第22話 堕天使の夢
古びた小屋は十分に使える程度で、鍵もかかっていなかった。扉を開いてランタンをかざせば、がらんとした何もない一室がただあるだけ。
部屋を温めるための器具もないが、厚着をして歩いてきた俺たちからすれば、風のない場所というだけでもありがたい。
「案外なんともなさそうね。それじゃあ、おやすみ」
あれだけ怖がっていたカロルだが、鞄を枕にして真っ先に寝てしまった。彼女は湖のほとりで魔法らしきものを使ったから、思ったより疲れていたのかもしれない。
俺はラ・トゥールとオベールさんに挨拶を済ますと、予備の服にくるまるネズミにそっとささやきかける。
「おやすみ、チュー太郎」
返事はなかった。
半端な覚悟で旅立って、戦いからの強行軍。さすがに俺も今日は疲れた。
大きなあくびをしてから意識が薄れるまで、そう長くはかからなかった。
* * *
ヴァイオリンの音色が聞こえる。心地よい響きだ。
うっすらと瞳を開けて起き上がり、辺りを見まわせば、ただ漠然とどこまでも闇が広がっていた。
ここはどこだ? 周囲にみんなの気配はない。
もしや寝過ごして置いていかれた?
まさか。でもあいつらならやりそうだ。
こちらが慌てる様子を影で笑いながら、どうせすぐに姿を現すんだろう。
でも待っていてもなにもない。どこからか美しい曲が流れてくるだけ。
フォーレの『月の光』だ。なんだかとても懐かしくて、胸がじんわりする。子供のころにいつもあれを演奏していたのはたしか……。
「兄さん?」
ヴァイオリンが止まった。
ぱっと前方がスポットライトで照らされ、ひとりの少年が現れる。
「やあ、二郎」
ほっそりとしていて、どこか儚げ。病弱で痛々しかったころと比べると、ずいぶんと健康そうに見える。
「元気になったんだね」
「ああ、お陰様で。心配と苦労をかけたね」
「そんなことはないよ。また会えて嬉しいなあ」
この光景を不思議がることはなかった。これが夢だとも思っていなかった。
疑う気持ちなんてこれっぽっちもなくて、目の前に広がるものを当たり前のように受け取る。
「ここにいるのは兄さんだけ?」
「ああ、そうだよ」
「お父さんとお母さんは死んだよ」
「そうみたいだね」
あれ、おかしいな。どうして両親が亡くなったのに、兄さんは生きてるんだ。
でもいいや、気にしないほうがいい。そんなことをしたら、この情景はあっさりと消えてしまいそうだから。
「ふふ、ざまあないよね。ずっと兄さんを苦しめてきたあいつらが死んで、本当に清々したんだ。これでおれたちもようやく自由になれたんだって」
「ダメだよ、二郎。どうしてそんなひどいことを言うんだい?」
「だってあいつらは兄さんを殺したんだ。いい気味だよ。天罰が下ったのさ!」
「僕はここにいるよ」
ようやくおれは理解した。やはりこの光景はおかしい。兄さんは死んだはずなのに、今、目の前にいる。
「兄さん? どうして生きて……」
よろめきながら近づく。これが夢だとぼんやりと理解はしていたが、目蓋から涙がぼろぼろとこぼれ落ちるのを感じた。
「うわあああ、兄さん! お兄ちゃあああん!」
「ははは、どうしたんだ二郎。まるで子供じゃないか」
細い体を抱きしめながらむせび泣く。
兄さんは、首の上あたりを優しく撫でてくれた。
「ずいぶんとすごい髪の毛だねぇ」
「……そうだった、とんがってたんだ。痛くなかった?」
「大丈夫だよ。二郎の夢だったものね」
「うん、そうさ。ようやくなりたいものになれたんだ。まだ見た目だけだけど、ここから始めていくんだ。仲間もちょっとは集まってきたし……」
仲間?
もちろんラ・トゥールとカロルのことだ。もう、そう言ってもいいころだろう。
ちょっと癖は強いけど、彼らとは上手くやっていける気がする。
三人でバンドを組んで、今までおれをからかってきた奴らを見返してやるんだ。
おれの復讐は、殴ったりするわけじゃない。そんなの野蛮人のすることだから。
イカした曲を目の当たりにすれば、彼らの考えもきっと変わることだろう。そしておれは、そんな連中を許してやるのさ。
それこそが、この上ない非道な復讐なんだ。じつに悪魔的だな! ハハハッ!
