第8話 ネズミと弟
ひとまず次なる目標は決まった。覚悟を決めて行動を起こさねばならない。
「ところでラ・トゥールさん。敵の居場所やオベールさんが
「なあ、チュン二郎。そろそろ、その『さん』づけはやめようじゃないか。共に戦う相手に気兼ねしてもらいたくはない」
「そうですか。年上の方を呼び捨てするのは失礼なようで気が引けるのですが」
「君たちの言葉に、『郷に入っては郷に従え』というものがあるだろう」
「よくご存じですね。わかりました、ラ・トゥール」
「なんだと、呼び捨てとは失礼な!」
「言うと思いましたよ!」
いちいちこの人と本気で向き合っていると疲れてしまいそうだ。
「冗談はともかく、ピットナッチオはアンデルナット城にいることがわかっている」
「アンデルマットではなくて?」
「ひょっとしたらそこから名づけられたのかもしれないな。ダン・デュ・ミディ山の峡谷に、その城は存在するという」
ヨーデルをはじめとしてスイスといえば音楽が有名だから、地図を開いて空想の旅を楽しんだことがあった。縁もゆかりもないアルプス山脈を指でなぞっていて、その山に触れた時、ふとぞくりとした記憶が蘇る。
ちなみにアンデルマットとは、そこからだいぶ東へ行ったところにある谷間の集落である。両親がハネムーンで訪れた場所と聞いていたので、覚えていたのだ。
「かの地には、昔から悪魔の伝説があるのさ。冬になると峡谷に魔王がやってきて、サラバンドを指揮するのだそうだ」
サラバンドとは、
本来はテンポが速かったようだが次第に遅くなっていき、口汚い言葉を発しながら卑猥な踊りをするようになり、禁止されていた時期があるらしい。
一説では『大騒ぎ』が語源とされ、魔王が奏でる曲としては、じつにふさわしいと言えるだろう。
小学生のころハープシコードで奏でられたものをいちど聞いたことがあるのだが、ゆったりと重く響きわたり、空調も相まって寒気が止まらなかった。
一般的にはチェンバロと呼ばれるその鍵盤楽器から流れ出る調べは、ピアノよりも耳を小刻みに震わせくる気がするのだ。
「オベールについてはおそらく、ここから北に行ったところにある時計工房で修理をさせられているのではないかと思われる」
「ザカリウス親方のお弟子さんと言っていましたね」
「ええ、そうなのです。とても心配で……」
ジェランドさんにとっては親の弟子であるから、弟みたいなものなのだろう。
ふと、俺が死んだら幼いきょうだいはたちどうなってしまうのかと不安になった。
「わかりました。さっそく出かけましょう、ラ・トゥール」
「君はどうする? 家に戻り、スコラスティクと待っているかね」
「いえ、わたくしも向かいます。足手まといかもしれませんが……」
女中と言っていたが、家政婦さんみたいなものだろうか。俺には縁のない話だ。
「君も狙われているから、なるべく近くにいたほうがいいだろう。なに、チュン二郎も加わったことだし、安心するといい」
「はい、頼りにしています、チュン二郎さま」
「任せてください!」
「キュー!」
ふたりは手短に支度を済ませ、俺たちは屋敷をあとにした。
それなりの格好をしてきたとはいえ、外は耳が痛くなるような寒さだ。指なし手袋じゃなくて、ちゃんとしたものを着けてくればよかったと後悔する。
ちょっとカッコつけすぎたか、なんてことを思っていると──
「ん、あそこにいるのは、まさか五郎? あいつ、何を食ってるんだ?」
「キュキュ?」
北に進路を定めたちょうどその時、見知った少年が、樹になった果実のようなものを口にしているのが見えた。
「あれは君の知り合いか?」
「ええ、弟です」
「なんだって? これはまずい!」
ラ・トゥールは俺にランタンを預けると急に走りだし、五郎が手に持っていた赤いリンゴをはたき落して背後にまわると、腹部を圧迫し始める。
「ぐえっ!」
「ちょっと、いきなり何してるんですか!」
「吐かせるんだ! まずいことになった!」
「なんだって?」
五郎はすぐに
「どういうことなんです?」
「以前、チーズを渡した時に言っただろう? こちら側の食べ物を摂れば、元の世界には戻れなくなるんだ。無理やりに帰還すると、体が朽ち果ててしまう」
「そんな……」
