第31話 堕天使と魔王2

「出でよ、アムドゥシアス! 音楽を司る魔神よ!」


 魔王が掲げた指輪から白い光が一直線に絨毯へ伸びて、紋様を浮かび上がらせる。すると中から、トランペットの音とともに一角獣の頭をもつ悪魔が現れた。

 冗談だろ、こちとらもうヘトヘトだってのに「まずは」だって?

 青ざめた俺に対し魔王は小首をかしげ、すぐにうなずいてみせた。


「おっと、そうであった。すっかり失念していたよ。君たちは大層お疲れだったね。余は対等な勝負以外は望まない。弱った鼠をなぶり殺す趣味などないのでね」


 そのまま手のひらをこちらに向けると、視界が真っ黒に閉ざされた。

 それは恐怖をもよおす冷たい闇ではなく、安らかな眠りをいざなう心地よい闇だ。たちまち体からあらゆる痛みが霧散し、心に熱い闘争心が戻ってくる。

 その霧が晴れたとき、身心どころか服や道具の傷すらも修復されていた。


「これは何? どういうことなの……」


 カロルの疑問を遮って、ベルゼブブは両手を拡げて始まりを告げる。


「さあ、余に見せてくれたまえ! 君のほとばしる『熱情』を!」


 アムドゥシアスがいななくようにトランペットを吹き鳴らした。

 ユニコーンの悪魔が放つ大音量の音波は鼓膜よりも体全体に響いてくる。不可視の衝撃により、体から魂が吹き飛ばされそうだ。


「ぐああっ! この曲は……『熱情』ってそういうことかっ!」


 敵が音楽を奏でる状況で異なる曲を演奏するわけにはいかない。そんなことをしては魔王の怒りを買うだけでなく、俺のプライドも傷ついてしまう。

 目には目を、歯には歯を、熱情には熱情を。同じ曲で挑むほか道はない。

 ジェランドさんとオベールさんはおろか、ラ・トゥールとカロルまでも脇にのき、どうやらタイマン勝負になりそうだ。


 いつものように眼鏡を外してチーズを口に放り込み、先行する魔神に合わせて勢いのある第3楽章を弾き始める。

 このタイトルはベートーヴェン自らがつけたものではなく、出版の際につけられた通称だ。しかしこれ以上に似合う題名は考えることはできない。


 俺の熱情とはなんだ? 生きる原動力になっているものとは。

 両親への怒り、神への憎しみ? そんなもののために生きるのは嫌だ。

 からかいに対する反骨精神? もってのほかだ。考えたくもない。

 悪魔への憧れ? それも違う。


 俺はただ、幼いきょうだいを守りたい。もういちど音楽をしたい。そのために仲間を集めたい。恋だってしたい……。

 でもそれだけじゃない。もう二度と叶わぬ夢──

 兄さんに会いたい。共に演奏がしたい。したかったんだ。

 

 相棒からは悲しみの音色が流れ、悪魔の吹くトランペットの勢いに呑み込まれそうになる。はたしてこんなものが熱情なのか。

 しかし忘れてはならない。この曲はあくまでも第3楽章。これまで俺は、激しい曲ばかりを好んで、希望の抑圧された第1楽章を軽んじてきた。

 悲しみを耐え抜き、仲間とともに苦難を乗り越えてきた今なら理解できる。先へと進むためにここで負けるわけにはいかない。これが俺の熱情なんだ!


 魔神は優に三メートルを越し、頭上から爆音波をぶつけてくる。

 これじゃあまるで、剣道で背の高い奴から面打ちをくらうようなもんだ。布部分で受けると脳細胞が死にかねない相手には、顔を上げて金属部分で受けるしかない。

 高速パートに入った。オタクが得意分野で早口になるように、チー牛のテクニックを舐めんじゃねえぞ! こちとらいろいろ捨てて技磨いてんじゃい!

