第39話:決意
昏い暗い闇の底。
浮かんでは消える淡い光に手を伸ばしては、掴めぬ空虚さに底しれぬ諦観が沸き起こる。そんな中、影は私を蹴落とした。
「神裔の一族に術式も使えぬ無能は要らぬ」
「内通者の愚息に慈悲など無用」
「端的に言って失敗作。出来損ないだ」
「哀れ」
「お前を弟とは思わぬ」
聞き覚えのある、だが思い出したいとは思えぬ声の数々。恐怖、憎悪、憤怒、悲哀。良からぬ感情の渦に呑まれながら、私は逃げるように闇を彷徨う。
だが、ふいに現れた壁が私を阻んだ。
「……お前は、何故生きている」
凍えるような冷たい声。責めるような口調でもないのに、まるで存在そのものを抹消されたような錯覚に陥る。
私は、その男に恨みがある。だが、身体が動かない。本能的な恐怖が、私に枷を掛けているのだ。
また、私は突き飛ばされる。
今度は、燃え盛る炎の中を歩いていた。
さながら地獄絵図。
何故か私は、焦燥感を覚えている。
「ぅ……熱い……あつい……」
「あぁ……ぉお」
そこらからうめき声が聞こえてくる。姿は見えない。ただ、声だけが耳に響いている。
いや、違う。見えないはずはないのだ。
これは、ただ私が――
「何故……目を逸らす」
「ッ!?」
突如、足を掴まれる。咄嗟に私はその手を蹴飛ばしたが、離さない。それどころか、一本、二本と増えていく。振りほどけない。
私はそのまま、深い闇の底へと引きずり込まれ――
▼△▼
「……ッ」
まただ。
また、こんな夢を見る。
「……まったく」
長い息を吐き、私は外の空気を吸う。
幾分か落ち着いてきた胸に手を当て、私は書庫へと向かった。
「……」
国弘が私に説教したあの夜から、気付けばふた月が経っていた。
彼は私たちを屋敷に置き続けているが、依然蒼天の秘儀を教える気はないらしい。
ただ、書庫の閲覧までは禁じなかったので、私はこの頃ずっと文書を読んでいる。
教えられずとも、自分で見つけてやる――そんな意地のようなものかも知れない。あるいは、こんなところで止まっている場合ではないという危機感。
「……」
違う。
これはただの現実逃避。
問題の先延ばしだ。
分かっている。
彼奴の言っていたことは正しい。
破滅願望とはいい得て妙だ。
だが、分かっていてなお私は止まれない。あの日の屈辱を晴らさずして、私が生きている意味など見出だせるはずがない――そう思っていたのだが……
「六尊さま、何読んでるんですか?」
気付けば、ちょこんと伊奈が佇んでいる。
「……出雲の神話だ」
「へえー」
彼女はこちらに近寄ってきて文書を覗き込むと、小難しそうな表情を浮かべた。
思えば、コイツは復讐の道具として連れてきたのだった。南都の秘密兵器にして『七天の神子』の一角、『灼天』――それが伊奈の肩書。きっと、私の目的の役に立つだろう、そう思って連れてきたのだ。
「……」
いや、違う。それは建前だ。
私は、仲間が欲しかったのだ。
五年前に全てを失ってから、私は孤独だった。そんな孤独に、私は慣れたと思っていた。だが、違った。復讐を前にして、私は怖くなったのだ。死に際に、たった独りであることを。
そして、巻き込んでしまった。何の関係もない、一人の少女を。
ああ、そうだ。復讐の道具なんてただの言い訳だ。結局のところ、私は弱いのだ。一人では目的に殉じることも出来ず、かと言ってそんな自分を肯定することも出来ない。どっち付かずの軟弱者だ。
だから、逃げた。責務を全うする――そんな言い訳に逃げて、己と向き合うことから逃げたのだ。
――貴様の責務とやらは、貴様の望んだ平穏を諦めるに足るものなのか?
