第29話 堕天使と機械神2
すべてが白い。弱々しい姿の兄さんがベッドで上体を起こしている。ここは病室の光景だ。おれは丸椅子に腰かけながら、音楽プレーヤーに耳を傾けていた。
「うーん、全体的にゆったりとしてて耳に残らないなあ。これのどこが名曲なの?」
「音楽は情景を伝えることができない。人間はタイトルに引っ張られてしまうから、あえてつけない作曲家も少なくなかった。この曲は、彼が自ら名前をつけた数少ない作品なんだよ。自然を崇拝していたベートーヴェンらしい、すばらしい曲だ」
「それじゃあ、のどかな田園の風景を表してるんだね」
「ところがそうじゃないんだ。絵画的描写ではなく、感情の表現であると強調されている。標題音楽は、のちに作曲者の要求に聞き手が従うようになっていくけど、彼のころはまだそうじゃなかった」
「ふうん。自分はつけてるくせに違うと主張するなんて、なんだかお高く止まってる感じ。雷の気持ちなら、もっとゴロゴロドカーンってほうがよくないかな」
「『田園』を作曲したとき、彼はもうほとんど耳が聞こえなかった。カッコウを始めとした鳥の鳴き声も、記憶の彼方から引き出されたんだ。静かだからこそ、ときおり鳴り響く激しい雷が映える。目を閉じて心を開ければ、大自然の脅威が伝わってくるはずだよ」
「うーん……。言われてみれば、そうかもしれない。だんだん怖くなってきた」
「ははは、二郎は現金だなあ」
「本当だってば! 田んぼの向こうに雷が落ちるのが見えたんだ」
「ふふっ。二郎がそう思ったのならそれでいいんだよ。さて、遅くならないうちに帰ったほうがいい。今日は来てくれてありがとう。本当に楽しかったよ」
「なに言ってんだよ、いつも来てるでしょ。おれたちは兄弟なんだから、いつまでもずっと一緒だ」
「そういうわけにはいかないよ。二郎は自分の道を歩むんだ。小さな妹や弟のことをよろしく頼むね。それと、あまり両親を悪く言っちゃいけない。なにが幸せなのか、生きる意味や生きた価値、それらは人が決めることじゃない」
「うん、わかったよ……」
「二郎ならきっと自分で考えて、夢を叶えることができると信じているよ。だから僕はずっと──ゲホッ、ゲホッ!」
「兄さん? しっかりして、兄さん! ああ、こんなに血が……。ま、待ってて! いま看護師さんを連れてくる。それまで絶対に死んじゃダメだ、絶対だぞ!」
* * *
「兄さん、兄さん、目を開けてよ、兄さん!」
「二郎お兄ちゃん……」
すべてが黒い。喪服を着た人々が
この中で、本当に悲しんでいるのはいったい何人なんだ。どいつもこいつも偽りの表情を浮かべて、優しい人間のふりをしている。下の子たちが泣いているのは、おれが泣いているからに過ぎない。
「もういい二郎、太郎は天国に行ったんだ。そろそろ離れなさい」
「うるさい黙れ、この人殺しどもめ! なにが天国だ! そんなもんいったいどこにあるってんだ! そんなものはまやかしだ! 金を
「二郎! 神父さまの前で、なんてこと言うんだ!」
「兄さんはそんなもん信じちゃいなかった。兄さんは天国になんか行かない! 絶対に行かせるものか!」
「ああ、まったくこの子は。神父さま、本当にすみません」
「いえいえ、仕方がありませんよ。子供のやることですから」
「ほざけこの偽善者! 価値観を押しつけるのもいい加減にしろ! お前らがやってきた罪をおれは知っている。人を支配するためにでっち上げたファンタジーを本気で信じている痛い奴らめ!」
左の頬に鋭い衝撃が走った。
「ついに手を出したな! ざまあみろ、お前らはみんなひとり残らず地獄行きだ! 理論が破綻してるから反論できないんだろ? 科学の時代に空想を信じる
兄さんが遠ざかっていく。家族みんなが消えていく。
みんな死んでしまえ。みんな呪われてしまえ。神なんざクソくらえだ!
ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……。
* * *
「──おにいちゃん、おきてよ、おにいちゃん」
「ん……どうした。なんだ七子か。何かあったのか?」
視界が白と黒を繰り返す。甘えん坊の妹が、布団越しに腕をつかんでいる。ここは自宅の光景だ。軽く伸びをして上体を起こすと、周囲はまだ真っ暗だった。
「カミナリこわいよう……」
「雷?」
「うん、ずっとゴロゴロなってるの」
「そんなんで起こすな。母さんとこに行けよ」
「なにいってるの、ママはもういないよ……」
「……そっか。あいつら死んだんだ。まあ、家にいれば大丈夫だよ」
「わあああ、またきた!」
「今のは近かったな。いつから鳴ってるんだ?」
「もうずっとだよう。こんなにうるさいのに、どうしてねむれるの?」
「ええ? いつもよりぐっすりだったぞ。チビどもの声に比べたら、むしろ心地よいぐらいだ。ほら、ここで寝ていいから、ちゃんと眠れ」
「うん。おててつないでてくれる?」
「わかったわかった」
まだ小さな妹の手。おじさんの手伝いで固くなってきた自分のに比べ、柔らかくてすべすべしていた。ぎゅっとこちらを握っていたのに、すぐに力がほどけていった。
「……なんだよ、人をたたき起こしといて、すぐ寝ちまいやがった。雷が鳴ったって起きやしないじゃないか」
チビどもはよくおれの布団に潜ってくる。疲れているのも知らないで、本当に呑気なものだ。
「なんだかあの曲まんまだなあ。兄さんの言ってたとおりだ、懐かしい。やっと良さがわかってきた気がする。はあ……会いたいよ、兄さん。おれはこれからどうすりゃいいんだ……」
「キュー」
「ん、なんだ? エサが無くなったのか? 今やるからちょっと待ってろ」
眠ってしまった妹からそっと手を離し、眼鏡を掛けてケージに向かう。
蓋を開くと、小さくて大きなネズミと目が合った。
「あれ? エサは残ってるし、みんな寝てるじゃないか。お前も雷が怖かったのか、チュー太郎」
次の日、先代のチュー太郎は隅に転がって冷たくなっていた。
母さんネズミがちょうど子供を産んだから、その中で一番丈夫そうな雄に、またチュー太郎と名づけた。
* * *
「──これ以上は耐えられない! まだですか!」
「うぅ……なんだ? ここはどこだ?」
さまざまな色が目に飛び込んでくる。奇抜な衣装のおっさんが、真面目な面持ちでこちらを覗き込んでいた。こんな光景は記憶にない。上体を起こすと、激しい暴風が俺たちを護るように包み込んでいた。
「ようやくお目覚めか、しっかりしろチュン二郎!」
「なんだ、ラ・トゥールか」
「なんだとはなんだ。戦いの最中だぞ」
体中がズキズキと痛む。どうやら単に夢を見ていたわけではないようだ。
擦り切れた服の内側の傷が塞がっている様子を見るに、もしやこの男は治癒の音色も奏でられるのか。
しかしこうしている暇はない。痛みをこらえて立ち上がると、すぐに相棒の状態を確かめる。少し表面にキズがついたが、さいわいなんともないようだ。
「ああ、悪い。ベートーヴェンの『田園』第4楽章だ。伴奏を頼む」
「え、いきなり?」
驚くマイオマンサーを尻目に、コンタクトを外して青カビチーズを口に放る。
いちいちわずらわしいな、眼鏡でなにが悪いんだ。どうせ買うなら度付サングラスにしとけばよかった。
ベルヒトルトが立てる風のざわめきに潜むように、静かに演奏を開始する。
〝立ったか。だが次は必ず仕留めてやる。私を神と認めない者などこの世に要らぬ。すべて消えろ! 無くなってしまえ!〟
時計神はこちらに手のひらを向けて、時間をゆがませる不可思議な攻撃の再展開を始めた。二度もあんな攻撃をもらったら、精神がおかしくなりそうだ。
だがすでに貴様のお陰でイメージは完全に固まった。これならいける、戦える。
「神と自惚れる前に人格を磨け。まずは一発目、くらえ!」
勢いをつけて弦をつまびくと、音波の代わりにまばゆい雷光がほとばしる。嵐の中をジグザグに進み、機械神の腕を避けて頭部に直撃した。
〝グアッ! なんだ、今のは……〟
「いいぞチュン二郎、効いてる!」
「もっと聞かせてやるよ。耳をかっぽじってよく聴きやがれ!」
立て続けに雷を連打。機械の関節部分を狙って強烈な猛攻を仕掛ける。
これが耳に残らないなんて思っていた俺はまだまだ未熟だった。静寂の中にこそ、熱情は詰まっている。
〝グアアアアアッ! 馬鹿な、私は神だ! 偉大なる時計の神だ!〟
ザカリウスは再び神力を解き放ち、俺のすぐ横の石材が一瞬にして砂塵と化した。砕いたというよりも、はるか以前あるいは以後の状態にしたのだろう。
攻撃は強烈だが動きは緩慢。素体がヨボヨボの爺さんじゃあ、若者のスピードにはついてこれまい。
とうとう木材部分に火がついて、煙がもくもく立ち昇り始める。天井付近はまるで雲のようになり、ワイルドハントの巻き起こす嵐も相まって、ここが室内とはとても思えない。
「おのれ
機会神の背後から顔を覗かせた奴がいた。
どうやら作戦はうまくいったようだ。キジも鳴かずば撃たれまい。もののついでにピットナッチオにも雷をお見舞いしてやろう。
「気づくのがおせえよ、マヌケ!」
「ギャーッ!」
「なんだ、雑魚と変わらない悲鳴を上げやがって。王ならばもっといい声で鳴け!」
「ギャギャーッ!」
連続攻撃を受けて、宙に浮かんでいた悪魔は黒い煙を上げて床に撃墜した。
「このまま畳み掛けるぞ、ラ・トゥール!」
〝まだだ……。私は神だ、こんなところで終わるわけにはいかぬ! 畏れよ我を! この私を崇め奉れ!〟
「ぐああああああ!?」
「ベルヒトルト!」
腐れ聖職者が地に落ちた。堕ちるのはお互い慣れているから大丈夫だろう。どうせもう人間じゃない。
だがザカリウスはなおも機能を停止しなかった。やたらめったら撃ちまくり、城を壊しかねない勢いだ。
まずい、雑魚に構っている余裕なんてなかった。この曲は終盤になるにつれて嵐が収まっていくのである。もう俺に高い火力は残されていない。
「神を名乗るには器が足りないぜ、ジジイ!」
苦し紛れの微弱な雷撃は弾かれ、相手はまた手のひらを構えた。
ダメだ、もうチートの効果が切れる。魂を振り絞ろうにも、俺にはもはや指ひとつ動かす力さえ残されていない。
曲は終わり、思わず手を離すと、肩にギターの重みが一気にかかる。
〝ザカリウスは神だ、時計の神だ……時計の……か……み……〟
ガツンという音がして、一個の部品が俺の足元に転がってきた。
呆然とたたずむ眼前で、デウス・エクス・マキナは強烈な輝きに包まれて、こちらに手を向けたまま、形作っていた時計の体がゆっくりと崩壊していく。
造られし神は死んだ。
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