「そのエレキギター、かっこいいね」
「え? ああ、これか。おじさんがクリスマスプレゼントにくれたんだよ。お下がりだけど、全然使ってないんだって。すごいラッキーだった」
「なかなか似合ってるよ」
「ありがとう、兄さんならきっとそう言ってくれるだろうと思っていたよ。でもね、まだまだ上手く弾けないんだ。ずっとイメトレしてただけだから。昔はダンボールで作った物にゴムつけて遊んだっけ。あれはあれで楽しかったなぁ……」
「ふふ、懐かしいね。音楽は一日にしてならず、鍛錬あるのみさ。努力家の二郎なら今にきっと、最高のギタリストになれるよ」
「へへ、そうかな……」
「ちょっとそれ、僕にも貸してくれる?」
「もちろんだよ。はい、どうぞ」
肩のストラップを外して、目の前の少年に掛けてやる。
なんだか子供に指導してるみたいだ。子供に親切な堕天使なんて面白いな。
笑いながら、ふとあることを思い出した。
「兄さんならおれより使いこなせるんだろうな。なんたって兄さんは、誰もが認める神童だから。初めて触る楽器でも毎回すんなりと演奏して、本当にかっこよかった」
「そんなことはないさ。ここをこうするのかな……?」
慣れた手つきでトレモロアームを装着する。そういや鞄に入れたまま忘れていた。あれを使えば音程を下げることができるんだ。
ジャジャーン!
いきなりイカした音が出た。そしてそのまま、演奏が始まった。
なんだ、これは……!?
初めてでこんな激しい曲を弾ける人間なんて、見たことも聞いたこともない!
やはり兄さんは天才だ! 音楽の申し子だ!
細く長い指を活かして、常人にはとうてい真似のできないテクニックを披露する。
おれでは絶対に指が届かない。こんなの機械でしか再現できないのではないか。
キュイィィィィィン! ウィンッウィンッウィンッ!
……終わった。終わっちゃった。圧巻の演奏だった。それなりに長かったはずなのに、一瞬にしか思えなかった。
「かっ……かっこいいよ兄さん! マジで最高にイカしてる!」
「そんな、大袈裟だよ。たまたまさ」
「おれにも教えてくれ、頼む! もちろん兄さんみたいには無理だけど、教えられるものは教えてくれ!」
「ははは、そんなに興奮しちゃって。二郎はかわいいなあ」
それからしばらくのあいだ、おれは兄さんにエレキギターを習った。
初めて楽器を触った者に教わるなんてなんだか不思議だけど、嫉妬のような感情はまるでなくて、ただただ楽しかった。一緒にいれる時間がとても嬉しかった。
「今の良い感じじゃないか。もう僕に教えられることなんてないよ」
「ふう、さすがに指が疲れた。満足したよ。やっぱり兄さんには
「そんなことはない。二郎も立派だよ」
「へへ、兄さんに褒められるの嬉しかったなあ……」
年甲斐もなく目からあふれ出たものを手の甲で拭う。
髪の毛がとんがっているせいか、兄さんは頭を撫でる代わりに、頬に優しく触れてくれた。ほっそりとしてしなやかな手で。
「おれも兄さんみたいな長い指が欲しかったな。それがあればおれだってもうちょい上手く弾けるのに。……って、ごめん。兄さんが病気で苦しんでたのを間近で見てたのに。でもね、おれからすると兄さんは本当に憧れだったんだ。今でもずっと、おれのヒーローだよ」
「僕は悪魔だよ」
「またそんなことを言って。あんなバカな連中の言うことを真に受けちゃいけない。科学を信じない連中こそ悪魔なんだよ!」
「二郎は頑張り屋さんだから、少し溜めこみ過ぎなんだ。もっと心の内を吐き出してしまおう」
急にふつふつと両親への怒りが湧いてきた。
指導者だかなんだか知らないけど、兄さんのことを金食い虫の悪魔呼ばわりして、治療をやめるように要求し、金を無心してきたんだ。
あの愚か者どもはそれを信じ込み、言われるとおりにしやがった。
あいつらはすぐに敵対者を悪魔呼ばわりするけど、てんで真逆だ。連中が信じてるものこそ悪魔なんだ!
