第5話:紫月の修練
「一、二、三、四――」
初夏に差し掛かり、暖かさがいつしか暑さへ変わろうとしている某日の、日女神社境内。
本部社殿の裏手の修練場には、木刀が空を切る音と、少女の掛け声が響いていた。
「右手に力を入れすぎないように。それと、振り上げた時に剣先をもっと上げるんだ」
「は、はいっ」
木刀で素振りをしているのは麻の稽古着に着替えた
紫月の初陣のすぐ後、戒は業務の合間を縫い、こうして紫月に剣を振らせていた。
「よし、止め」
紫月は木刀を止め、袖で額を流れる汗を拭う。それほどの本数をやったわけではないのだが、その肩は大きく上下していた。
「……運動は苦手か?」
荒れた息が治まらない紫月に声を掛けると、紫月はこくりと頷いた。
「はい。……とても」
言葉の通り、彼女は驚くほど貧弱だった。少し前に木刀を初めて持たせたときなど、
――成長期に十分な栄養を取れていなかったのではないか。
どうにも複雑らしい彼女の家庭事情も含めて、そんな疑念が膨らむ。
「あの、戒さん。どうしたんですか?」
「……すまない。少し書類仕事のことを考えていた」
彼女と同じくらいに小柄な子供はいないわけではない。それに、ずっと運動が疎遠だったのであれば、彼女の非力さもおかしなものでもない。人間の標準的な筋肉量は体重に比例する。特に小柄である紫月が非力なのは当たり前のことだ。
それに、もし疑念が当たっていたとしても、自分が踏み込むべき問題ではないのだ。
「今日はここまでにしよう」
「え、もうですか?」
「いや、終わりにするのは素振りだ。前に言った、助っ人を呼んである」
それは、以前にとよにしていた頼み事だった。
敗北によって失われた自信は、鍛錬と勝利でしか取り戻せない。それは上司である大野の受け売りだったが、戒自身もそう思っていた。そのために、庶務課に頼み込んで長らく使われていなかった修練場の清掃をしてもらい、戒もこうして紫月に剣を振らせている。
だが、いくらなんでも素振りでは限界である。かといってそのままの紫月ではそもそも立ち合いなどできないし、
だから、とよにあることを頼んだのだ。
「あ、本当にいた」
がらがらと修練場の引き戸を開けて顔を覗かせたのは、栗色の髪をハーフアップにし、艶やかな目元の女だった。歳頃は二十程度に見えるが、大人びた雰囲気を纏っている。。
「
「……着替えてくる必要はなかったと思うが」
「あ、そっか」
しかし、そのとぼけた反応は、どこか少女然としている。
「忙しい中すまないな」
「まあ、後輩のためですから。で、そっちが?」
ハーフアップの女に見つめられ、紫月がぺこりとお辞儀した。
「は、初めまして。
「あ、これはどうもご丁寧に。
「よ、よろしくお願いします!」
「そんなに緊張しなくて大丈夫だよ」
勢いよく再びお辞儀する紫月に、百合阿は柔らかく笑う。
「で、もう聞いてると思うけど、準備いい?」
「はい。お手柔らかに、お願いします……!」
戒がとよに頼んだこと。それは、生箭日女同士での
紫月と百合阿の両者が、修練場の中央で向かい合う。戒は端に避けていた。
「とよ様が頼んでおいてくれたから、神様はわたし達が傷つかないようにしてくれるんだって。気兼ねはなしでね」
「とよ様が……?」
紫月としては予想外の名前だったのか、驚いた表情になる。
「あの……とよ様って、一体」
「あれ。もしかして聞いてない?」
紫月がこくりと頷くと、百合阿はうーんと首をひねった。
「別に、わたし達に隠してるとかじゃないから、訊いたら教えてくれると思うよ。でもわたしから言うのは何か違うっていうか……あんまり口にすることでもないし」
「は、はい……」
すっきりしない表情ながらも、紫月は帯に差していた鈴の付いた小刀を抜く。百合阿も同様に帯に差していた、紫月のものと同じ意匠の小刀を抜いた。
「
紫月の背後に何者かが現れる。それは相変わらず姿も形も見えているのに分からないが、何となく人の姿をしているような気がする。
「契りに拠りて天に坐す御名を喚ばん。其の名、
今度は、百合阿の後ろにも何者かが現れる。それも同様に、姿は分からない。
「「――合一!」」
いつの間にか、二人の姿が変わる。
紫月は、以前にも見た小袖のようなドレスのような、不可思議だがどこか可憐な黒の装束だ。今回は、小刀がすぐに水晶で伸長され、
一方、百合阿は白の小袖に緋色の
建御雷。雷と剣を司る、日本の神々の中でも有名な武神だ。雷そのものの神格化であるともされ、武でもって国譲りを
因みに、刀が逆刃であるのは、建御雷が持っていた
「いつでもいいよ」
百合阿が逆刃の得物を構える。
「……行きます」
それに応じ、紫月が修練場の床を蹴った。
――そして数分後。
