第23話 堕天使と『悪魔の橋』

 赤黒い不気味な雲が空を覆い、底冷えする寒さが肌を刺す。俺たちはラ・トゥールを先頭に一列となって、森の小道を進んでいた。高配は徐々に険しくなってきたが、アンデルナット城まではまだまだ遠いようだ。


「わざわざ『悪魔の橋』を渡るなんて、なんだか嫌な予感がしますね」


「まあそう言うな、チュン二郎。名前のとおり橋があるのだから、かえって道のりは楽かもしれないぞ」


「そうかもしれません。妖精の世界にちゃんと舗装された道があるわけでもないし。でもいったい、その橋は誰が造ったんです?」


「もちろん悪魔さ。表の世界に架けられた橋は、人間が苦労して造ったものに逸話がつけられたのだろうが、悪魔にとって建築というのは造作もないことらしい」


 名前が似ていて紛らわしいが、表世界のアンデルットには、ゴッタルト峠という切り立った崖を越えて行くルートがある。

 この難所を攻略する橋やトンネルの建設には、多くの作業員が犠牲になったと記録に残る。彼らの悲劇を思えば、悪魔の所業と置き換えてしまうのはどうも不憫な気がしてならない。人間離れした出来栄えに対する賛辞というのはわかるのだが。


 異様なほどに立派な石造りの橋を超えて、俺たちは山道を進んでいく。悪魔は随分といい仕事をするようだ。空を飛んだりワープしたりできる彼らにとって、道なんて不要であろうに、わざわざ人間のために造ったのだろうか。

 たしかにこれなら、ジェランドさんとオベールさん、それに女中のスコラスティクさんがアンデルナット城までたどり着けたのもうなずける。


「ゴッタルト峠の谷底には金貨が落ちているなんて話もあるが、案外こっちだったりしてね。どうだい、ついでに探してみるかい?」


「何を言っているんですか、ラ・トゥール。俺たちはジェランドさんを助けに行くんであって、金貨なんてどうでもいいですよ」


「チュン二郎さん……」


 貧乏なんてものは慣れてしまえばどうってことはない。たとえ大金を手に入れたとしても、俺には使い道もわからないだろう。

 この相棒と共に一円でも稼いで、週に一回、いや月に一度でもいいから、チー牛を食べられればそれでいいんだ。


「それにしても、なんてヤバい景色なんだ……」


 狭い山道のすぐ横は絶壁となっていて、落ちたら確実に命はないだろう。

 手前を歩くカロルは、のんびりとした足取りのふたりとは異なり、壁側に張りつくようにしておとなしくしていた。


「ふっ、意外と臆病なんだな」


 試しに冷やかしてみたが、彼女はまったくの無反応だった。

 しばらくすると、前方から白いもやがこちらに向かってくるのが見える。


「霧が出てきたな。危ないから、ここらでいちど休むとしようか」


 ラ・トゥールがそう言うやいなや、辺り一面はたちまち真っ白になってしまった。俺たちはどっかりと道端に腰を下ろし、簡単な食事をとることにする。

 霧の中はひんやりとして心地良く、同時にとても恐ろしかった。先ほどまでカロルをからかっていた俺も、これにはさすがに肝を冷やした。


「まるで死後の世界みたいだ」


 ふと兄さんのことが頭をよぎる。そう思うと、なぜだか怖くはなくなってきた。

 昨夜の悪夢、途中までは楽しかったんだけどな。また会いたいよ、兄さん……。


「キュー」


「ん。大丈夫だよ、チュー太郎。待っていればそのうち晴れるさ」


〝違う、ご飯をくれって言ったんだ〟


「なんだ。ごめんごめん」


 上の空だったから認識できなかったようだ。真っ白な空間で四人が身を寄せ合い、つましい食事を広げる。カロルは相変わらずなので、オベールさんに話を振ることにした。


「オベールさんはどうして時計の道に?」


「やはり土地柄なのでしょうね。この国には時計ギルドがいくつもありますが、その中でもザカリウス師匠の工房は最も評判が良かったのです」


 ギルドは現在でも使われる言葉だが、ここでは中世のものと同様、徒弟制度を成す組合を指すのだろう。


「そこでジェランドさんに出会ったと」


「ええ、まあ……」


 青年は恥ずかしそうに頬を赤らめた。弟子入りして技術を教わりながら、美しい娘さんまで手に入れるとは、うらやまけしからん。修理屋のおじさんのもとで修業する俺とは雲泥の差だ。