そんな国弘の言葉が脳裡に木霊する。
だが、もはや私にも分からない。私は何がしたかったのだ。私は、どうしたら良いのか。私が生きている理由など他には――
「……っ」
そんな時だった。
「六尊さま」
「……何だ」
「すこし、お話しませんか」
▼△▼
穏やかな冬の陽光。冷たい風が髪を弄ぶ。
思えば、外に出るのは久方ぶりだ。
「せっかくいいお天気なのに、ずっと部屋の中じゃもったいないです」
伊奈は白い息交じりにそう言って笑う。
無邪気で、穏やかな笑みだ。
「……」
私は彼女を一瞥だけして、俯きがちに目線を逸らした。
分からない。どうして、私はこんな気持ちになっている。
生きることも、死ぬことにも拘泥せず、責務に殉じると決めたはずの私が、どうして彼女の笑顔に安堵を覚えている。
いや、そんなことは自明だった。
ただ、それを言葉にするのが恐ろしくて、無意識に分からないふりをしていた。
この感情に名前を付けることは、生を望むことに他ならない。それは、私にとって何よりも恐ろしかった。自分に生き延びる価値がないと言い聞かせることで、私は私で在り続けられたのだから。
だが――
「……お前は、どう思う」
「え?」
「弱く惨めで、救われる資格も無い私に、生きている価値はあると思うか」
それは、疑問ではなかった。しかし、一つの答えを望むものでもなかった。否定して欲しくもあり、肯定して欲しくもあった。ただ、自分の立ち位置が望むものであって欲しいという願い。決して辻褄の合わない、相反した願いだ。
そんなものを、彼女にぶつけても仕方がない――そんなことは分かっている。それでもなお、私は言わずにいられなかった。
案の定、伊奈は困り顔で首を傾げた。
ああ、我ながら自分に辟易する。
「……何でもない。忘れろ」
目を閉じて、私は長い息を吐いた。
その時のこと。
ふいに伊奈は口を開く。
「……生きてる価値のない人なんて、この世に一人もいませんよ?」
「……っ!?」
まるで、当然のことでも告げるかのように、彼女はそんな戯言を宣った。
いや事実、伊奈にとっては当然なのだ。コイツだからこそ言える妄言。
私には到底思いつきもしない理想だ。
しかし、それはどこまで行っても理想でしかない。確たる現実の前では、吹けば飛んでゆくような砂上の楼閣だ。
私はそこに、希望を見いだせない。
理想を夢見て明日に希望を抱くなど、そんな甘い考えは五年前に失った。
だが、伊奈は微笑む。
「それに、六尊さまは弱くないし、みじめでもないです」
「……」
「六尊さまは、わたしをたすけてくれました。ううん、わたしだけじゃない。商都のおじいさんも、町の人も、いろんな人をたすけてくれた。そんなやさしい人が、弱くみじめなはずありません」
一片の曇りもない真っ赤な瞳で、彼女は告げる。伊奈は疑っていないのだ。人の善性を。明日の希望を。そして、蜃気楼のようなまやかしの理想を。
それゆえに、私の心は荒んでいく。
「……ただの打算だ。足し引きを考え、利になると踏んだだけの行動だ」
いつも、そうだった。
私の基準は損得でしかない。
それ以外の行動原理を、私は自分の中から排除した。したつもりだった。
「私に善意などない。お前のような善人に、私はなれない」
そう、自分に言い聞かせるように呟く。
実態などどうでも良かった。私はそうでなくてはならなかった。だから、塗り固めた自分を補強するように、私はそう振舞った。
「おなじです。六尊さまは、いい人です」
「っ!」
なのに、伊奈はそれを否定する。
言葉で、ではない。彼女の在り方が、張りぼての私を否定するのだ。
「だから、そんなに思いつめないでください。六尊さまは、私の大切な人ですから!」
吹き込んだ一陣の風。少女は、春の陽のように、明るい笑みで告げる。
穏やかで、優しくて、ざらついた心を落ち着けるような、純真な笑み。
「……ぅ」
ああ、駄目だ。
これでは、錯覚してしまう。
まるで彼女の言葉こそ真理であると、そんな気の迷いに心が揺らいでしまう。
「……」
分かっていた。最初から分かっていたはずだ。これは、下らない意地と現実逃避だと。
「……お前は、私に生きる価値があると?」
「あたりまえです」
「人を殺め、穢れた私が幸福を望むなど……」
「つぐなえます。あなたなら、手にかけた人よりもっと多くの人をたすけられます」
「……私は、復讐にお前を巻き込んだ。なのに、何故そんな――」
「だって、どんな事情があろうと、あなたはわたしをたすけてくれた。こわくてつらいあの日々から、わたしを連れ出してくれた」
そう言って、再び彼女は笑う。
「だから、わたしはもっと六尊さまといっしょにいたい。死んでなんてほしくない。そんな気持ちに、うそはつきたくありません!」
「――ッ!!」
「だから、六尊さまもすなおになってください。自分をせめずに、もっと自分を大切にしてください。だれだって、幸せになっていいんです」
返す言葉がない。いや、どんな言葉を取り繕ったところで、これは覆すことができない。それほどに、彼女は私を打ち砕いた。
伊奈は、ニコリと笑って手を伸ばす。丁度、彼女と出会ったあの日と同じように。
だが、立場が逆だ。これでは、まるで――
「わたしは、ここにいます。ずっと、あなたの味方です」
「……っ」
そこで、私はようやく気付く。
ああ、そうか。あの日救われていたのは、彼女ではなく私の方だったのか。
目の奥に込上げる熱さを抑えるように、私は見開いた目を閉じる。
だが、駄目だ。一度込上げた感情は、堰を切ったように溢れだす。
「ろ、六尊さまっ!?」
「なんでもない。目に、塵が入っただけだ」
そんな、強がりにもならない言葉が口を突いて出る。伊奈は、きょとんとした顔をして、再び笑った。
「へんな人」
「ほざけ」
憎まれ口がすっと出る。だが、悪い気はしない。妙な心地だ。
「ふふ」
伊奈の手を取るということは、ある種の答えを出すことに他ならない。それは、これまでの自分を否定することと同義だろう。
だが、構わない。
生きる意味なら、たった今見つけた。
私は、伊奈を守る。私の存在を肯定した彼女を守るために、命を賭して剣を振るおう。
復讐も、過去の清算も、全てはそのために。決して死ぬためではなく、明日を生きるために――そう思わせてくれた彼女が悲しまないように、私はもう死のうとは思わない。
だから、私も彼女に手を伸ばす。
「……伊奈」
「なんですか」
「私は、お前を――」
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