「紫月、紫月。大丈夫か」
修練場の壁際で、紫月は生箭日女の姿のまま、ものの見事に伸びてしまっていた。それを戒が抱え起こし、稽古着姿に戻った百合阿が顔を覗き込んでいる。
「ごめんね……、加減が難しくて」
生箭日女は人を越える身体能力を得ている。が、物理法則を捻じ曲げているわけではないのだから、体の質量、つまり体重はそのままだ。
ほんの数秒前、紫月の体勢が崩れたところに、百合阿の横薙ぎが見舞われた。体の回転も加えられたその重い一撃を、紫月は
だが、しっかりと地に足が着いていなかったために衝撃を流せず、吹き飛ばされて壁に打ち付けられ、気を失ってしまったという訳だ。
「あ……わたし、また」
この上なく沈んだ表情になる紫月に、戒は自身の目論見が失敗に終わったのが分かった。
地稽古は実戦形式だが、試合ではない。形式上はそこに勝利も敗北もない。しかし、この状況は紛れもなく紫月の負けだ。
「全然、よくできてたよ。それにほら、先輩だから負けられないし」
紫月の様子を見てフォローを入れる百合阿。
実際その通りである。百合阿はその実、最年少で生箭日女となった才気の塊だ。経験も素質も、紫月は敵わない。敵わなくて当然なのだ。あとは、それを紫月が悪く捉えず、呑み込めるかどうか。
「荒牧の言う通りだ。あそこまで立ち回れていれば、次の
「でも、負けちゃいましたね」
ふにゃりとした、苦笑いにも見える笑みを紫月が零す。
これは、無理をしている笑みだ。戒の直感が告げる。彼がよく知るある女性も、無理しているときは決まってこんな笑い方だった。
「実戦ではないのだから、負けて上等だ。……立てるか」
「ん……はい。大丈夫です」
紫月はすんなり立ち上がる。戒の見立てでは、怪我はどこにもなさそうだ。百合阿はさらりと『傷つけないようにしてくれる』と言ったが、やはり武神は伊達ではないらしい。
「で、どうする? もう一回する?」
百合阿が訊くのと同時、戒の携帯電話が鳴動した。
「……すまない」
休日に連絡してくる相手など、戒には上司しかいない。画面を見るとやはり大野だった。
「はい、一色です」
二人から離れ、電話を取る。
『大野だ。そっちはまだデート中か』
「通話が聞こえているかもしれない状況と分かっていてその冗談は、いささか」
『いや、悪かったって。全国のおじさん共通の悪癖だ、大目に見てくれ』
後で日比谷さんあたりに怒られてください、という言葉を、戒は胸の中にしまう。
『で、本題だ。急だが、戻って来てくれないか。大家さんがご用事だと』
実動祭祀部にとって大家と言えば、警視庁のことだ。表向きはここ数年で発足された実動祭祀部という組織は、区分こそ宮内庁ではあるものの、その実は皇室などほとんど関係がなく、形式上の立ち位置がはっきりしていない。そのため、日女神社に収まりきらない人員は、役割の似ている警視庁の庁舎内に間借りさせてもらっているのだ。
「……警視庁がうちに一体なにを?」
警察絡みで心当たりがあったのは、紫月が戦った
が、警視庁と来た。あのケガレビトと戦ったのは都内ではなく、その件とは思えない。
『悪いが、こっち来てから話させてくれ。表に出せない情報が絡んでる。因みに、お見えになってるの捜査一課だ……と言えば重大さが分かるか?』
一般的にドラマなどででしか聞かない言葉の響きに、戒は眉を顰める。刑事部捜査一課の担当は、傷害や殺人といった凶悪犯罪だったはずだ。
加えて、実動祭祀部――特に護衛課や生箭日女は、警察が銃の携行を許可されているように、任務中の帯刀が許可されている。そこに捜査一課が用など、良い想像は浮かばない。
「了解。向かいます」
『なるはやで頼むぜ』
言って、戒は電話を切る。
「急用ができた。戻らないといけない」
二人の方へ振り返ってそう告げると、紫月が眉尻を下げた。
「大変ですね」
「仕方がないことだ。……悪いが、監督役なしで剣を振らせられない。今日はここまでだ。荒牧も、せっかく来てもらったのにすまない」
「全然。お安いお安い」
「あの……ありがとうございました」
深々と、紫月がお辞儀をする。
「またお願いしてもいいですか?」
「全然いいよ。でもわたし、あんまり時間がなくて……そうだ、後でライン交換しようよ」
このままなら打ち解けられそうだと、戒は心中で一息つく。
少し歳は離れているが、少なくとも自分よりはましだろう。
「……悪いが、俺はこれで。帰りの車は庶務課に頼んでくれ」
「はーい。良きにはからえ、です」
「いや、はからうのは君なんだが」
百合阿に突っ込みを入れ、戒は修練場を後にした。
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