第2章 美女と時計

第6話 ネズミとネズミ

 急いで駆け上がって建物の外に出ると、そこには前と同じ光景が広がっていた。

 異世界というには、古びているだけで現実との違いはさほど感じられない。人工の灯りが少ない代わりに月明かりがぼんやりと照らしていて、じつに平和的。


 しかしここは、グレムリンたちがやってきた別次元の場所なのだ。

 走っている途中、おっさんと出会ったゴミ置き場を念のため確認したのだが、奴らはすっかり消え失せていた。

 内心、殺生してしまったかと気が気でなかったのだが、どうやら息を吹き返して、元の世界へ戻ったらしい。もし人間が見つけていたら、大ニュースになっているはずだから。


 グレムリンたちがねぐらに使っていた倉庫はもぬけの殻だった。

 壊れた電化製品がそこかしこに散らばっており、ここが魔法の世界だとはとうてい思えない。ひょっとしたら獣型が現実世界から盗んできた物をここに溜め込んでいたのだろうか。

 考えても始まらない。とにかく彼を探さないと。


「どこに行きゃいいんだ。なにか手がかりでもあるといいんだけど……」


 部屋は不思議な灯りで照らされていて、明るくはないが暗くもない。

 わけもわからない機械類を眺めて途方に暮れていた俺は、ふと壁に何かが書かれているのを見つけた。


「なんて書いてあるんだろう。フランス語っぽいけど読めそうにない」


 しかし問題ない。こんな時は──


「チャッチャラー! 翻訳チーズ!」


 何をしているんだ俺は、恥ずかしすぎる。最高にロックじゃない。

 ひとりで叫び、ひとりで赤面しながら緑カビのチーズを一欠片もぐもぐする。

 そうしてあらためて文字を見やると、さっきまでチンプンカンプンだったものが、なんだかわかってきた気がした。


〈チュンジロー。これを見たら、月と反対側の道なりに来てくれ。たぶんわかる〉


「いや、わかるかっ!」


 なんてざっくばらんとした説明なんだ。あのおっさん格好はいいが、かなり適当な性格なのかもしれない。とりあえず行ってみることにするか。

 空を見上げれば、やや欠けた黄色い円が、まだ低いところに浮かんでいた。


「月があっちだから、こっちの道か。北側ってことかな? いや、裏の世界だから逆なんだろうか……」


 頭が混乱してきた。とにかく足を動かすしかない。

 月に背を向け、ぼんやりとした街灯が照らす石畳の道を歩いていく。


「なんだかすごいとこ来ちゃったな、チュー太郎」


〝ああ、いったいここはどこなんだい?〟


「スイスの裏から入った異世界らしい」


〝ほうほう、そりゃ遠いね〟


「ほんと意味わかんないよ。……ん?」


〝どうかした?〟


 何か違和感を覚えて立ち止まる。


「今、ひょっとして喋った?」


「キュー」


「なんだ、気のせいか……。疲れてるのかな、ネズミが喋るわけないよな」


 毎日まいにち、学校から帰ってきたらチビどもの面倒を見て、おじさんの手伝いをして、勉強をして……。

 先日、まだ十六なのに白髪が一本見つかってショックだった。引っこ抜いたら根本が黒くて、ほっとしたと同時にどっと疲労感に襲われた。

 あいつらに見られたら絶対からかわれる。そう思うと自然にため息が出てきた。


〝元気だしなよ〟


「うん、ありがとう」


 鼻をすする。こんな異世界に来てまで、俺は何をしてるんだろうな。

 …………。


「ネズミが喋った!?」


〝おそーい!〟


 ポケットから顔を出すチュー太郎に話しかける。


「よく考えたらチーズを食べたから、不思議でもなかったな」


〝それはいったい何だい? ぼくにも食べさせてくれ〟


「ダメだ、これはあげられない」


〝ケチ〟


 ひとり寂しい異世界旅行に、小さなにぎやかしが加わった。

 眼鏡のさえない奴がエレキギターを背負い、ネズミを連れている。この世界の住人に見られたらどう思われるんだろう。

 そういえば、まだ人影を見かけていない。おそらく午後七時ごろだと思われるが、住民はいったいどこに行ったのやら。


〝人っ子ひとりいないね〟


「ひょっとしたらグレムリンを恐れて隠れているのかもしれない」


〝グレムリン?〟


「機械を壊す妖精だよ。人型と獣型の二種類いて、配下の獣じみた奴らが暴れ回ってるんだ。ラ・トゥールさんというおっさんの時計を狙っている」


〝何者だい?〟


「マイオマンサーといって、笛を吹いてねずみを操る魔術師らしい。さっきのチーズもその人に貰ったんだ。不思議なちからがある……」


 チュー太郎はいつも家族の会話を聞いているから、言葉を自然と覚えてしまったのだろうか。それとも単に俺がチーズのちからでやりとりしている気になっているだけなのか。

 判断はつかないが、なんだか兄さんと話をしているようで懐かしくなってくる。


 兄さんは俺が十歳のときに、たった十二歳で亡くなったから、もうとっくに年齢を追い越してしまった。

