第17話 ネズミと美容院

 カロルの自宅であり勤め先でもある病院のすぐ近くに、小さな美容院があった。

 彼女の知り合いが開いている店で、ちょうど休みに入ったところだったが、事情を聞いて快く場所を提供してくれた。

 店内はレトロなデザインをしていて、それがまたお洒落なようにも感じられる。


 親がまだ生きていて多少の余裕があったころ、一度だけこのような所に入ってみたことがあった。そのときはたまたま感じの悪い人に当たったのか、あるいはこちらのマナーがなっていなかったのかは不明だが、恥ずかしい思いをして逃げ帰ってきた。

 以来、二度と入るまいと固く心に誓っていたのだが、憧れる夢を考えれば避けては通れない。ずいぶんと妙なかたちで、苦手を克服する機会が巡ってきたものだ。


 おそらく火や電気とは異なる仕組みで点灯している照明は、温かみがあってまぶし過ぎない、じつに丁度いい塩梅である。

 カロルはやけに似合う黒マスクを着けると、俺にバーバーチェアへ座るよう促してクロスを掛け、わざとらしく耳元でハサミをじょきじょきと音を立ててから、施術の開始を宣言した。


「さあ、地獄のショーを始めるわよ」


「……よろしくお願いします」


 髪を染めて逆立てるだけではないのか。もちろんただの冗談だとは思うが、一抹の不安がよぎる。眼鏡を外してしまったがために、いまいち様子もわからない。

 店内は彼女がたてるものを除けばほとんど無音で、ハンガーに掛けたジャケットに残してきたチュー太郎はおそらく眠ってしまったのだろう。


「親とは違う道を目指して、一時期ここで教わってたんだ。戻るように言われたのもあるけど、まあ向いてなかったんだろうね」


「そうなんだ。どっちも大変そう」


 最初の一刀が入った。視界の隅にはらりと黒い毛が舞い落ちていくのが見える。

 そういえば長らく髪を切っていなかった。寒さのせいもあるが、やはり節約したいのが本音だ。整えてもらえるだけでもありがたい。


「呪術医なんて今日日はやんないのよ。魔術師のなかにも、医療だけは科学をあてにする者もいるのよ」


「そんな事情もあるんだ」


「あたしはひとりっ子だから、親はどうしても継がせたいみたい」


「うちとは真逆なんだね」


「静かで寂しいものよ。きょうだいがいるのは羨ましいわ」


「ほどほどがいいと思うな」


 いつもは安い理髪店でだんまりを決め込んでいる俺は、即席美容師のなすがまま、愚痴のような彼女の言葉に無難な相槌を打つ。

 それにしても、あれだけボロクソに扱き下ろしていた相手の髪に触れるのは嫌ではないのだろうか。なかなかに謎である。


「ほんとムカつく。うちの親は厳しくて古くて頭かたいんだから」


「俺んちも似たようなもんだったな」


「だった?」


「死んだからね」


「ふたりとも?」


「うん」


「そう……」


 てっきりラ・トゥールが伝えたものと思っていたが、ああ見えてあんがい口が固いのか、あるいは単に話す機会がなかっただけか。

 重い話でいちど会話がぶつ切りになってしまったが、すぐにまた再開された。


「あたし思うんだよね。髪を染めたりスカートの裾を上げるのって、自分をよりよく見せる努力だって」


「たしかにそうかもしれない」


「学校もそういうのうるさかったんだ」


「こちらの学校がどんなものか、少し興味があるな」


「また今度ね。やめちゃったから話したくない」


 話が止まってしまうのは相性の問題か、単にまだお互いを知らないだけだろうか。

 立派な稼業があるのなら無理して通うこともなさそうだが、おそらく魔術に関する学校なのではないかと思われた。トラウマでもあるのか、残念ながら今回は聞き出せそうもない。


