第47話:仇敵
蘇る、あの日の記憶。五月雨と血に濡れた、忌まわしき私の始まりの記憶。
この男が全てを奪ったあの夜に、私の心は戻っていた。
憤怒。無念。憎悪。後悔。怨嗟。絶望。
ありとあらゆる悪感情がぐるぐると渦巻き、私の思考を支配する。
だが、唯一あの日と違うことがあった。それは、私には守るべき者がいるということ。ここで冷静さを失い、無暗にやられてしまっては、それすら失ってしまうことになる。
この男は強い。それに、ここは南都だ。上皇の係累として認められた者は、神にも等しい力を得る絶対の領域。蒼天の力を以てしても、勝つのは容易ではない。
だから、落ち着け。冷静さを失うな。
私は激情を奥歯で噛み殺し、息を整える。
そして、静かに問いかけた。
「一つ、貴様に聞いておきたいことがある」
「ふむ?」
「何故、母上を殺した。何故、家人を皆殺しにした。何故……貴様は非道な命令に逆らわなかった」
ただ、聞きたかった。あの日、皆が死んだ意味を。コイツは、兄とも思えぬこの男は、何を思ってあのような所業を為したのかを。
皇太子は、怪訝そうに眉を顰める。彼は顎に手を当て暫し思案すると「ああ」と言って一つ頷いた。そして――
「くく、ふははははは!!」
「っ!」
突然、皇太子は大きな笑い声を上げた。滑稽でたまらない、そうとでも言いたげな態度で、彼は私を嘲笑する。
押さえていた敵愾心が俄かに沸き立つのを感じながら、私は皇太子を睨みつけた。
「何が、おかしい」
「いや、お前は大きな勘違いをしている」
不敵な笑みを浮かべて、皇太子は告げる。
「あれは、父上の命などではない。私が父上に進言し、許しを得た私の策だ」
「……」
「別に、あの女でなくとも良かった。所詮はただの見せしめ。来たる決戦に向けた不穏分子の炙り出しに過ぎぬ」
「なら、母上に非は無かったというのか」
「いや? そんなことはない。あの女は術式も使えぬ無能を産み、上皇の名を汚した。本来なら、それだけで万死に値する重罪。南都の威信を傷つけるお前たちを生かす理由など、我らには微塵もなかった」
皇太子は手を広げ、気障ったく首を振る。彼は静かにこちらへ歩み寄りながら、嘲笑するでもなく、憤るでもなく、ただ、当然のことを告げるかのように言った。
「だから、むしろ感謝するべきなのだ。生きる価値すらないお前たちを、私は上皇の威光を高めるために利用してやったのだぞ。あの皇妃も、きっと光栄に思うことだろうよ」
静寂があった。不思議と、私の心は凪いでいた。何も、間違ってはいなかった。
この五年間、私が憎み恨んできた男は、純然たる仇敵だった。慈悲をかける必要など、微塵も無かったのだ。
「……安心したよ」
これで、迷うことなく兄を斬れる。
術式の構築、気脈の収束、神気の発散。
手加減など要らぬ。純粋な殺意を込めて、私は刀を抜いた。
「契神「
「!!」
目を見開く皇太子。英雄神の神威が、空間を捻じ曲げながら仇敵へと向かう。三間とない超至近距離。避けさせはしない。
「滅びよ!!」
閃光と轟音が、刹那のうちに射線上の一切を消失させる。玉砂利と石畳を砕きながら、素戔嗚の力は御所もろとも皇太子を屠った――かに思えた。
「……!?」
「蒼天の力など、とうに対策済みよ」
だが、皇太子は無傷でそこに立っている。出雲で明王丸が使った術式を、コイツは詠唱も無しに行使したというのか。
いや、違う。これは南都の結界の術式効果だ。登録された術式を狙い撃ちで中和する、第三皇子の研究成果――それが南都を覆う結界に組み込まれている。これでは、初見の術式以外一切通じない。
明王丸というのが最初に出てきたのはこのためか。手の内を見せすぎたな。
冷汗が頬を伝う。
皇太子は、余裕の笑みを浮かべて告げた。
「ふふ、だがそうか。本当に復讐のためだったとはなぁ。五年も堪え忍び、我らの隙をついて灼天まで強奪し、母の仇を討とうとは、何とも健気で愚かなことよ」
「く……」
「残念だったな六尊。もう少し早く神子に目覚めていれば、きっと父上はお前をお認めになっただろう。さすれば、母は死なずに済んだというのに。運命とは皮肉なものだ」
ぱちりと、肌を刺すような緊張。周囲の気温が下がるような感覚がもたらされ、それに続いて空気が揺れる。一点に集まる膨大な神気。皇太子として南都の領域から集めた神気が、明確な破壊となって奴の手に宿る。
これは、術式発動の予兆。
「そして、貴様は運命に弄されて死ぬ」
「ッ!!」
「契神:
宵闇に響く詠唱。彼の手に現れる光剣。高天原最強の軍神が、毒気に沈む始祖の帝に与えた霊剣。
皇国建国の礎となった神の意思そのものを、皇太子は躊躇いもなく振り下ろした。
刹那の無音。続く衝撃。術式での相殺は間に合わない。一か八かの気脈操作。全力を込めて、私は横へ跳んだ。
「ぐッ……!!」
だが、避け切れるはずがない。乱気流と荒れる気脈が、私の身体を容赦なく抉る。たった一撃で、私は窮地に立たされた。
「幾ら最強の神子といえども、敗れた例はいくつかある。そうでなくとも、まだ未熟な貴様ごときに遅れを取る訳が無かろう」
嫌味な笑みだ。コイツは自分の負けを微塵も想定していない。
事実、皇太子は強い。今の状況では、国弘と比べても見劣りしない程に。
彼は袖を翻し、再び術式を行使する。
「契神「
皇太子を起点に、御所の気脈が塗り替えられる。神武の係累たるゆえの膨大な神気が可能にする、出鱈目な結界術だ。
「これは……!」
「祖神、邇邇芸命の神域。立ち入るものの霊威を弱め、術者の霊威を高める結界だ。そして、この術式は御所の結界と共鳴することで、幾つか付与効果が伴う。例えば――」
皇太子は手を振り上げる。
青く光る光剣。術式の再構築。彼はニヤリと笑った。
「契神「
「!!」
この気脈は、素戔嗚の術式。彼の神の表象たる『蒼天』しか扱えぬはずの術式を、何故コイツが扱える!?
「驚いたか。この術式の付与効果は、南都の記録に残る術式の再現。無論、それは神子とて例外ではない」
「……ッ!!」
ふざけるなよ。そんな術式、全能神に等しい力ではないか!!
「これは
鳴動する大地。明王丸とは神気の圧がまるで違う。皇太子は宝剣を振り下ろす。再び来る破壊の一閃が、明確な死の気配を乗せて天を穿った。
「――ッ」
だが、そこで気付く。
何故か、私の口元が歪んでいることに。
まさか、この状況で笑っているのか?
不思議と恐怖はない。
むしろ、高揚感すら覚える。
ああ、そうか。私は、安堵しているのか。
討つべき敵が強大で、蒼天の力を以てしても一筋縄ではいかないことに。
恨み続けたこの男が、簡単には打ち倒れてくれないことに。
ああ、これで全てをぶつけられる。五年間くすぶり続けた怒りを、出し惜しみなく解き放てる。それまで、コイツに潰れられるわけにはいかない。
そうだ。私は復讐をしに来たのだ。
咎人に報いを。仇敵に死を。
ああ、今日は気分が良い。ついに私の宿願は果たされる。待ちに待ったその時が、ついに訪れたのだ!!
「ふふ、ふははははッ!!」
「ッ!?」
禊だと? 笑わせる。これは落し前だ。
忌むべき過去と決別し、未来を生きるための決戦だ。
私は貴様を討ち、伊奈を取り返す。
その未来に、お前たちは必要ない。
だから――
「死ぬのは貴様だ。契神「
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