第10話 クマちゃんズ先生

 これまで、文化功労賞はまだふさわしくないと何度も辞退してきたクマちゃんズ先生だったが、ここに来て受賞を受け入れたのはなにか心境の変化でもあったのだろうか。この情報社会であっても、ネット上にはクマちゃんズ先生のことはほとんど噂程度にしか書かれていない。

 クマちゃんズ先生はアシスタントを雇っていない。クマちゃんズのメンバー内で原稿を完成させているからだ。メンバーは何名いるのか、入れ替わりがあるのかも不明だが、ダイヤモンドよりも硬い口であると想像できる。誰一人、ずっと個人情報を漏らさなかったのだから。

 初めて会う自分も細心の注意を払わなければ……

 と緊張しつつも、あわよくばと、辰巳はサイン色紙をトートバッグの中に忍ばせていた。画材もできるかぎり詰め込んでカラーでも描いてもらえるようにと。辰巳としても、この業界に足を突っ込む遥か以前の幼少期から、クマちゃんズ先生の漫画を読んで育ってきたファンの一人である。パーティ会場に着く前から、当初の目的を忘れかけていた。サインを頼む場合は誰を描いてもらおうか……。いや、個人として行くのではない。仕事だ。当然主人公のドラモを描いてもらおう……

「見て~、色紙5枚持ってきちゃった。みぎーちゃん、ひだりちゃん、前田ちゃん、上田ちゃん、描いてもらうんだ」

 とかなんとか言って隣で姫野が頬を赤くし高揚している。『ドラゴンベアー』には数々のケモノ系美少女が登場する。どの娘もそれぞれに魅力的で甲乙つけがたい。

「先生に迷惑だろ5枚もなんて!! 慎め!」

 

 しかし、一時間後――

するするする、と、流れる水のようなスピードのマジックさばきで、クマちゃんズ先生の作画担当Aはサイン色紙を黒く埋めていった。週刊漫画家は絵を描くのが早いと噂には聞いていたが、指の動きにまるで迷いがない。完成された見えない線をなぞっているかのようなスピード、しかもサイン用のマジックペンなのに、いつものキャラクターと寸分たがわないクオリティの絵が出来上がっていく。

 そのゴッドハンドをまじまじ見つめ、まばたきする暇もない。あっという間に、辰巳の1枚分と姫野の5枚分のサイン色紙が完成した。姫野が用意していった画材は使わなかった。もとからサイン色紙を描く気満々だったらしい、クマちゃんズ先生は、なんと自ら、普段愛用しているというコピックを持ち込んでいた。簡単なものではあるが、キャラクターをカラーで塗ってくれた。

「ああ、こんなに気前よく描いてくださるなんて、もっと色紙の枚数持ってくればよかったわ……」

 姫野はヒロインたちの色紙を受け取って目に涙を浮かべていた。サイン会やイベントなどいっさい顔を出さないクマちゃんズ先生(のうちの一人)がこんなに話しやすい人だとは。

 今回の祝賀会に出席したのは、いままさにサイン色紙を引き受けてくれた作画担当のAさんという方(これは便宜上の名前で、普段からAと呼ばれているわけではないとのこと……)だけだった。しかも、Aさんは覆面レスラーより素顔がわからないマスクをすっぽりとかぶっていた。マスクというか、クマのぬいぐるみの頭部である。頭を着ぐるみの茶色いクマで覆い隠しており、その肩から下は、クマを模した「きぐるみパジャマ」で包まれている。ダボッとしたモア素材のため身体のラインはわからない。背丈は目測170センチほどで、声は男性にしては高く女性にしては低い。確定ではないが九割型、性別は男性であると推測される。ここまで顔も体型も隠し通すとは徹底している。これでは素顔で再会してもわかるはずもない。

「全然いっすよ~。むしろ描きたいですよ。ふだんファンと会う機会ないんで、もっと描きたいくらいですね。友達に配ってください」

「本当に? い、今からサイン色紙追加で買ってきてもいいですか?」

「はい全然いいっすよ!」

「おい……!?」

 ずうずうしいことこの上ない。色紙をさらに頼もうとするとは。姫野を止めようと手をのばすが、彼女は財布を片手にすでに会場外へと歩きはじめていた。

「辰巳の分も買ってくるよ。5枚でいい?」

「え? あ、うん」

 辰巳の隣でクマのぬいぐるみの頭部分が、こくこくと軽快にうなずいている。これはお客さんサービスで無理しているたぐいの動作ではなく、本当に「むしろ描きたくてしかたない描かせて頼む」という空気。ここまでファンとの交流を楽しんでいる作者、なぜ覆面作家をしているのか謎すぎた。

「あの、覆面作家で表舞台に出てこないのは、クマちゃんズ先生たちの方針なんですか?」

「……まあ、そういう感じですね。私個人としてはサイン会などもしてみたいんですが、うちのリーダーというか、シナリオ担当が断固拒否でして」

 自分が出ないだけならまだしも、メンバーにも露出を禁ずるとは、シナリオの人は想像を絶するほどの引きこもりなのだろうか。

「今はインターネットの時代ですからね。ほら『特定班』っているじゃないですかぁ」

「あ、怖い人達ですね」

「そうそう。私らだけでも表に出て、もし個人情報を特定されてしまったら芋づる式に自分のプライバシーも筒抜けになるんじゃないかと恐れているんですよ」

 人気作家は大変なのだろう。ファンに追われるならはまだしも、それ以外のマスコミやYouTuberなども、美味しいネタを常に血眼になって探している。

「あの、もちろん僕は今日ここで知ったことは口外しませんので……」

「そうしてもらえると助かります~」

「と・ところでですね……」

 ここで閑話休題。本題に、やっと入ることができた。高鳴る心臓を落ち着かせようと深呼吸し、辰巳は頭を下げる。

「ドラゴンベアーのアニメの件でお願いがございます……新しい声優さんの候補、」

「あ、全然いっすよ~」

 承諾はっや。

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