第12話 ネズミとボロ屋敷

 鼠尾一家は異世界に降り立つと、一変した光景にみな興奮した。おじさんなんかは急に子供のころ想い描いた話をし始め、手のひらを返すとはこのことだと思った。

 ようやく信用を得たので、小さな子を除いて全員に緑カビのチーズを食べさせた。すっかり童心に帰った中年いわく、きっとビールに合うとのことである。


 なるべく急いだとはいえだいぶ時間が経ってしまったので、ラ・トゥールはすでにそこにはいなかった。その代わり、この世界の住人に初めてすれ違ったものの、密集する俺たちに眉をひそめ、そそくさと離れて行ってしまった。

 おそらく彼らは、こちらが別世界から来たことを把握しているが、新しい病原菌を持ち込まれはしないか警戒しているのだろう。

 薄暗い寒空の下、まっすぐ館に向かうと、やはりまたあの男が仕掛けてきた。


「合言葉は?」


「チー牛」


「それはすでに変えた」


「寒いんだから早く開けてくださいよ」


「いいから何か言いたまえ」


「……チュー太郎」


「正解」


 ガチャリと音を立て、古びた扉はようやく開かれた。毎回これをやらされるのかと思うと、頭が痛い。


「お待たせしました。家族を連れてきましたよ」


「やあ、こんな寒い中よく来たね」


「みんな、この人が例のラ・トゥールだ。変な人だけど悪い人ではない、たぶん」


 ひどい言われようだが、彼は楽しそうに笑うだけだった。きっとパイド・パイパーは子供が好きなのだろう。挨拶代わりに笛を披露し、すぐにきょうだいと打ち解けてしまった。


「チュー太郎はもう少し貸しておいてくれないか」


「気に入っちゃったんですか。ほかのネズミも連れてきましたよ」


「それじゃその子たちも預からせてくれ」


「なにを考えているのやら。おっと、そこ床が抜けてるから、みんな気をつけて」


「ずいぶん傷んでいるな。直したくなってきた」


「それは助かる。ぜひお願いしたいね」


 唐突の休暇を貰っても、修理おじさんは休む気なんてさらさらないようだ。


「ラ・トゥール、五郎の容態は?」


「すやすやと眠っているよ」


「カロルさんだっけ、あの人は?」


「別の場所に移したから、奥の寝室は君たちが使いたまえ。使えそうな毛布も運んでおいた。あのふたりもすでに就寝したから静かにな。部屋はいくらでもある。掃除や修理は必要だが、ほかも自由にしてくれていい」


 きょうだいは抑圧されて育ったから、おとなしくするのは得意である。反抗的な奴は布団でぐっすりだし、末の子はまだ眠っていてくれている。八郎は起きてしまったが物静かな子だし、九美は相変わらずの大物であった。


「朝まで暖炉に触る必要はないが、本物の火だから気をつけたまえ。ランプも君たちが使えるものを選んだ」


 そう言ってラ・トゥールが扉を開くやいなや、おじさんたちは声を上げた。


『五郎!』

「兄さん!」


 家族に駆け寄られても、生意気な三男坊はまるで反応する様子がない。


「まだ起きないんでしょうか」


「安心したまえ。このような事例は今回が初めてではない。なにかあったらわたしを呼ぶといい」


「そうか、よかった。いろいろありがとう」


「礼には及ばん、君は命の恩人だ。今日はもう遅いし、わたしはこれで失礼するよ。おやすみ」


「おやすみなさい」


 ラ・トゥールが出ていっていつもの十人になると、皆はほっとしたようにため息をつき、荷物を降ろしておのおの場所を確保し始める。ベッドのそばで甥っ子の様子を見守っていたおじさんも安堵したように口を開く。


