第7話:紅茶の違いがわかること
福井警視の来訪からしばらく経った某日、早朝。
一年の内で最も日の出の早いこの時期に、
否、彼はそも、眠ってなどいなかった。五年前のある日から、彼はほとんど眠れない。
そうは言っても、護衛課に属する以上は身体を休めなければならない。だから形式的に寝間着に着替え、横になるようにはしている。だが、それだけだ。
眠らないことに身体が慣れ、隈が消えなくなった目で、彼は一人暮らしにはやや広い部屋を見渡す。学生の頃から住んでいる、極めて見慣れた部屋だ。
彼の視線が、部屋の隅で止まる。そこには、サイドチェストの上に置かれた菊の花束と、右耳に青いピアスを付けた女性の映った写真立てがあった。
昨日は、月命日だった。
戒は、月命日には必ず花を供えている。
人間というのは薄情なもので、もう居ない人間へ向けていた感情など、すぐに忘れてしまう。それがどれほど大切な人間であり、喪った時にどれほど悲嘆に暮れたとしてもだ。
だが、それは当然の事なのだろう。忘却とは、生きていくには欠かせない機能だからだ。
戒は、それを拒んだ。
忘れてしまうならば、生きたところで仕方がない。
それは、一生をその人物の喪に服するということだった。
名を、
――付き合っていたのは、もう五年以上前のことになる。
「わたし、魔法少女なんだよ」
そう言われたのは、彼氏彼女の関係になってどれくらいの頃だろうか。
昼だったか夜だったかも戒は憶えていないのだが、彼女がしらふだったのは確かだ。
朝那は戒の一つ上で、朝那は二十、戒は十九だった。
「そりゃ物騒だ」
「えっなんで?」
「……何となく?」
「偏見」
むすっとした顔で朝那が言う。
彼女は容姿こそ年上そのものという印象だったが、言動はその真逆だった。
朝那は緩くパーマのかかった髪をシニヨンにしており、涼やかな目鼻立ちで、大人びた雰囲気の容姿をしていた。だがそれは黙っていればの話であり、脈絡なく与太話を始めたり、常にささやかな悪戯を仕込んでは笑っている、太陽のような人だった。
「夢と希望を守っているんだけどなーわたし」
「お勤めご苦労様です」
「そうそう、ご苦労なので戒くん、お茶淹れて。アーマッドね」
二人とも、上京した大学生という身分であり、どちらかが言い出したのか、家賃節約のために同棲をしていた。同年代の中では、かなり進展の早い部類だ。その会話をしていたのも、二人で住んでいて、そして今も戒が住んでいるアパートの一室でのことだ。
「分かりましたよ、お嬢様」
「……まあ、それはそれとしてさ」
台所へ向かいかけた戒を引き留め、急に朝那が真面目な顔になる。
「ほんとなの。魔法少女の話」
「朝那が本当だと言って、本当に本当だったのがどれくらいか聞きたい?」
「いやあの、本当に本当に本当なんだって」
「はいはい、信じるよ」
「ちょちょちょい! それ信じてないやつ!」
朝那がいよいよ頬を膨らませた。
彼女は右に泣き黒子と、左の口許にも黒子があり、それが容姿の大人っぽさを強めているのだが、こうも子供じみた表情ではそれにどれだけの意味があるだろう。
「もう。だったら見せるから」
膨れっ面のまま、朝那は棚から自分の鞄を出すと、中から細長い何かを取り出した。
それは、白を基調として繊細な細工が施され、
その時の戒には知る由もなかったが、それは
「
朝那が小刀を抜くのと同時、部屋着姿だった彼女の姿が変化する。
黒を基調とした、和装とも洋装ともとれる衣装だ。上半身は振袖のようだが、右腕には袖が存在せず腕がむき出しで、下半身はうって変わってロングスカートのようだが、左のみ裾が長い。総じて、左半身のみに偏った、前衛的だが均整の取れた美しい衣装だった。
「これ、生箭日女っていうの。日本には、わたしみたいな人が他にもいる」
ぽかんとしている戒を置いてけぼりにしつつ、朝菜は続けた。
「ごめん戒くん、明日、ちょっと付き合って」
朝那もまた、生箭日女だった。
その頃は、まだ実動祭祀部は存在していなかった。しかし、その前身となる『ヤタガラス』という組織は存在していた。そして、生箭日女とヤタガラスは、その存在を公にすることなく、今と同様の
だが、こうして戒は朝那が生箭日女であると知ることになった。それは、彼女が天涯孤独であったためだろう。他に彼女には、いざという時に頼れるような人間はいなかった。
経津主の生箭日女に何かあった場合の、親類の代わりの緊急連絡先。当時のヤタガラスにとって、戒はそういう扱いだった。
だが、それを打ち明けられたところで、二人の生活には何の変化もなかった。
朝那が家を空ける際の理由に『禍言祓』というものが追加されただけ。
それで終わればどれほど良かっただろうか。
――そこまでを回想したところで、戒は現実である朝焼けの部屋へ意識を引き戻す。
彼女のことを忘れてはいけない。そも忘れられようはずがない。だが同時に、思い返したところで何になるわけでもないのだ。
戒はベッドから立ち上がり、身支度にかかる。
いつものグレーのスーツに袖を通し、左耳に青いピアスを付ける。それは写真の朝那が付けているものに非常に似ており、しかし全く同じものでもなかった。
そして、戒はまだ早朝と言ってよい時間帯に部屋を出た。
その手には菊の花束がある。出勤の前に、寄る場所があった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます