第4話 一方その頃、とある声優事務所は

 声優事務所にも色々ある。

 多数の実力者が所属し、アニメ制作側とのパイプも強い大手事務所から、名前も聞いたことがあるかあやしい小規模の事務所まで。オタクが「犯罪者予備軍」「ロリコン」等と言われ、社会的に弱い立場だったのはもう昔のこと。今では誰も信じないほど、アニメ・マンガをはじめとするオタク趣味はメジャーな娯楽になった。作品数も増えるにしたがって、声優の仕事もまた量は増え続けたが、それは結果的に「ただでさえ忙しい人気声優がもっと激務になる」ことを示していた。会社員ではないのだ。余りが出ないように仕事を全体に割り振る、というわけにはいかない……。

 今をときめく人気声優が名を連ね、声を当てれば、大ヒットはせずとも固定ファンが見てくれるし、イベントを開催すればそれなりに席は埋まる。人気声優はますます引っ張りだこである。売れない声優は辞めるか、バイトをしながらなんとかねばるか。

 ワンクールアニメ放送が主流となった今、新人や若手を「育成する」「番組内でじっくり成長させる」という精神が欠けたキャスティングになっている。安心感のある、すでに知名度も実力もある声優を採用したい制作陣は多かった。けれど、夢をあきらめきれない若者や、もう若者と呼べない者たちもまたそれ以上にひしめいていた。

 声優事務所「ビリーブme」では、日曜日の午前中から、声優養成所コースに通っている面々が、レッスン時間よりも早く待合室に次々と集まってきていた。ここに通う生徒たちのうち、どのくらいがデビューできて、そして職業声優としてやっていける人が何人いるのやら。そう考えると、「ビリーブme」という名前は辛辣にも思える。

 声優養成所は、年一回行っているオーディションで合格すれば学費免除や半額になることもあるが、多くの生徒は実費で通っている。大半がアルバイトをしながら、学費や生活費を工面し、空いた時間で必死に訓練しているのだ。

 75期生である生徒たちは、仲のいいグループでそれぞれが輪になり、声をひそめるように噂話をしていた。

 もちろん話題は、今朝のニュース。

「はしのすみ電撃引退」についてである。

 歳若い彼らにも、彼女の偉大さは幼い頃から実体験として知っている。

 生まれたときから幼少期は、「はんぺんまん」を見て、はんぺんまんミュージアムに行き、初めての映画館は、もちろん、劇場版はんぺんまん。それから、少し成長したら「まじっくプリンセス」を見た(女性だけでなく、男性もみんな見ていた。アニメに性別の境はもはやほとんどなかった)。初代は世代ではないけれど、最初のまじプリが伝説だということは知っているし、ネットでよく無料配信しているので、見たことがある。本当に、はんぺんまんと同じ人が声を当てているのかと信じられない思いだった。

 それから、小学校では携帯型のゲームに夢中になり、友達と通信をして、「ココロのモンスター」こと、「ココモン」をプレイした。中高生になると、オタクの登竜門とも言うべき作品の「ドラゴンベアー」を全話視聴し、一気にのめりこんだ。そして、大人も近い歳になり、「プレイヤーズ!!」にハマって、この紙屋先輩かっこいいけど声だれだろうと思ってキャストを見たら仰天した――。

 枚挙にいとまがない。きっとこの言葉の語源は、はしのすみなのであろう。それだけではない。八面六臂も、天衣無縫も、一騎当千もそうだ。

 上に並べたキャラクター以外にも、ここには書き切れないほど多くの、有名な作品の著名なキャラクターを担当しているのだ!

 はしのすみは十人、いや百人いると言われて久しい。

 今を生きる若者の彼らは、もちろんSNSをよく使っていた。デビューもまだだが、声優のたまごと名乗って個人アカウントに書き込んでいる。

 彼らは、はしの引退のニュースを引用し、要約すると以下のような内容をつぶやいた。


『急な話で朝からびっくりしました。いつか、はしのさんと共演させていただくことがひとつの夢で目標だったので……。』


 とか、


『長い間おつかれさまでした。さびしいです。ずっと憧れている、声優界のスーパーレジェンドはしのすみさん。完全に引退しなくても、いつでも気が向いたときにまた僕らに声を届けてくれたら嬉しいなぁ。配信なら自分のペースでできるしなんとかならないですか~汗』


 とかなんとか、何の当たり障りのないことを――。

 その裏で、実態は、声優のたまごたちがささやく。

「ああ、何百、いやもっと、キャラクターの『枠』が、あくのか……」

「そう、だな………」

「事変だ……」

 文字通り。

 はしのが業界から抜けたあと、彼女が担当していたキャラはどうなるのか。順当に考えれば、後任の声優が誰かしら決まって席に収まる。キャラの2代目だ。プレッシャーもあるだろうが、彼女の役は有名で人気作ばかりときている。この先何十年という継続的な仕事が確約されるも同然だ。口には出さずとも、顔に書いてある。そのいすに、座りたい。

 それは彼らのみならず、あらゆる中堅やベテランの声優たちも同じだろう。いくら健康で長寿でも不老不死ではない。いずれ必ずその枠は、空く。


「お疲れさま」

「あ、先輩――」

 そのとき、数年前にデビューした当養成所72期生の佐多ケイが通りかかり、後輩たちに声を掛けてきた。場に漂っている、戦慄した雰囲気をなんら感じ取っていないかのように、佐多は悠悠とほほえんだ。

「レッスンは午後からでしょ。今日はみんな早いんだねぇ。どうしたの?」

 業界が朝からこんなに騒ぎになっているのに。それは、天然人間のほほえみだった。

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