「五郎は大丈夫そうだな」


「うん、こっちのお医者さんが診てくれたんだ。俺と同い年のね」


「異世界というより古い時代にタイムスリップしたみたいだ。たまには電化製品から離れるのも悪くない。なんだかとても落ち着くよ」


「そうだね。でもみんな、くれぐれもこちらの食べ物を摂ってはいけないよ」


『はーい』


 永住したいならともかく、と言いかけてやめる。誰かが本気にしそうだから。

 家族はすっかりここが気に入った様子だった。やはりずっと手狭な家にいたから、オンボロでも広々とした屋敷は夢のようだ。


「こちらは夜なのかい?」


「どうもそうらしい。時差が七時間ぐらいと言っていたから、まだ二十四時前かな」


「それじゃあ修理はやめておこう。ところで、さっき言っていた『あのふたり』とは誰のことだ?」


「笛吹きのラ・トゥールを頼ってきた一般人だよ。命を狙われているんだ」


「そんな人と一緒の場所にいて大丈夫なのかね」


「今のところは」


 もののついでだ。俺の武勇伝でも聞かせてあげるとしよう。


「それじゃあ二度寝するか」


『おやすみ~』


 家族は毛布にくるまって、あっという間に寝入ってしまった。

 ちぇ、なんだよ。まあ、いたずらに不安を煽るのもよくないか。

 コロナで世界が一変して、戦争のニュースが連日報道されているなか、やはり日本は平和なまま。戦いをしたなんて話をしたら、きっと興奮して眠れなくなってしまうだろう。


 自分もみんなを見習い、この世界の時間に体を合わせるとするか。ランプはさほど眩しくもないし、チビどもが不安がるからそのままにするのが無難そうだ。

 用意された毛布の最後の一枚を拾い上げると、部屋の隅に置いてあるエレキギターの隣で丸くなる。暖炉には火が灯り、ぬくぬくと温かい。つい先ほどまで眠気なんてなかったのに、俺はだんだんとまどろみの中に落ちていった……──。




 軽快な笛の音が聞こえた。窓からは明るい陽光が射し込んでいる。おもむろに上体を起こすと、家族の何人かもちょうど目覚めたようだった。


「お兄ちゃん、おはよう」


「おはよう、三奈。ちゃんと眠れたか? ずいぶん優雅な目覚ましが鳴ってるけど、ラ・トゥールの奴、朝から何してんだろう」


 ネズミ一家に曲でも披露しているのだろうか。本当に不思議な人物である。

 心地良い調べに聞き入っていると、部屋に上品なノックが響いた。


「おはようございます、ジェランドです。今よろしいでしょうか」


「すぐ開けます!」


 慌てて眼鏡を掛けて、適当に髪を整える。急ぎ扉を開いた先に、やはり美しいあの女性は立っていた。


「おはようございます、ジェランドさん」


「昨夜はよく眠れましたか? ご家族がいらっしゃったということで、ご挨拶に参りました」


「お気遣い感謝です。ぐっすり眠れました。でもみんなはまだ寝ています」


「ええ、どうぞごゆっくり。のちほど歓迎会を開こうという話をラ・トゥールさまと

していたので、その連絡をしに」


「歓迎会?」


 五郎が元気になるまでしばらく生活を共にするから、顔合わせということか。合点した俺はうなずいて返した。


「わかりました、家族にも伝えておきます。ありがとうございました」


 用事を終えた彼女が去っていくと、起きていた者が次々と口を開いた。


「チュン、誰なんだ、あのきれいな人は!」


「護衛対象ってとこかな。婚約相手がいるから、変な期待はしないでよ」


「歓迎会って言ってたね」


「といっても、食事は自分たちで用意したものしか食べちゃいけないと思うけど」


「そっかあ」


「すまないね。三奈と四葉には、働き詰めの人を助けてほしいんだよ」


 それからしばらくするとラ・トゥールもやってきて、食事は済ませておけという話だった。せっかく異世界に来たのにこちらの料理を楽しめないとは、なんとも悲しい話である。水だけは来訪者のために処理したものが用意できるらしい。

 道具と木材を用意したと聞くや、おじさんは手早く朝食を済ませ、さっそく壊れた床の修理に取りかかった。妹たちは女子部屋を作ると言って掃除道具を要求し、五郎は相変わらず眠ったままだった。


 突然グレムリンとの戦いに巻き込まれ、ここまであっという間の出来事だったが、なんだかこのまま平和な時間が過ぎていくのではないかと錯覚してしまう。

 俺は乾パンを水で流し込むと、チビどもの世話をしながらその時を待った。

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