第30話 堕天使と魔王1

 時計だらけだった広間は、今や残骸であふれ返っていた。足元に目をやれば、あの懐中時計が文字盤をこちらに向けて転がっている。つくづく薄気味悪い代物だ。

 拾い上げると、例によって血のような赤文字が浮かび上がった。


《嵐の王は、高き館で待ち受ける》


「やれやれ。依頼人と時計を取り戻し、もうこの城に用はないというのに、魔王にお呼ばれされたとあっては行かねばなるまいな、チュン二郎」


「お疲れ、ラ・トゥール。どうやらそうみたいだ。そういやベルヒトルト──って、あれ? また消えてる……。相変わらず変な奴だなあ」


「終わったんだね」


 声に振り返れば、ふたりを連れたカロルが立っていた。


「ああ、なんとかね。オベールさん、あの時計だけ戻ってきたけど、ほかは……」


「いえ、もういいんです。師の心臓と連動していた時計を修理した私が悪いのです」


 そう言うと複雑な表情を浮かべて、がれきの山に視線を向ける。ザカリウス親方とピットナッチオの姿は残骸に埋もれて確認することはできない。時計に執着した職人と悪魔の墓としては、あれがふさわしいのかもしれない。

 ジェランドさんにかける言葉が見つからず、皆で静かにたたずんでいると、彼女は寂し気な笑顔で会話を切り出した。


「ありがとうございました、チュン二郎さんとラ・トゥールさん。振り返らずに次へ行きましょう。わたくしにもあなたの果てを見届けさせてください」


 俺たちは黙ってうなずきあった。オベールさんに時計を手渡すと、魔王が待つ城の最上階を目指すことにする。


「どうやらあちらのようです」


 文字盤に浮かび上がる赤い矢印を頼りにし、すぐに螺旋階段を発見した。おそらくこれが、外から見えていた立派な尖塔なのだろう。

 衛兵が残っていないとは思えないが、周囲に敵は見当たらない。俺たちは重い体に鞭打って、長い上り階段を進んでいく。


 アンデルナット城にたどり着いてまだ間もないというのに、すでにいろいろなことがあった。猫の頭をしたドラゴン、グレムリンの王、機械の神。怒涛の三連戦で身も心もずたぼろだ。

 じつにチー牛らしい惨めな姿じゃないか。口を半開きにして息を切らせながら階段を上るさまは、じつに不細工な面をしているに違いない。


 それにしても魔王はいったいどんな奴で、何を企んでいるんだ。

 俺は勇者でなければ英雄でもない。これまでの悪事はピットナッチオの仕業である以上、魔王と戦う理由はまるで見当たらなかった。

 それでも招かれるままに、とうとうここまで来てしまった。神を呪い悪魔に憧れてきた自分は、ひょっとしたら魔王のしもべとなってしまうのではないか。


 次第に上から赤黒い光が降り注いでくる。どうやらついに魔王城の最奥へとたどり着いたらしい。階段を上がり切った俺たちは、禍々しい扉の前で足を止めた。

 庭園に置かれていた彫像と同様に、苦悶に満ちた人々や幼虫といった薄気味の悪いレリーフがはめ込まれている。これが何を意味するのかは不明だが、かつて神だった存在の逸話が語られているとは到底思えない代物であった。

 ベルヒトルトは魔神と化したベルゼブブを嵐の神バアルに戻したいようだが、本人はまるで悪魔でいることを楽しんでいるかのようだ。


 一向に動かない扉と誰も触れようとしない様子にもどかしくなり、思い切って自ら取っ手を押してみると、それはゆっくりと上品に開かれた。

 部屋の中は真っ暗でなにひとつ見えなかった。立ち並ぶ邪悪な像から漏れる赤黒い光だけでは、その全貌をうかがうことはできない。

 俺は先頭に立って一歩ずつ進んでみるが、不思議と恐怖はなかった。適度な室温と張り詰めた静寂は、まるで劇場に入ったような緊張感である。


 突然、前方が暖かな光で照らされて、舞台上にいくつもの人影と、指揮者の後ろ姿が見えた。と同時に、静かにゆっくりと、重々しい演奏が始まった。


「な、なんだ? このメロディはまさか……」


 思わず小声になる。邪魔をしてはいけないと直感的に悟っていた。


「『ペール・ギュント』。エドヴァルド・グリーグの『山の魔王の宮殿にて』」


 ヘンリック・イプセンの劇にために作られた付随音楽、第1組曲の第4曲。

 音楽は段々と速度を上げ、激しく荒々しくなっていく。最初は少なかった楽器も次々と数を増して賑やかだ。

 演奏している者たちの姿を見て、俺は絶句した。

 骸骨だ! 髑髏どくろの楽団だ!


 バスドラムが打ちつけられるたびに、体が跳ね上がる。

 全身が総毛立ち、寒気が止まらない!

 俺は鼠だ! ちっぽけで弱い、臆病な鼠だ!


 命を取られる直前で、演奏は激しい勢いのまま終わった。

 しかし俺たちは誰ひとり口を開くことはできず、呆然と立ち尽くしていた。こちらに背を向けている指揮者をただ見つめる。手足は針金のように長細く、それでいて頭は異様に大きい。

 間違いない、あれが魔王だ! 蠅の王ベルゼブブだ!