 光線をぶつけ合う演出のごとく、目の前でふたつの音波が砕け散る。


 しかしはたして間に合うか? 曲は長いがタイムリミットがある。

 一音一音ぶつけ合うのみで、互いにかすり傷ひとつ負わせていない。だが一手でも間違えば魔神が奏でるトランペットの直撃を喰らって、ただでは済むまい。

 段々と曲調は沈みこみ、同時に精神がすり減っていく。

 だ、駄目だ。曲は三分を過ぎた。途中から始めたとはいえ、このままじゃ──


「そこまでだ! この勝負は引き分けとしよう」


 唐突に、魔王は勝負を打ち切った。と同時に体からチーズの効果が失われていくのがわかる。目の前のアムドゥシアスはなおも健在。勝負が続けば命はなかった。

 言葉に偽りなく、ユニコーンの魔神はあっさりと帰還させられる。俺は息を荒げて冷や汗を垂らしながら、ベルゼブブに語りかけた。


「……どうやら対等な勝負がしたいってのは本当みたいだな。まったく悪趣味だぜ。俺たち全員をいつでも殺せるくせに遊んでやがる」


「余はただ、かつての敵がしてきたような粗暴な振る舞いをしたくはないだけ。この意味、君ならば理解できるであろう? それにズルをして無双する気もない」


「ぐっ……。俺だって本当は素の自分で勝負したいんだ。それにあんただってすごい指輪を使ってるじゃないか。どう考えてもチートだぞ!」


「ではしてみるかね、余と直接対決を。なに、ただの音楽勝負だよ。命など取らぬ」


「いったい何を……」


 ベルゼブブは翅を使って、壇上から舞い降りてきた。

 最終決戦にしてはいささか緊張感に欠ける気もするが、魔王が心から音楽を愛しているのは伝わってきた。どうやら伝説は想像どおり、休暇で遊びに来ているだけなのかもしれない。


「先ほどは余が演目を選んだ。次は君が決めるがよい」


「そう来たか。ならば高速演奏勝負といこうか。ギタリストの勝負と言えばやっぱりあれだな。『熊蜂の飛行』」


 この曲はなぜかギネスの勝負事に使われてきた歴史がある。年々早くなって収拾がつかなくなり、たしか記録をとるのは打ち切られたはずだ。

 俺はこの短期間に、恐ろしい速さで上達している。もともと楽器は先生に触らせてもらっていたし、イメトレで擬似的経験を培ってきた。

 魔王のあんな針金みたいな手じゃ途中でポッキリだろう。この勝負もらった。


「ほう、なるほど。ところで知っているかね。プーシキンの原作では、王子は二番目に蝿へと変身するのだ」


「へえ、博識だな。さすがは魔王。伊達に何千年も生きてはいない」


「トリビアに感心してんじゃないわよ!」


「相手を認める。それは戦って打ちのめすよりも上位の、高潔な行為なのさ」


 ちなみに和名ではクマバチとなっているが、羽音がヤバイわりにおとなしいあいつではなく、本来はマルハナバチという種である。ネズミが掘った穴を利用することがあるので、俺はこいつらを気に入っているのだ。


「ではこっちから行くぜ。腰を抜かすなよ」


 魔王は腕を組み、無言でこちらを見下ろす。余裕ぶっていられるのも今の内だ。

 ゲームをする連中はよく秒間ダメージという意味でDPSという単語を使うが、ここで使われる単語は一分間の拍数BPMだ。

 俺の脳内では300を超えることができ、これが芸術性と速度を両立したぎりぎりのライン。それ以上は誤魔化してるだけのただの雑音。つまり、俺はほとんど負ける気なんてないってことだ。


「カロルさん、この時計を使ってください。クロノメーターがお役にたつはずです」


「え、あたしが仕切るの? まあいいけどさ」


 天才時計職人ザカリウスの遺作は、紆余曲折あって本来の時計として使われることになった。これで本人も報われることだろう。


「そんじゃ、いくよ。よーい、スタート!」


 キュルキュルキュルキュルキュルキュルドゥルドゥルドゥルドゥル……


 合図とともにロケットスタート。みな呆気に取られている。そりゃあそうだ。

 指が千切れそうだがお構いなし。このまま突っ切ってやる。


 チャン、チャーン


 最後は余裕をもって優しく。ふう、どうだカロル、惚れ直したか。

 本来は1分10秒かかる曲をざっと40秒ほどで弾き終わった俺は、ドヤ顔を決めてみせた。もともと恐ろしく速いがゆえ、30秒も縮めるのがどれほど凄いことか。


「参ったか、ベルゼブブ!」


「ふむ、なかなかやるではないか」


「……あんたそれ、本気で良いと思ってんの? 曲が台無しじゃない」


「あ!? お前わからないのか、この凄さを!」


 まあ、異世界の住民が理解できないのは想定の範囲内だ。古い価値観に囚われた者どもに、このスピードはついてこれまい。


「それでは余のターンだ。カモン!」


 ベルゼブブが細い指を打ち鳴らすと、その腕に奇抜なカラーリングのエレキギターが出現した。

 なんだあの色は。ショッキングピンク……?