「大人はわかってくれない」


「そんなタイトルの映画があったような」


「ずいぶん古いの知ってるのね」


「普遍的なものが好きなんだ」


「そうね。昔から同じことの繰り返しなのよ。旧時代の規範なんてものはクソくらえなの。ルールは破るためにある」


「そのとおりだ」


 俺はいったい何を聞かされているのだろうか。

 こちらから話すことなんて思いつかないし、なにより相手はハサミを握っている。ここはおとなしく従っておくのが利口というものだ。

 それに彼女の言い分には、自分もうなずけるところがあった。


「よし、こんなもんでいいか」


「え、もう?」


「だって整えるだけだもん。あの時と微妙に変えてもいい?」


「それは構わないけど、バレないかな」


「青くしとけば平気でしょ」


「そうだな。あの姿は知識のない俺が想い描いただけだから……」


 髪を染めるなんて生まれて初めてだ。憧れていたにもかかわらず、やはりそういう教育を受けてきたせいか、不良の第一歩を踏み出した気がしてしまう。

 そんな思考をかき消すかのごとく、カロルが取り出した染料からなかなかに強烈な臭いが漂ってきた。


「うっ」


「我慢しなさい。こいつはなかなか落ちないよ」


「戻すときどうしたらいいんだ?」


「染め直すか、さいあく剃ればいいでしょ」


 それでは新学期のあだ名はチー牛坊主になってしまう。

 鏡を見ても視界がぼやけていて、経過はいまいちわからないが、丁寧にしてくれているのは伝わってくる。ぶつかり合ってしまったけど、あんがい良い子なのだろう。

 注意を要する作業なのか、真剣な表情ですっかり会話もなくなってしまった。

 しばらくじっとしていると、やがて色づけを終えたのか、カロルは口を開いた。


「色が馴染むまでしばらく待っててね。あたしはちょっとほかのことしてくる」


「うん、わかった」


 ひとり残された俺は、目を凝らして鏡を見つめる。細部まではわからないが、鏡に映る己の髪がド派手な青に染まっているのは確認できた。

 とうとうやってしまった。純粋には喜べない複雑な感情が入り乱れる。

 ふと思ったが、家族はこのことを知らない。おじさんはエレキギターをプレゼントしてくれるぐらいだから許してくれるだろうけど、チビたちがどんな反応をするか。


 まあ、これも世界を救うためだ。たとえなんと言われようが、俺は俺のスタイルを貫き通すぜ。こうなってしまった以上、運命を諦めて受け入れるしかない。

 その時が来るまで、瞳を閉じておとなしく待つことにしよう……──。




「おーい、起きろ~」


「……ん、もういいのか」


 寝ていたつもりはなかったが、最初の言葉を聞き逃したようだ。


「あとは立てるだけだよ」


「いよいよか……」


「ところで、眼鏡はどうすんの?」


「それがあったな。ひとりだけ戻ってコンタクトでも買ってくるか」


「どうせなら服も新調した方がいいよ」


「うーん、じつはあまりお金がないんだ」


「そう言うだろうと思った。あんたの新生祝いに、あたしが買ってあげてもいいよ」


「さすがにそれは悪いよ。受け入れられない」


 いきなり何を言い出すんだ。医者の娘だから裕福なのかもしれないが、こちらにもいちおうプライドってもんがある。同い年の女の子に恵んでもらうなど……。


「もちろんタダとは言わない。あんたの最初の曲をあたしにプレゼントするって条件でどうよ」


「そんな、作ったことなんてないぞ」


「だから価値があるんじゃない」


「恥ずかしいって……」


「それじゃあ、そのクソださい服のまま、あの格好をするつもり?」


「ぐう」


 ぐうの音は出た。


「決まり! いちどニッポンに行ってみたかったしさ。案内してよ」


「ちょっと待ってくれよ」


「うだうだ言ってんじゃないよ。男ならスパッと決めな」


「だってさ、カッコ悪すぎじゃないか、買ってもらうなんて」


「そう? 駆け出しのミュージシャンがファンに物貰うなんてザラでしょ」


「ファン……。俺はまだそんなんじゃ……」


 バンッ!


「いってえ!」


 突然、背中を思い切りたたかれた。

 だが怒る気持ちは皆無だ。不器用だが、これが彼女の優しさなのだと理解した。


「わかった。頑張って作るよ」


「ふん」


 それきりカロルは黙り込んで作業に没頭した。

 おとなしくておしとやかな少女とはまるで真逆の性格。それでも何を考えているかはだんだんとつかめてきた。

 この胸の高鳴りは、叩かれたことによるものか、それとも……。

 やがてすべての髪の毛が逆立ったのを感じたころに、彼女はぼそりと言った。


「さっきの痛かった?」


「たいしたはことない」


「今日はあたしばっかり喋っちゃってごめん」


「いや、楽しかったよ」


「そう? それならいいけど……」


 すべての作業が終わったと言われて眼鏡を掛けてみれば、鏡の中には、身に着けたものが最高に似合わない男が存在していた。青を基調とした奇抜な髪には、所どころ白のメッシュが入り、自分が想像していたよりもずっとハイセンスだ。


「気に入った?」


「最高だ。ありがとう」


 すっかり変身を遂げて美容院を出たときには、すでに辺りは暗くなっていた。

 雪がうっすらと積もり始めていて、物音ひとつ聞こえない。嵐の前の静けさとは、こういうものなのだろうか。時計の面を着けたあの奇怪な老人の姿が頭をよぎる。


 戸締りを終えたカロルが出てくると、会話もせずに次なる場所へ向かう。

 目的地はすでに決まっている。

 日本の原宿。俺はそこで生まれ変わる。

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