第30話:雪解け

 わたしは、小さいころのことをあまり覚えていない。お父さんやお母さんの顔も、声も、まったく思い出すことができない。

 わたしは、気付いたときにはひとりぼっちだった。


 いちばん古い記憶――それは、燃えてる町と、悲しそうな顔の人たち。そして、わたしに向けられた冷たい目。

 あの目と、こげ臭いにおいだけが、いまでもずっと頭の奥にしみついている。


 あそこがどこだったのか、なぜわたしはあの場所にいたのか。それは、いまでもわからない。でも、あの日、あの場所が、いまのわたしの原点だ。


 あの日皇子さまに拾われて、人を助けるための「けんきゅう」を手伝って、たくさんつらい思いをして、たくさん痛い思いをして、気付けばわたしは逃げ出していた。


 そして、あなたに出会った。


 あなたはわたしを助けてくれたけど、それはただの気まぐれだと言った。

 

 たぶん、それはほんとなんだと思う。あの日のあなたは、あきらめたような、でもあきらめきれないような、そんなさみしいきれいな目をしていた。

 誰も助けない。他の人も、自分も、全部がどうでもいい……そう、自分に言い聞かせるような目をしていた。


 それでも、わたしを助けてくれた。

 弱いし、役立たずなわたしを、いっしょにつれ出してくれた。


 あなたは乱暴だし、時々こわいし、平気で人を傷付けるような人だけど、悪い人には思えない。

 きっと、根はいいひとなんだと思う。


 なのに、あんな目をしているのは、きっと何か事情があるにちがいない。

 だから、わたしはあなたを放ってはおけない。ううん、それだけじゃない。


 これは、なんとなく。

 だけど、きっとそうなんだと思う。

 わたしはあなたと昔どこかで――


▼△▼


 氷が解け、湿った地面には、先までの戦いの爪痕が残されていた。


 抉れた地面、倒壊した家屋、無数の血痕。中でも一際大きな血溜まりの中に、彼女はたおれている。


「……」


 伊奈。私が、ほんの気まぐれで助けた少女。皇国に六人しかいない神子の一柱。

 復讐の役に立つと思って連れてきたが、結局何の役にも立たないまま死んでしまった。


「……」


 お人好しで、世間知らず。私とは全く違う、純真無垢な気性。

 そして、私なぞを庇って無様にも命を落としてしまうような、度の過ぎた善人だ。


「……馬鹿者め」


 ああ、そうだ。

 コイツは馬鹿だ。


 何故、私を庇った。お前にとって、私は邪魔者でしか無かったはずだろう。命を脅かし、無理に連れ回した男を守る道理がどこにある。たった一度助けてやったくらいで、命を捨てるなど本物の馬鹿だ。


 私には、守ってもらう権利も価値もない。人を利用し、殺め、それでいて心を痛めないような屑だ。そんな私などに構わず、とっとと逃げれば良かったのだ。それをお前は――


「……ぅ」


 ふいに、無力感に襲われる。何だ、この感情は。あの日のような、底なしの喪失感。何故、私は今そんな感覚を抱いている。


 私にとって、コイツはただの復讐の道具。それ以上でもそれ以下でもなかったはずだ。

 なのに、何故、私はこれほどまでに打ちひしがれている。


「……ぁあ」


 分からない。私にはもう、自分の感情が分からない。あの日以来、私は感情に向き合うことを止めたのだ。だから何故、いま自分がこうも虚しいのか理解出来ない。


 だが、これだけは分かる。


 存外に、コイツは私にとって大事な人間だったらしい。何故なのかは理解出来ない。

 ただ、そうでもないと、いまこの胸を締めつけるような激情も、自然と頬を濡らす涙の意味も、全て説明が出来なくなってしまう。


 何とも、自分勝手だ。

 自分勝手で醜い、一方通行な感情だ。

 我ながら気味が悪い。私にそんな思いを抱く権利も道理もあるはずがないのに。


「……」


 天を仰ぎ、深い息を吐くと、動かぬ伊奈のもとに歩み寄った。

 あれだけまともに術式を食らった割には、綺麗なままである。私はそのまましゃがみこみ、静かに目を伏せた。


「……すまぬ」

 

 その時。


「……あれ、六尊さま?」

 

「――っ!!」


 ふいに、頬へと添えられた手。

 それは、間違いなく伊奈の手だ。

 

「なんで、そんなびっくりしてるんですか?」


「は……はぁ!?」


 どういうことだ。意味が分からない。

 何だ!? 今何が起こっている!?