 じっくり観察しようとしたが、すぐに敵の演奏に集中せねばならなかった。


「んじゃサクサクいくよ。よーい、スタート」


 キュルキュルキュルキュルキュルキュルドゥルドゥルドゥルドゥル……


 チャン、チャーン


『は?』


 その場の人間全員が口をぽかんと開けた。投げやりな合図からほどなくして、演奏はあっという間に終わってしまった。


「はえええええええ!! さすが蠅の魔王だ!!」


「いや、雑音でしょ。もはや音楽じゃないじゃない。単なる蝿の羽音よ」


「なに言ってんだよカロル! 聞き取れなかったのか? 誤魔化してる奴と違って、ベルゼブブはきっちり弾いていた! それでいて、何秒だった?」


「ごめん、見てなかったわ」


「まあいい、俺の完敗だ」


「なにあっさり負けを認めてんのよ!」


 俺は楽しんでいた。たとえ破れようと、相手を賞賛するのが真の勝負というもの。そしてその感情は魔王の側からも感じられた。

 ベルゼブブは小刻みに体と薄翅を震わせ、勝利やこちらの敗北を喜ぶのではなく、行動そのものを喜んでいるようだった。


「細緻な技能に理解を得ることの難しさよ。才能がなければその領域に到達することはできない。君はじつに余の見込みどおりだ、ゼクス」


「そりゃあどうも。このまま勝ち逃げで終わるつもりもないんだろう? さあ、次の勝負をしようぜ」


「そうさな。さて、どうしたものか……」


 そう言って魔王がギターを離した瞬間、俺はとんでもないものを見てしまった。

 キ〇ィちゃんだ!

 どピンクのボディーに何かが描かれているとは思っていたが、演奏に集中していたため、今の今まで完全に見逃していたのだ。


『ぶーっ!』


 俺はカロルと共に、思わず吹き出してしまった。


「くっはっは! ちょうど四歳の妹が……ぬいぐるみ貰って喜んでたぜ……!」


「あっはっは! あんた魔王でそれはないわよ……お腹が苦しい……!」


 ひとしきり腹を抱えて爆笑するも、ふと静まり返った場の雰囲気にハッとする。

 ま、まずい、やっちまった……。

 ベルゼブブは微動だにせず、落ち着いた声音で言葉を紡ぎだす。


「このギターは余の相棒である。すべての世界にただ一つしか存在しない」


「へ、へえ……貴重なものだったんですね! かっこかわいいなあ……!」


「ちなみにこれを作ったのは、ジャン=バティスト・ヴィヨーム13世。制作ナンバーは#666だ」


「まさか、パガニーニのヴァイオリンを作った伝説の職人の後継者!? そんなすごい代物だったとは……! さぞお高いんでしょうね!」


「わが相棒に値段をつけることなどできない。余に魂を売った音楽家たちのサインが刻まれているからな。人の子の生は長くはもたぬ。価値は上がる一方だ」


「た、魂を売った……? そういや見覚えのあるサインがいっぱいだ……」


 俺は恐怖に震えながら眼鏡を少し上げ、うかがうように腰を屈める。

 しかしカロルは事の重大さを理解していなかった。


「あんたらいったいなんの話をしてんのよ?」


「馬鹿! 価値のわからん女子供は、すっこんでろ!」


「なんだって! 今なんつった!」


「いいからお前も謝るんだ! すみませんでしたベルゼブブさま! ご無礼を働いたこと、このとおり、どうかお許しくださいませ……!」


 俺は少女の頭を押さえつけ、床にひざまずく。抵抗されて頬を打たれるも、それどころではない。俺は敵を、魔王を、音楽を侮辱してしまったのだ。


「ふむ。決めるのは余ではない。どうする? わが相棒よ」


 魔王は静かに、その細い手に握られたエレキギターへ語りかける。


「……なるほど。残念ながら、君は不合格だそうだ。他者の尊厳を踏みにじる者に、我々の才能を与えることはできない。申し訳ないが、先ほどの約束はなしだ。全員、今ここで死んでもらおう」


『キ〇ィさあああああん!』


 俺とカロルは悲痛な叫びとともに力なく崩れ落ちた。

 まさに『猫の前の鼠』。世界中で愛される、猫をモチーフとしたキャラクターが、こんなところで俺に牙を剥くなんて……。

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