⑦弱さ

 真純が眠り続けるようになってから3日程が経った。


 その中で、光狩は毎日のように真純の世話を焼く。いつ目覚めてもいいように、ご飯も2人分用意している。


「光狩くん。今日の分のノートを置いていくね」

「あ……。ありがとうございます。森山さん」


 貴之は、真純が学校に来なくなった日。真純が眠りに落ちた日から毎日見舞いに来てくれる。光狩とも多少は世間話をする仲になっていた。


「また明日も来るね。俺に何か出来ることがあったら、何でも言って」

「いつも姉を気遣ってくださって、ありがとうございます」


 貴之は菊地家を出ると、いつも通りの道を通って帰路に着く。のだが、甘ったるい香りが妙に気になって、ふと匂いの漂う方向を振り向いた。


「…………?」


 美人な女の人がいる。20代くらいだろうか。どことなく、顔立ちが光狩に似ていた。目元だろうか。


 ただ、光狩と違ってなんだか嫌な感じのする人だと貴之は思った。菊地家を遠目に見て、ゾッとするような気味の悪い笑みを浮かべているのだ。


。。。


「……って事があって。何となく光狩くんに似ている人だったから、妙に嫌な気持ちになっちゃった。光狩くんはお姉さんがこんな事になって、大変だって言うのに……」


 貴之が次の日も真純の見舞いに来て、光狩にそう愚痴をこぼした。今は光狩が入れたお茶を2人で飲んでいるところだ。光狩は苦虫を噛み潰したような表情で、ジッと貴之の話を聞いていた。


「……ごめんね。こんな変な話しちゃって」

「いえ、むしろ聞けてよかったです」


 光狩は、貴之の言う人物が実の母親であるとすぐに気づいた。そして、姉が眠り続けている原因に関わっているであろうことも……だ。


 今までずっと家に寄り付かなかった里奈がこうして姿を見せたというなら、多分真純に何が起こっているのか、知っている。知った上で、真純が永遠に目覚めない事を期待しているのだろう。

 

「光狩くん。明日は学校が休みだし、うちのクラスの…真純さんの友達とお見舞いに来ていいかな? 光狩くん、受験生だろ。お姉さんを見ているのが俺1人だと光狩くんは不安になるかもしれないけど、彼女と一緒ならお世話も手伝えると思うし……。お姉さんの事は心配だと思うけど、ちゃんと勉強しないと。お姉さんが起きた時、成績が下がっていたら悲しませてしまうよ」


 貴之の提案を聞いて、光狩の母親に対する憎悪の気持ちが少しずつ薄れていった。初対面の時の警戒も、今はほとんどない。貴之はいい人だ。というのが光狩の感想だ。

 

「……ありがとう。色々と考えて、良くしてくれて。こんなにも、姉さんと僕の事を気遣ってくれて嬉しい。森山さんって、姉さんの事が好きなんですよね?」


 光狩がそう聞くと、貴之はほんのりと頬を染めて、しかしハッキリと答えた。


「うん。俺は、彼女の美しいところが好きだ。見た目も心も、彼女よりも綺麗な人を俺は知らない」


 光狩と貴之は目を合わせ、ゆっくりと頷いた。


「姉さんの友達、どんな人なんですか?」

「知らない? 今彼女が働いているカフェを紹介した子で、学校でも常に一緒にいるよ」

「へえ。そんな人が……」

「とても心配していたよ。最近のあの人は、ずっと元気が無い……」


 縁は学校でもしょんぼりしている。流石にバイト中にまでそんな態度ではいないが、明らかに元気がないとわかる人にはわかってしまうようだ。真純と共に、縁とも一緒にいる時間が増えた貴之も例外ではなく、取り繕う彼女の心境には気づいていた。


「僕も是非会ってみたいです。学校での姉さんの話、もっと聞きたいから」

「そうだね。俺が女子なら、もっと色々話せたんだろうけど」


 貴之はそう言って、困ったように笑った。


。。。


 貴之が真純の家を出る頃、その見送りに玄関先まで出てきた光狩がふと甘い香りに気づいて、視線をずらす。貴之もそれにつられて、光狩の視線の先へと身体をずらした。


「あ、あの人だ」


 貴之がそう呟くのとほぼ同時に、光狩の口から小さな呟きがこぼれた。


「母さん……」

「え」


 彼女は、子持ちの母親にしては随分と若く見える。貴之は眉を寄せて、里奈の姿を観察しながらそんなことを思った。


「もう、この家に寄り付くことは無いと思っていたんだけど」


 光狩はハッキリと、彼女に視線を合わせてそう言った。里奈は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに悪い顔でニヤリと口端をあげる。


「少し見ないうちに生意気な口がさらに生意気になったね」

「あんたがいないおかげでのびのびと過ごすことが出来ているからね」


 というのは、半分本当で半分は嘘だ。自由は増えたが、その分困窮もしている。それでも、やはり里奈の元で暴言や暴力に怯える毎日よりはよっぽどマシだった。それだけは確かだ。


「……何だよ。これ以上家に近づいたら、警察呼ぶから」


 光狩は、一歩一歩こちらに歩いてくる里奈を見て、ぶたれるのではないかと身体を強ばらせた。そんな光狩を守るように、貴之が前に出る。


「邪魔だよ。部外者のくせに」


 里奈にとって、自分の魅力が通じない相手に用はない。邪魔なだけだ。貴之は軽く肩を押されただけで簡単にどかされてしまい、驚きの声を上げる。


 まだ高校生とはいえ、成熟しつつある男の身体だ。女性にこんなに簡単に動かされるとは思わない。


「うっ」


 その上、こちらを睨みつける里奈を見て動けなくなってしまった。まるで化け物のような目をしている。貴之の直感が、口を挟んではいけないと言っていた。


「…………」


 貴之はパクパクと口を何度か動かした後、その場にへたりこんでジッと地面を見つめた。早く時間が過ぎて欲しい。と切に願う。


「……………………」

「な、に……?」


 光狩と里奈の声が随分と遠くに聞こえる。貴之はやるせない気持ちでいっぱいになり、このまま蹲りたい気分になった。


「いたっ」

「ひ、光狩くん!?」


 光狩の戸惑う声が聞こえて、貴之はやっと顔を上げることができた。光狩は尻もちをついて、青ざめた顔をしている。


「光狩くん! 大丈夫?」


 大丈夫ではなさそうだ。内心ではそう思っているが、貴之はそう聞かざるをえなかった。

 

「……すみません。また明日、来てください」


 今日は帰ってくれ。と遠回しに言われ、貴之は光狩から距離をとる。光狩は立ち上がると、そのまま無言で家の中へと入っていってしまった。


。。。


 光狩は眠る真純の傍らに立ち、ジッと真純を見下ろす。寝息も何も聞こえない。本当に生きているのだろうか。と、光狩は信じたくない想像をしてしまった。


『真純を殺せば、息子のお前だけは助けてやってもいい』


 里奈は光狩に対してそう言った。中学時代と同じように、光狩はすぐに断りを入れたかった。それなのに……。


「ごめんね。姉さん……」


 光狩はあの時、何も言えなかった。それが悔しくて悔しくて、たまらない。愛する姉と一緒なら頑張れる。そう思っていたのに、光狩はいつの間にか、この生活を苦しいと感じていたのだ。


「姉さんに負担をかけないように、僕は頑張ってきたはずなのに……」


 それなのに、逃げたいと思ってしまった。光狩は縋り付くように眠る真純を抱き寄せて、何度も何度も謝罪の言葉を口にする。溢れてくる涙が真純を濡らしても、涙を止める余裕など、光狩にはなかった。

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