第4章 悪魔ヶ嶽
第21話 堕天使と『悪魔の住処』
レ・ディアブルレの名前の由来は、悪魔たちが山上にある氷河の岩石でゲームしたという伝説からきているそうだ。
裏の世界においてそれは現実であって、決しておとぎ話などではない。妖精すらも怖がって、この山の麓は逆に安全な道が続いているとのことだった。
「悪魔は妖精たちに税を強いているのだそうだ。金銀財宝とは限らないが、服従の証として貢ぎ物をさせているのさ」
無事に湖を超えた俺たちは、ランタンを提げたラ・トゥールを先頭に、なだらかな夜の平地を歩いていた。
「きれいな夜空だなぁ。星をちゃんと見るのも久しぶりかもしれない」
「表の世界は明るすぎるのよ」
「さよう。わたしにはまぶしすぎる」
「犯罪を防止するためだから仕方ないと思っているけど、こっそり盗む泥棒が減った代わりに、大胆な強盗が増えてしまった気がする。まあ、昔なんて知らないけど」
近ごろのニュースを見ていると、目を疑うような事件ばかりで気分が落ち込む。
現代社会はあらゆるものが可視化され、常に監視されているようで気が休まることがない。
悪党からしてみれば、ならば白昼堂々とやってしまえ、ということなのだろう。
これでも時代は良くなっているというが、はたしてそうなのだろうか。大切な何かを失ってはいないかと、星を眺めるチュン二郎なのであった。
「ところで、魔術師のおふたりにつかぬことをお尋ねします。他意はないので、気を悪くしないでもらいたいのですが」
「ムカつく」
「傷ついた」
「まあ、そう言わずに聞いてくださいよ。占いとは、いったいどこまで未来を探れるものなんでしょうか。今回、敵の動きは読めなかったけど、食事を持っていく判断は当たりましたよね」
「それは単に、敵と味方の違いだよ。覆われているものは見えづらいのだ」
「なるほど。ヴェールに隠されているんですね」
「何を考えているのかわからない連中は、
意外と真面目な答えが返ってきた。
思えばふたりとも、ふざけたり皮肉を言ったりはするが、許容範囲である。内面は優しい人たちなのだろう。
俺は、ラ・トゥールの隣を歩く人物に気を使いながら、その名前を口にする。
「ピットナッチオがまさにそうなんですね」
「いや、奴の背後にいるのが大物であるかもしれなくてね」
「魔王がですか?」
「わたしの所属する魔術結社は、ある街を牛耳る巨大組織から煙たがられているのだが、我々には共通の敵がいる。それがデモノマンサーだ」
「デモノ……デーモン……。なるほど、悪魔占い師のことですね。ネズミとかチーズとか胃に比べて、ヤバそうな雰囲気が伝わってきます」
「魔法の世界といえど、なんでも自由というわけにはいかない。禁書とされる魔導書を持ち出して、図書館から破門された者たちなんだ」
「図書館が中心の街なんですか」
今回の件が片付けば元の世界へ帰るつもりだが、ここにとどまりたい気持ちがまた膨らんでしまった。湖で妖精の姿を見たものの暗くてシルエットでしかなかったし、もっとちゃんと見てまわりたいのだ。
「彼らは時として、魔神と称される上位精霊を喚び出してお伺いを立てるが、それはあくまで影、いわゆるアバターなのだよ。しかし、この地の伝説で語られる魔王は、まるで自ら休暇に来ているかのようだ」
「本物と影とは、そんなに違うものなんでしょうか?」
「まったくお話にならない。ゾウとアリのようなものだ」
「そんなに……」
そこでふと、両親がしばしば悪魔という言葉を持ち出して、なにかを否定していたのを思い出す。俺が今現在の格好に憧れるようになったのも、その反発であったのは自明の理だ。
「悪魔がはたして悪なのか、俺にはわからないな」
つい口に出た言葉に対し、オベールさんは真っ向から否定してきた。
「何をおっしゃるのですか、悪魔は悪です」
「悪魔ってのは、気に食わない相手を貶めるために使う言葉ではないですか」
「む……たしかにそういう使われ方をすることもありますが……」
敬虔な人を否定する気などさらさらない。だが、苦々しい心の内がにわかに
「俺の兄さんは、両親に悪魔呼ばわりされてたんだ」
「親が子を? ひどい話ね」
