9 至福の時間

◆9◆



 ちょっと張り切りすぎたのか、その日の夜から私はまた熱を出して、三日ほど寝込んで学院を休んでしまった。


 締まらないったらないわね。

 こういうのは翌日、平然とした顔で颯爽と教室に現れて、何もなかったように振る舞うのがベストで格好いいのに。


 単に熱を出して休んだだけなのに、浮気されたショックで寝込んだなんて不名誉な噂が流れていたらどうしよう……いえ、絶対に流れているわね。

 可哀想、哀れで惨めね、なんて目で見られるの、なんだかんだで結構傷つくのよ。


 サボりたいなんて思ったの、初めてかも。

 でも、そんな理由でサボったら、益々噂が助長されてしまうわ。


「お早うございます」


 だから、何事もなかったように取り繕って、教室へと入る。


 途端に、同情と、哀れみと、好奇と、あざけりと、幾つもの視線が私に集まった。


「お早うございますロズハルト様」


 そんな視線なんかまるでないかのように、これまで通り、ロズハルト様の席へ行って挨拶する。


「あ、ああ……熱はもう大丈夫なのか?」


 ここでロズハルト様が欠片も動揺せず、これまで通りに振る舞ってくれていれば完璧だったんだけど。

 そんな動揺を見せたら、噂は本当ですよって言っているようなものじゃない。


「お蔭様で。ご心配をおかけいたしました」


 一礼して、自分の席に行く。


 視界の端の方で、何人ものご令嬢が下品な嘲弄ちょうろうを浮かべていた。

 あれらはファルテイン公爵家うちと仲が悪い派閥のご令嬢達ね。


 こんな時は、悪役令嬢エヴァノーラの我が侭で傲慢な性格だった方が、報復を恐れて、少なくとも私の目の届くところではあんな態度を取らなかったはず。

 そう考えると、本職の悪役令嬢じゃないのも善し悪しね。


 そんな感じで私は普段通り、何もなかったように振る舞っているんだけど、ロズハルト様が私とは微妙に距離を置いて避けて、レアナも私の視界に入るのを嫌がって動いているみたいだった。


 私に同情してくれた親しいご令嬢達は、その後、ロズハルト様とレアナの動向を気にしてくれていたのか、何かと噂を聞かせてくれた。

 まあ、そのほとんどが、浮気男と浮気相手を責めてなじる言葉だったけど。


 正直、ロズハルト様のことは嫌いじゃないから仲良くしたいし、レアナに至っては側で愛でたいくらいなんだけど……。

 そうもいかないのが、ね。


 ともあれ、その情報によると、しばらくギクシャクしてすれ違っていた二人は、ロズハルト様が懸命にレアナを励まし、以前より絆を深めているらしい。


 あの状況からレアナを納得させるためには、レアナを愛人ではなく王妃として迎える約束をして、私との婚約破棄か、少なくとも婚約解消を持ち出さないと無理でしょう。


 でも、私は断罪なんてごめんだから、婚約破棄されるような事はしていないし、この先もするつもりはない。

 婚約解消するにも、王家とファルテイン公爵家うちが納得するだけの理由が必要よ。

 他に好きな子が出来たからなんて、当然誰も納得しないわ。


 ロズハルト様は今ごろ、勢いで切ってしまった空手形にさぞ困っているでしょうね。

 ちょっぴりだけ、ザマァ!



 図書室なんかの特別教室が入っている校舎の裏、特に何があるわけでもないから、あまり生徒が立ち寄らないそこで、私は芝の上にゴロリと横になっていた。


「こんな場所で寝転がっていたら、はしたないと思われてしまうわね」

「大丈夫ですよ。何か言われたら、貧血で倒れられたと誤魔化せば」

「……いつものことで、誰も疑わないわね」

「でしょう?」


 ミリエッタは小さくクスクス笑いながら、私の髪を優しく撫でてくれる。


 私に膝枕をして、ミリエッタはご満悦だ。

 前回の騒ぎで、ミリエッタには使い走りのように動いて貰った上、色々と気を遣わせた挙げ句に相当な我慢をさせてしまったから、そのお詫びとお礼に何かしてあげたいって切り出したの。


 返事を聞いて耳を疑ったわ。

 だって、『膝枕したい』だったのよ?


 それで、必ず自重することって、シラを切るミリエッタにそう言い含めて、この人目がない校舎裏までやってきたの。


 すでに春も終わり夏の始まりを感じさせる青く高い空。

 少しばかり暑さを感じるようになった日差し。

 吹き抜ける心地よい涼やかな風。


 木陰で暑さと眩しさが和らげられて、芝の上に手足を伸ばし、ゆったりとした時間を過ごす。


「~~~~♪ ~~~~♪ ~~~~~~~~♪」


 ミリエッタが静かに歌を口ずさむ。

 子守歌ではないけど、とても落ち着く、穏やかな気持ちになれる、そんな歌。


 目を閉じる。


 ドレス越しに感じるミリエッタの太股の柔らかさと温かさに支えられて、段々と余計な事を考えずに、頭の中が空っぽになっていく。


 夏に向かってさらに勢いを増した緑の生命力溢れる香り。

 それを、ゆっくりと胸いっぱいに吸い込んで、身体中から力を抜いていく。


 ……ああ、気持ちいい。


 …………………………………………。


 …………んん……?