 魂なんてものが本当にあれば、輪廻転生を繰り返してわが家のネズミに宿るなんてこともあるかもしれない。ま、考えすぎか……。

 そうこうするうちに、前方からうっすら灯りが漏れるオンボロ屋敷が見えてきた。なにか妙な違和感を感じ取り、ふと足が止まった。


「なんだろう、あの建物」


〝気になるなら、そこが目的の地なんじゃないのかい〟


「なぜだか引き寄せられる気がする」


 行けばわかるとはこういうことだろうか。

 自然とエレキギターを背負い直し、チーズの入ったポケットに軽く触れる。青カビチーズは三分しかもたないとは難儀なものだ。

 緑のほうはまだ効果が続いていることから、半日ぐらいはもつのだろうか。


 すでに二回も戦闘なるものを経験してしまった。元の世界では、すぐに折れる性格のせいで喧嘩もろくにしたことがない。

 グレムリンはこの世界において、いわゆる雑魚モンスターなのだろうか。もし仮に彼らを統べる存在が現れたとき、はたして対処できるかどうか。

 考え事をしていたら屋敷の玄関前へと到着していた。おそらくは扉に掛かっている金属の輪をたたいて知らせるのだろう。触れてみると氷のように冷たかった。


「こんばんは。どなたかいらっしゃいますか?」


 扉の奥はしんとしていて、なんの物音も聞こえてこない。


「ラ・トゥールさん、いたら開けてください!」


 大声で呼びかけるも返事はない。


〝二郎、ここじゃないのかもしれないね〟


「そうなのかなあ。惹かれるものがあったんだけど」


 すると突然、板を挟んでくぐもった声が聞こえてきた。


「合言葉は?」


「え?」


 知るわけがない。しかしその声には聞き覚えがあった。


「チーズ」


「惜しい」


「チー牛」


「正解」


 すぐにガチャリという音がして、扉が重い音を立てて開かれた。

 案の定、そこにはラ・トゥールさんが立っていた。


「そんなの合言葉にしないでくださいよ」


「いま『チー牛』の曲を考えているところだ」


「どんな曲ですか!」


「助けに来てくれて嬉しく思うよ。やはりわたしの見込みどおりだ」


「いえいえ。現実で時計が盗まれる騒ぎが起きていて、居ても立ってもいられず」


「キュー」


「おや、それは君のネズミかい?」


「ええ、ペットのチュー太郎と言います」


「賢そうな子だ、よろしく頼むよ。さて、ここは冷える。とにかく奥へ来てくれ」


 本当に愉快で不思議な魅力がある人だ。芸術家の考えることはわからない。

 自分が演奏するときは、オリジナリティを出すよりも作曲者の表現を寸分たがわず再現するのを念頭に入れてきた。

 そのせいか、褒められることはあっても評価されることはなかった気がする。

 昔から、感情を表に出してもしょうがないと思っていた。どうせ言ったって聞いてくれやしないのに、無駄な精神力は使いたくない。

 どうせ俺なんて、ネズミみたいにちっぽけな存在だから。


「そこ、床が傷んでるから気をつけてくれ」


「うわあああ!」

「キュウウウ!」


 彼が言ったと同時に足元がメキメキと音を立て、俺は足を床にめり込ませた。


「いったた……。もう少し早く言ってくださいよ!」


「なにぶん古い建物でね。前のアジトは使えなくなってしまったから、適当に空き家を借りているんだ」


 伸ばされた手を握りながら呆れかえっていると、奥から少女の声が聞こえてきた。


「それじゃ、あたしはこれで帰らせてもらうよ」


「ああ、助かったよ。お疲れさん」


 なんとか固い床にはい上がり、その人物の顔を見上げる。

 年の頃は自分と同程度だろうか。生気がなくて、俗に言うグロッキーという状態のようだ。まるで瓶底のような眼鏡をしていて、女性だというのに髪の毛はぼさぼさ。身に着けている白衣を見れば医者か何かであることがうかがえる。

 よたよたと歩き、俺が「あ!」と叫ぶ直前で穴に落下してしまった。


「きゃあああ!」


「だ、大丈夫ですか!」


 慌てて近寄り、彼女の手をつかんで引き上げると、ずいぶんと軽い気がした。

 ほんの一瞬ではあったが、なめらかですべすべとしていた。


「うぅ……ありがとう。それじゃ、あたしはこれで……」


「お気をつけて!」


 謎の少女は、名前も名乗らずに帰っていってしまった。


「お医者さんですか?」


「ああ、栄養失調でぶっ倒れてたもんだから診に来てくれてね。さあ、奥で依頼人が待っている。君もぜひ会ってあげてほしい」


「狙われていたという方ですか?」


「ああ、とびきりの美人のね」


「ほう……」

「キュー……」


 なんとなく金持ちの爺さんだと思っていたが、まさか女性とは。そう言われたら、なかなか興味をそそられるではないか。

 パイド・パイパーの華奢な背中を追って、俺は屋敷の奥へと歩みを進めた。

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