「五郎! なんでこんなとこにお前がいるんだ!」
「……兄ちゃんが夜中に家を出たから、手伝おうと思ったんだよ」
「なんでそんなもん口にした! このいやしんぼ!」
「ごめん、兄ちゃん。ごめん……」
「まあまあ、この子に悪気があったわけじゃない」
「くそう……」
困ったことになった。
五郎がどうしてこんな行動をしたかは理解できる。おじさんにプレゼントを貰ったことで自らを反省し、こっそりと俺のあとをつけてここまで来てしまったのだろう。そして外で待っているあいだ、何も知らずに果物に手を出してしまったのだ。
「さいわい口にしたのは少しだけのようだ。汁を含んでしまったが、まだ大丈夫かもしれない。とりあえずわたしは、この子を仲間の医者に診せてくる。申し訳ないが、ふたりでオベールのところまで行ってきてくれないか」
「……わかりました」
「ええ、道はわたくしが存じております。弟さんが無事だといいですね」
ラ・トゥールは五郎の肩を抱きながら、倉庫があった方へと歩いていく。
せっかくジェランドさんとふたりきりになれたのに、喜ぶ気にはなれなかった。
たしかに甘いおやつはあまり買ってやれてないが、おじさんと精一杯頑張って三食は食べれている。たとえ貧乏でも『頭の黒い鼠』にだけはなるなと言い聞かせていたのに、異世界にまで来て人さまの庭木に手を出すとは……。
情けなくてうつむいていると、穏やかな声は励ますように言った。
「顔を上げてください。なんとなくお気持ちはわかりますよ。じつはわたくしの家計もつい最近まで大変だったのです」
「……そうなんですか」
「優れた時計職人だった父のザカリウスですが、ある日、突然にしてすべての時計が止まってしまい、返品されてしまう事態に陥りました」
「そういえば、ラ・トゥールが生きた時計と言っていました」
「そうなのです。壊れた時計はどうしても直すことができず、ひとつ止まるごとに父の心臓の鼓動も止まっていったのです」
「連動しているということでしょうか」
「わかりません。返済に行き詰まり困っているところに現れたのが、ピットナッチオという小柄な老人でした」
「あなたを欲しがっているグレムリンの王ですね」
「そうです。悪魔のようにも思えましたが、何者なのかはわかりません。思い詰めた父は、あるときひっそりといなくなってしまって……」
今度はジェランドさんがうつむいてしまった。
「とにかく、移動しながらお話をしましょう。詳しく聞かせてください」
「ええ、そうしましょう」
連れ立ってジュネーブの裏世界を歩き始める。
スイスといえば時計も有名だ。グレムリンはほんらい飛行機を不調に陥らせる印象があるが、同じく精密機械である時計に手を出すのも理解できなくはない。
ちなみに俺が持っているのは、壊れた中古をおじさんが直してくれたやつだから、わりと良いものだったりする。
「わたくしは父の弟子オベールと女中のスコラスティクと共に失踪した父を探して、かの城にまでたどり着きました。しかし父は、まるでピットナッチオに魂を取られるように亡くなりました。私たちはあのとき確かに、時計が宙を舞うの見たのです」
「例の懐中時計が飛んだ? なんとも不思議な話です」
「父を抱えて城を抜け出し、アンデルナットの山頂に遺体を埋葬すると、ジュネーブまで逃げ帰りました。とうてい信じてはもらえないかもしれませんが……」
「いいえ、信じますよ」
「わたくしたち三人は家計を切り詰めながら新しい時計を売り、そのお金で少しずつ父の遺した壊れた時計を集めていきました。オベールはそれを一つひとつと修理していったのです。今まで微動だにしなかった時計たちがようやく動き始めたとき──」
「ピットナッチオが再び現れたと」
「そのとおりです」
謎はまだ残るが、だいたいの事情は呑み込めた。
暗い夜道をランタンで照らしながら、俺とジェランドさんは時計工房のある北へと歩き続ける。
五郎のことも心配だ。俺の歯車はいったいいつから狂ってしまったのだろう。
無意識にポケットに手を当てると、チュー太郎の温もりをわずかに感じた。
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