現に今、殺し合いをしている者どもが何を崇拝しているか、考えてみればいい。
奴らは文化をぜんぶ上書きしてきたって、おれは知ってるんだ。
クリスマスのサンタさんだって、元は別のなにかだったのさ。
じつはみんな素直に従っているふりをして、彼らが悪魔とレッテルをはった神々を崇拝し続けていた。
でも現代人はそんなことも気にせずに、ただ享楽を楽しんでいやがる。
ぜんぶ金のためだ!
ぜんぶ支配するためだ!
目を覚ませ羊ども! あいつらは狼だ!
奴らこそ悪魔だ!
あいつらは、
そうして死の直前になって、助けてくださいだの、明るい死後の世界だののたまうんだ。
なにが報われるだ! なにが信じていればいいだ!
この大嘘つきどもめ!
みんな地獄に堕ちちまえ!!
──パチパチパチ……。
はっとすると、兄さんは俺を正視して拍手していた。
「すばらしい! すばらしい! じつに魂が揺さぶられる演説だった!」
「……え?」
俺は考えていただけで、喋ったつもりはなかった。
「ゼクス! 君はたいへんすばらしい!」
「……兄さん? おれは二郎だよ」
「いいや、君は堕天使のゼクスだ。悪魔のゼクスだ」
「そりゃそうだけど……。なんか兄さんに言われるとちょっと……」
ぐちょり。
奇妙な音が聞こえた。
兄さんの顔がゆがんだ。
「な、な、な……、あああああ!?」
美しい少年の顔に亀裂が入った。
皮膚が左右に剥け、中から巨大な複眼をもった昆虫のような顔が現れ始める。
恐怖のあまり、おれは思わず仰け反った。
兄さんだったモノは、今や完全に別物と化していた。
「お、お前は……!」
悪魔に憧れてきたおれには、その知識がある。
それは著名なソロモンの悪魔などではない。
もっと異質の、より上位の魔王──
「蠅の王、ベルゼブブ!!」
「ハハハハハハハハハハハハハ!!」
闇の異空間に、高らかな
「うわあああああっ!!」
おれは腰がくだけ、手でずりずりと必死に遠ざかる。
「君には才能がある。もっと自信をもちたまえ!」
蠅の頭をした魔王は招くように両腕を広げ、高らかに言った。
「アンデルナット城の最奥で待っているよ。ゼクス、君と会うのが楽しみだ!」
目の前がびかびかと猛烈に瞬いて、幾つもの黄色い雷が周囲に落下した。
魔王のいた場所に激しい大爆発が起き、おれははるか後方へと吹っ飛ばされた。
「ぎゃああああああー!!」
* * *
「──ハッ!」
地面に激突すると同時に、俺は目覚めた。
全身が気持ち悪いほどに汗ばんでいる。
上体を起こし、荒ぶる息を整える。
「うぅ、嫌な夢見たぁ……」
「……カロル?」
「あんたの大声で目が覚めた。よかった……。あれが夢で」
「お前も悪夢を見たのか」
「うん。起こしてくれてありがと。あんたも見たんだね」
「ああ……。とびきり嫌な夢を」
周囲の様子がほんのすこしだけうかがえた。どうやら朝になったらしい。
気づけば小屋なんてものは存在しなくて、冷たい草むらの上にいた。
空には分厚い雲が覆っていて、太陽の光を覆い隠している。
「ふう。体の節々が痛い。かえって疲れてしまったな」
「うぅ……悪魔が、悪魔が……。ジェランド……」
「キュゥ……」
すぐにラ・トゥールとオベールさんも起きてきて、ふたりともひどい悪夢を見たと言った。チュー太郎も怖い思いをしたのか、すぐに俺のポケットに潜り込んできた。
やはり罠だったようだ。しかし体は何事もなく、ちゃんと心臓は動いている。
何気なくギターに触れた瞬間、これはクリスマスに貰った物だと気づき、夢の中で毒づいた己が情けなくなった。
俺たちは手早く荷物をまとめると、ぐったりとしながら旅を続けることにした。
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