 優しく髪をく感触に、意識が浮上してくる。

 閉じていた目を開くと、ミリエッタの穏やかな、満たされた顔が見えた。


「……どうやら私、眠ってしまったみたいね」

「ええ、二時間ほど」

「そんなに? ごめんなさい、足が痺れているでしょう?」

「構いません、もっとゆっくりされてください」


 起き上がろうとした私をやんわりと止めて、また髪を梳き始めるミリエッタ。


「最近、無理をされてばかりでしたから、お疲れだったんですよ」


 身体よりも心が。

 そう言われた気がした。


 私は何も教えていないのに……。


 だから膝枕をだなんて……。


「もう、私があなたにしてあげたかったのよ?」

「もちろん、至福の時間を戴いていますよ?」


 ……そうね、この二時間で、お肌がツヤツヤしているわね。


「あなたは私を甘やかしすぎだわ」


 手を伸ばして、目に付いたミリエッタの額から垂れ下がっている髪の一房を弄る。


 照れ臭そうに、でも嬉しそうに微笑むミリエッタ。


 私はこの子にどれほど甘やかされているんだろう。

 私はどうすればこの子に報いてあげられるんだろう。


 前髪を弄る私の手をミリエッタがそっと掴むと、そのまま自分の頬に当て、うっとりと目を細めた。


「そうですよ、わたしだけがエヴァノーラ様を甘やかして差し上げられるんです。一番お側にいるわたしだけの特権ですよ?」

「そんな特権、あげた覚えはないわよ?」


 触れた頬を撫でると、甘えるように頬を擦り寄せてくる。


「わたしが勝手に貰いました」

「もうミリエッタったら……」


 気を張って悪役令嬢として振る舞って、計画を、計画をと、ちょっと頑張りすぎていたのかも知れない。


 思えば、レアナが入学してきてからこっち、例年より熱を出して寝込む頻度が多かった気がする。

 それだけ周りも自分も見えなくなって、心配をかけてしまっていたのね。


 それに気付かせる時間を作ってくれるなんて……。


 本当にもう、こんなにも私がリフレッシュさせて貰ったら、どちらにとってのご褒美なのやら。

 ミリエッタの膝枕が癖になってしまいそう。


「またしたくなったら、いつでも言って下さって結構ですよ」


 まるで見透かしたようにクスクスと笑いながら髪を梳く手が、とても優しい。


 私が人生を狂わせて、私に縛り付けてしまったと言うのに……。

 本当に、私にはもったいないくらいの親友よ。


 だから……。


「……その時はお願いね?」

「はい!」


 ……最後の最後で、そのデレっとした顔さえなければ、完璧だったわね。



 ミリエッタのおかげでリフレッシュしてから、気負って無理に計画、計画と推し進めるのを止めて、ほどほどで立ち回ることにした。

 だってレアナがロズハルト様ルートに入ったのがほぼ確定したから。


 ゲームだと、ルート分岐は夏休み明けすぐの、秋のダンスパーティーからなのよ。

 間違いなく、私が色々動いたせいね。


 へこませたレアナも、ロズハルト様の空手形で立ち直ったみたいだし。


 だからここからは状況を見守りつつ、要所を押さえるだけで済むはずよ。


 それに、ミリエッタにあまり心配をかけたくないもの。

 おかげでのんびり過ごせる時間が出来たのは、思わぬ収穫ね。


 とはいえ、気を抜いてばかりもいられないのよね。

 だってもうじき学生の最大の敵、テストが始まるんだもの。


 すぐに熱を出して欠席してしまうから、それで成績が悪いなんて言われたくないし、言い訳にも使いたくない。

 公爵令嬢として、ロズハルト様の婚約者として、恥じない成績を残さないと。


 こういうところでも隙を見せないようにしないと、陰険なご令嬢達はなんでも攻撃の材料にしてくるから、日本で学生をやっていた頃よりよほど緊張感を持って臨まないといけないのが、すごく面倒なのよ。


「エヴァノーラ様ぁ~~」

「はいはい、どこが分からないの?」


 情けない声を上げるミリエッタの手元を覗き込む。


「ここですぅ~~」

「ああ、これね。これは左右の式をまとめるのにコツがあって――」


 ミリエッタは文系も体育やダンスの成績もいいのに、理系が壊滅的なのよね。


 中学生レベルなんだから、と思うのは、前世の知識が残っている私だからこその話。

 苦手な人は苦手で、駄目な人は駄目。

 ミリエッタは数字や数式の類いと、とても相性が悪いみたい。


 ペンを走らせて、解法を説明しながら――


「すぅ~……はぁ~……いつ嗅いでもエヴァノーラ様の髪っていい匂いですね」

「――どうやらミリエッタは数学は赤点でいいみたいね?」

「いえいえ嘘です駄目です、しっかり勉強します!」

「そうしなさい。次また気を散らしたら、部屋から追い出すわよ、いいわね?」

「はい!」


 本当にもう、上級貴族の、それこそ望めばロズハルト様の婚約者にだって立てたはずの伯爵令嬢が、どこに慎みと自重を置き忘れてきてしまったのやら。


「……エヴァノーラ様、もしかして今微笑まれました? それもすごく綺麗なお顔で」

「別に微笑んではいないわ。それより、ドアは向こうよ。成績発表が今から楽しみね」


「そんな! 今のは仕方ないでしょう!? エヴァノーラ様がすごく素敵なお顔で微笑まれたんですよ!?」

「微笑んでいないし仕方なくもないわ。次に気を散らしたら追い出すと言ったわよね」


「ずるいですエヴァノーラ様!」

「あっ、こらっ、何を抱き付いてきているの!」

「追い出されたくありませんから!」

「分かったからっ、追い出さないから離れなさいっ、そして勉強を続けなさい!」

「もう少し、もう少しだけこのままで!」

「きゃっ、ちょっと!? どこを触っているの!? ミリエッタ!!」


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