「元々は愛していたはずなんだが、怪しい宗教にハマって、献金を優先するために、病気の治療費を打ち切ったんだ。どうも変な話を吹き込まれたらしい」
いきなり重い話をしたせいか、三人はしばらく沈黙してしまった。
「……どんなお兄さんだったの?」
カロルは気を使って、巧みに流れをわずかに変えてくれた。
「兄さんは音楽の天才だった。指が長くて、常人にはとても真似できない演奏をすることができた。かっこよくて優しくて、誰からも将来を期待されていた。俺はそんな兄さんに憧れて、自分も音楽の道に興味をもったんだ」
「なるほど、音楽の世界には悪魔が潜んでいる。才能があふれる者には、悪魔に魂を売ったと噂された例は多い。かの高名なヴァイオリニスト──パガニーニも、特殊な体つきだったと
隠したつもりの病名をラ・トゥールに見抜かれて、俺はどきりとした。
「適切な治療を受けさせなかった両親のことは、今でも恨んでる……。だから俺は、悪魔に憧れているのさ。奴らの憎んだ、悪魔にね」
黙って聞いていた優しい青年は、先ほどとは異なり、沈んだ声で言葉を挟んだ。
「そうだったのですね。それはなんだか申し訳なく思います」
「いやいや、オベールさんが謝らないでください。俺の心が
真面目すぎて慌てると、またカロルが助け舟を出す。
「こちらの世界には本物の悪魔がいるしね。共通の敵を作れれば、はっきり言って、単語なんてなんでもいいのよ」
「そうそう、とにかく誰かを下に置きたくて仕方がないんだ。ところでオベールさんたちは、最初からこちらの世界にいたんですか?」
「いいえ。今にして思えば、アンデルナットという地図にない土地にさまよいこんだ時点で、僕らは裏世界に紛れ込んでいたのかもしれません」
「気づかずに移動したのですね」
「満月の夜は、稀にそんなことも起きるわね。あるいは何者かによって、渡るように仕向けられたか」
「やはりピットナッチオの仕業なんでしょうか。奴はいったい何者なんだ」
「大きさを考えれば、グレムリンではなく悪魔の一種ととらえるのが自然だろうね」
ラ・トゥールが質問に答えた直後、ズボンのポケットがむずむずと動き出した。
「うわ、なんだ? 時計が!」
腰に鎖でつないでいた生きた時計が中空に浮かび上がり、文字盤の上に血のような真っ赤なアルファベットが映し出された
《妖精の王は、城で人の子を待ち受ける》
暗闇に怪しく発光するその言葉に、俺たちは震えあがった。
「……なんとなくこのニュアンスだと、ピットナッチオの言葉とは思えない」
「奇遇ね、あたしもそう思った」
「なんだか嫌な予感がする。このメッセージは襲われるよりも心臓に悪いな。どっと疲れてきた」
「そしてさらに奇妙なことに、目の前に掘っ立て小屋が見えてきたよ」
三日月とランタンがぼんやりと照らす先に、たしかに粗末な木造の平屋があった。灯りはなく、薄雪が積もる真っ暗な平原にひっそりとたたずんでいる。
「おそらく長いあいだ使われていないのだろう。みな疲れただろうし、今晩はここを使わせてもらうとしようか」
「冗談でしょ。たった今、変な事があったっていうのに。あたしは嫌よ」
「それではこの凍える寒さのなか、外で休憩するかね」
「う……、それもつらいけどさ……」
「どうする、チュン二郎?」
「なんとなく、見えない誰かに導かれているような気がするんです。でもその者は、俺たちに危害を加えようとはしていない。すくなくとも今はまだ」
「だそうだ。どうするかね」
「こんな状況じゃ、独りで寝るほうが怖いわ……」
「それじゃあ決まりだ。今晩は、『悪魔の住処』から丸見えの場所になぜか存在している、いかにも怪しい小屋で休むとしよう」
「ちょっと、恐怖心を煽らないでよ!」
これは罠だ。魔術師でない俺にも、そんなことぐらい嫌でもわかる。
しかしいったい何が目的だ。あまりにも回りくどい。これまでグレムリンの襲撃はことごとく跳ね返してきたから、敵もやり方を変えてきたということか。
悪い予感しかないが、俺たちは意を決して、掘っ立て小屋で休むことにした。
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