった。本当にぜんぶ食いやがった。

 もうチートを使うことはできない。それでも俺は、魔王に挑まねばならなかった。なんのちからもない、ただの人間であったとしても。


 魔王は背を向けると一呼吸おいて、ゆっくりタクトを振り上げた。陰鬱な続きから曲が再開され、やはり強烈な冷たい死のオーラが壇上から襲いかかってくる。

 だが、死を超越し、ネズミとして現生をさまよってきた兄さんは、それに勝るとも劣らない暖かなメロディーを奏で、正の短調で負の短調を打ち消していく。

 俺は感嘆した。あのころのままの兄さんだ。小さくて大きな背中を見つめながら、遅れまいと必死にくらいつく。


 長かった暗いトンネルを抜けて、ついに長調に戻った。ここからは俺でもやれる。たとえチーズのちからがなくたって、魔王に挑むことができる。

 明転と暗転の繰り返し。まるで人生のようじゃないか。多くの音楽家たちがそれをエールとして曲に籠め、人々に送り届けてきた。今まさに、俺はようやく理解した。

 音楽を愛する悪魔よ、あんたはすばらしい。俺はそのちからを手にすることなく、己の……いや、仲間との絆で勝ち切ってみせよう。


 三たび曲調が沈み、厳かな流れになるも、こうなれば跳ね上がる予兆に過ぎない。最後の短調を屈することなく弾ききって、いよいよ終幕に入る。

 アムドゥシアスが奏でるトランペットと骸骨が打ち鳴らすドラムとの勢いが増す。俺は兄さんとラ・トゥールと共に魂を輝かせる。

 敵と味方が一気に階段を駆け上がり、『アヴェンテューラ』は盛大なフィナーレを迎えた。


 鳴り響いていたすべての音が静まると、アムドゥシアスとその眷族、髑髏の楽団は黒い塵となって、ゆっくりと霧散していった。

 勝った。演奏しきった。見守っていた五人から歓声と拍手が湧き上がる。

 壇上には、背を向けた指揮者がひとり取り残されていた。やはりベルゼブブは倒すことはできなかったが、これならば確実に勝利と言えるだろう。


 蝿の王がおもむろに振り返る。

 と同時に、兄さんが膝をついて崩れ落ちた。

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