「ザカリウス親方はいったいどういう方だったんですか?」


「尊敬してはおりましたが、とても傲慢なところがありました。たしかに優れた技術をもっていたのですが、自らを神かのように錯覚しているのではないかと思ったこともあります。そんな心を悪魔につけ込まれてしまったのでしょう」


「これほど繊細な時計を作れるのなら、神と呼ばれてもおかしくはないような」


「とんでもありません。そんなおこがましい」


「ああいや、たしかにそうですね。文化によって言葉の意味は異なりますから、翻訳にすれ違いがあるようです」


 思わず地雷を踏みかけて、慌てて会話を切り上げる。

 人間を神と呼ぶのは日本ではよくあることだ。もちろんそれは誉め言葉の最上位であって、本気で思っているわけではない。敬虔なオベールさんたちとは価値観や基準が違いすぎるのだろう。逆に彼らは、優れた人間を悪魔と関わったとするのだから、文化の違いとは面白いものだ。


 それにしても、多くの神々を崇めていた古い世界と、絶対神を崇めるようになったあとの世界。はたしてどちらの時代のほうが平和だったのだろう。

 地球という星にも終わりがあるのは確実なのだから、とっとと皆で協力したほうが良さそうなものだが、争いこそが技術進化を促す皮肉もある。

 ……なんて、一介のチー牛に過ぎない俺には、大きすぎる話であった。


 いつの間にか隣に座っていたカロルが寝てしまい、俺の肩にもたれかかっていた。電車に乗っていてこういうことがあると、ついラッキーと思いがちである。もちろんおっさんはお断りだが、頼られるのは嫌いじゃない。恐ろしい場所ではあるが、少し安らぐことができた。


 そういえば曲を作らないといけないんだった。この状況でギターを鳴らすわけにはいかないし、しばらくそっとしておこう。今日はちゃんと寝れなかったし、まだ疲れがとれないのだろう。なんだか俺も眠くなって来ちゃったな……。


 ふと気づけば、辺りを漂っていた濃霧はすっかりなくなっていた。どうやら全員が眠っていたらしい。天を見上げれば、灰色雲が空をぎっしり覆っている。

 いくらか体力と気力を取り戻した俺たちは、再び『悪魔の橋』を攻略にかかる。


「結局、ご大層な名前のわりに、悪魔なんて出てきやしませんね。グレムリンの襲撃もすっかり止まってしまったし、城に着くまで手を出す気はないんでしょうか」


「フラグを立てるのはやめたまえ」


「そ、そういうつもりじゃないですよ。暇ですし、ラ・トゥールの魔術結社についてでも教えてくださいよ」


「それは秘密だ。なぜなら秘密結社だから。君も我々の仲間になるというのならば、教えてやらんこともない」


「ケチ……。まあベラベラと話したら、たしかに秘密結社ではないか」


「もとをただせば、この世の神秘をすべて集めようという集団だったのさ」


「なんだ、教えてくれるんじゃないですか」


「しかし段々と大掛かりになっていく過程で、図書館を建てることになり、出資者の発言力が大きくなっていった。結果、いくつかの邪悪なものは省かれることになったのさ。わたしのマイオマンサーもそのひとつ」


「ネズミ占いは邪悪という感じはしないけど」


「疫病をばら撒いた負のイメージが強いのだろう。除外された者たちはやがて二手に分かれ、結社は最終的に三つ巴となった。悪魔を使役するデモノマンサーは、わたしたちとは異なる集団だ。もっとも、今回の件には関わっていないようだが……」


「それが逆に恐ろしいと」


「そのとおりだよ、チュン二郎。呼ばれてもいないのに現れる魔王など……」


「じつは俺、悪夢の中にベルゼブブが出てきたんです」


 それきりぷっつりと会話は途絶えてしまった。ラ・トゥールは強い口調で人を遮りはしないが、都合が悪いとだんまりになってしまうようだ。

 次に会話が再開されたのは、道が山あいに入り、ひどく暗い夕暮れの中、鋭い尖塔せんとうが目の前に見えてきたときだった。


「どうしてこんな所にあんなものが……?」


 あまりに間違いな組み合わせに驚いて、俺は目を丸くする。

 人ではなく妖精たちが住まう世界の片隅、悪魔が支配する領域に、それは不自然にぽつんとたたずんでいた。真っ赤に染色された不気味な教会が。

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