「それより、なんで泣いて――」


「だっ、黙れ! お前こそ何故生きている! あの傷で死なぬ人間などおらぬはずだ!!」


「そうなんですかっ!?」


 何故か伊奈の方が声を上げる。

 腹に風穴開けられて生きているのも意味が分からないが、その状態に疑問を抱かないコイツも理解不……


「待て、傷はどうした」


「もう治りましたけど」


「は?」


 見ると、顔にあった痣や、手足の無数の擦り傷が全て無くなっている。ということは、


「きゃっ! 何するんですか!」


「……」


 めくったった衣の下に、穴は空いていない。術式の直撃で出来た傷も、既に完治している。


「そんな馬鹿なことが……」


 人間の治癒能力を完全に凌駕りょうがしている。

 普通なら即死の傷を、コイツは命が潰える前に治してしまったということか? 

 有り得ない。


「お前、一体何を」


「いっ、いつまで持ってるんですか!」


 小娘は勢いよく私の手を払いのけ、紅潮した顔でそっぽを向いた。


 未だに理解は追いつかない。第三皇子の研究か、それとも神子の特異体質か。


 いずれにせよ、コイツは生きている。

 死んでなどいない。確かに、いま、この場所に生きている。

 その事実が、じわじわと押し寄せてきた。


「…………ぁ」


「ろ、六尊さまっ!?」


 安堵か、あるいは――ふいに緊張が解れ、力が抜けた。そのまま突っ伏しそうになるのを、小娘が咄嗟に支える。


「大丈夫……ですか?」


 心底心配そうに尋ねる小娘。丁度先ほどと立場が逆転した形である。不覚だ。


 しかし、私には彼女を払いのけるだけの力も気力も残っていない。不本意ながら、私はこの体勢を維持するしかなかった。


 穏やかな目、表情。落ち着いた脈。

 まるで子を守る母のような様子で、小娘は私を軽く抱きしめた。


 分からない。

 何故だ。


「……何故、そこまで私を気に掛ける」


「え?」


「何故、お前はそこまで私を気に掛ける。私は悪人だ。人を何人も殺め、人生を復讐に費やすような咎人とがびとだ。お前だって、無理やり巻き込み、利用しているのだぞ!」


 そうだ。私はお前にとって敵も同然。

 なのに、何故――しかし、彼女は優しく微笑んだ。


「……わかってます。あなたがとびきり悪い人だってことくらい。でも、それでもです」


「は……?」


「六尊さまは、わたしを助けてくださいました。見ず知らずのわたしの手を取って、いっしょに走ってくださいました」


「……っ」


 コイツは、何を言っている。

 お人好しだとかそういう次元ではない。

 たった一度助けただけで、自分の命を捨てる理由になるだと?


「馬鹿なことを……あれは、一時の気の迷いだ! 今だって無理に連れ回しているに過ぎぬ。全て私の自分勝手、お前が返す恩など微塵みじんもありはしない!」

 

「……かも、しれませんね」


「ならっ!」


「でも、もしそうだったとしても、六尊さまはわたしの恩人です」


「くっ……!」


「これはわたしの意思です。もしあなたがあの時ダメと言ってても、わたしはあなたについていきました。無理やりなんかじゃない。わたしがしたくてやってるんです!!」


 かたくなに、小娘は言い返した。

 馬鹿だ。紛うことなき大馬鹿だ。


「分からぬ。本当に分からぬ! 一体何が、お前をそこまで突き動かすのだ!」


「それは、あなたをほっとけないから!」


「!!」


 まっすぐ、小娘は私の目を見る。

 赤く、透き通った純粋な目を潤ませて、彼女は力強く告げた。


「なんでかは、わたしにもよくわからない。でも、ほっとけないんです! 復讐はこわいけど、それでも、わたしは六尊さまの力になりたい! だから、いくらあなたに嫌われても、おいていくっていわれたって、わたしは――」


「生意気なことを」


 小娘の言葉を遮って、私は深く、深く息を吐く。


 だが、考えれば私もそうだ。

 別にコイツを助けたのに理由はない。戦力にならないと分かっていても、置き去りにしないのもただの気まぐれ。


 だが、恐らく。何度生まれ変わり、同じ状況に立ち会っても、きっと私は同じ選択をした。不思議と、そんな確信がある。


 結局、私もコイツも同じ穴の狢だ。


 気に食わない。

 だが、受け入れざるを得ない。


 故に、私は天を仰いだ。

 ぐちゃぐちゃに乱れた頭の中を整理するように、大きく息を吸って、呼吸を整える。

 そして、再び小娘の顔を真っ直ぐに見た。


「……私はお前が嫌いだ」


「え」


「私はお前のような、世間知らずの善人が大嫌いだ。よく分からない? そんな漠然とした感情で命を捨てる馬鹿がどこにいる」


「うっ……」


 傷付いたように項垂うなだれる小娘。

 なんだ、好かれているとでも思っていたのか。自惚うぬぼれもはなはだだしい。


「……心に刻んでおけ。二度と今日のような真似はするな。私の力になりたいというのなら、もっと別の方法を考えろ。次またやったら、その時は置いていく」


 ばっ、と、小娘は顔を上げる。

 その顔から目を離さず、私は初めて、彼女の名を呼んだ。


「分かったな、伊奈」

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