 静寂を破り、右に立つ者が唐突に拍手した。ラ・トゥールの意外な行動に面食らうも、俺はカロルと共にそれに倣う。

 ジェランドさんとオベールさんは警戒をするように微動だにしないが、魔王はまだこちらに敵意を表していない。ならば敬意でもって応えるべきである。


 急にスポットライトが照らされた壇上の人物を見て、俺はさらに仰天した。

 ベルヒトルトだ! あいつやっぱり生きていた。いや、死んでるから死ななかったというべきか。というかちょっぴり若返ってる⁉︎ 時間攻撃を喰らって、巻き戻ったのか?

 いったい何をするつもりだ? なんであんなとこに立っている? 意味不明すぎてツッコミが追いつかないぞ。


 指揮者は体を震わせ、またも演奏が始まった。今度は何の曲だ……。

 神への賛歌のようだ。どこかで聞いたことがある。

 ベルヒトルトとシスターが歌っている。てか、めっちゃ良い声だな!

 荘厳で美しい歌だ。これはたしか──。


「メンデルスゾーンの聖譚曲オラトリオ、『エリヤ』。第1部第11曲……」


 俺ははっとした。今、完全に理解した。

 これはまさにベルゼブブに捧げる歌だ。この場でこれ以上ふさわしいものはない。


「『バアルよ、我らに答えたまえ』」


 雨が降らず、激しい飢饉が訪れた王国で、預言者エリヤとバアルの預言者たちとの対決が描かれている。

 いま歌われているのは『列王記』の一節からとられていて、嵐の神であるバアルに祈りを捧げている場面。しかしそれが届くことはなく、バアルの預言者たちは皆殺しにされてしまう。

 こうして異教の神──『高き館の主バアル・ゼブル』は、『蠅の王ベルゼブブ』へと貶められていったのだ。


 干ばつは人類にとっての悲劇。危機的状況で助けてくれない神など、信用を失って当然だ。しかし科学の発展した現代においては、双方共に理解しがたい話である。

 俺はふと、悪魔たちが科学を人類に教えるという伝承を思い出す。

 ナベリウスやパイモン、科学を司る魔神がいるように、それは長らく神と対立する立場にあった。いや、現在進行形でそうなのであろう。


 両親が治療を拒絶したのは行き過ぎだったが、神を信じる者にとって科学は避けて通れぬ相手。ジェランドさんやオベールさんも科学には強い警戒の念をいだいているのは明白であった。

 今を生きる人類にとって、合理的な未来を選択しながら、精神を維持するのは至難の業。少しずつ距離を詰めても、両者は依然として相容れない。

 となれば、悪魔として堕ちたるベルゼブブはもはや科学の権化。かの魔王は、今や科学信仰の神なのではないか。


 祈りの歌が終わった。

 無表情で拍手を送るこちらに、指揮者はゆっくりと振り返る。


「よくぞここまでたどり着いた、諸君。余の名は蠅の王ベルゼブブ。仇なす者どもによってけがされたわが名を、今では誇りに思っている」


 誰も答えることはできない。

 決してそれは、人間が昆虫の被り物をしている存在ではなかった。人として絶対にありえない骨格をした、科学の神だった。


「どうして俺たちをここへ招いたのです……?」


「互いに引き寄せる何か──シンパシーによって、我らは一堂に会したのだ」


「あなたに帰依しろと言うのですか」


「おお、ゼクス。余と君とは対等な関係だ。敬語なんて使うのはよしたまえ」


 ダン・デュ・ミディ山の峡谷、そこにひっそりとたたずむアンデルナット城にて、音楽を愛する魔王は微笑んだ。


「……フハハハハ! それであんたは、この俺にどうしろって言うんだ? もし世界の半分をくれるのなら、一も二もなく従うぜ」


「ちょ、二郎! なに考えてんのよ!」


「ククク……。残念ながら、余の支配領域は狭い。それで満足する君ではなかろう。そこでだ。余に音楽勝負で勝てたら、君に望む能力を授けようではないか」


「何だって!?」


 悪魔と契約を交わしたとされる音楽家は少なくない。彼らは努力で己の技能を磨き上げたのだろうが、一足飛びにその境地にたどり着けるとしたら、これまたとんでもないチートだ。


「なるほど、興味深いね。でもあんたにメリットがあるのか?」


「ああ、あるとも。すべては興趣なのだ。この長き退屈を紛らわせてくれるのなら、これ以上の喜びはない。君ならばわかってくれるだろう、余の悲しみを」


「他者の心がわかるなど自惚れたりはしない。いったいどんな勝負をするつもりだ」


「これまでと同じさ。君は余が与えた幾つもの試練を乗り越えてきた。激怒、憎悪、悲痛、驚嘆、恐怖……さまざまな心の色を見せてくれた。君は己を弱くてちっぽけな存在と思っている。とんでもない! 君はすばらしい、じつにすばらしい!」


 このセリフ……。やはりあの悪夢はこいつが見せたものだ。

 放つのはぎらぎらした敵愾心てきがいしんではなく、まさに余裕。

 間違いなく、これまで戦ってきた連中とは比べ物にならない。


「まずは、成長した魂の叫びを見せてもらおうではないか!」


 魔王は蠅の頭を震わせて哄笑し、左手の中指にはめられた指輪を見せつけた。

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