2 新入生の入寮日

◆2◆



 …………ん。


 静かにドアが開いて誰かが部屋に入って来た気配で、夢の中からぼんやりと意識が覚醒してくる。


「エヴァノーラ様、まだお休みのようですね」


 息を潜めた微かな呟き。

 ……その声はミリエッタね。


 でも、身体が熱くて怠くて、目覚めと眠りの間をふわふわと漂うように……ゆっくりともう一度眠りの中に引き込まれていく……。


 ふと額に感じる、優しくも少しひんやりとした手の平の感触。


「まだ少し熱があるようですね……昨夜も少し冷えましたから、熱がぶり返してしまわれたのかも」


 私の身を案じる声が一度不自然に途切れて……。


「エヴァノーラ様が早く元気になりますように……♪」


 少し上擦った声と吐息が近づいてきて……額にそっと温かく湿った柔らかな感触が……!?


 ドキリと心臓が跳ねて、もう一度眠りどころか、一気に眠気が吹き飛ぶ。


「……ん…………」


 私が小さく身じろぎをしたら、すぐに額に触れていた感触が消えて、慌てたように衣擦れの音が離れた。


 ぼんやりと瞼を開くと、わずかに頬を上気させたミリエッタが素知らぬ顔で微笑んだ。


「申し訳ありませんエヴァノーラ様。起こさないよう起こしてしまいましたか?」


 ええ、ええ……あなたのでね。

 これが、母が娘を、姉が妹を慈しむような、そんな母性溢れるキスなら私もなんとも思わないし、むしろ安心してそのままもう一度眠りについていたと思うけど。


 あなた、日を追うごとに大胆な振る舞いをするようになってきているわね?

 具体的には、この学院に入学して、女子寮暮らしをするようになった一年前から。


 人目がない個室だからと、羽目を外しすぎてはいないかしら?

 第一王子ロズハルト様の婚約者たるこの私に、こんな大胆な真似をしたところをもし誰かに見咎められでもしたら、王家も巻き込んだ一大スキャンダルになりかねないのに。


 顔と身体が熱いのは、風邪の熱のせいか、それ以外の熱も混じっているのか……。

 熱で頭がぼうっとして考えがまとまらないから、それについては今は思考を放棄で。


「ミリエッタ……今は?」

「先ほど新入生の入寮開始時間になったばかりです」

「そう……時間通りね、ありがとう」


 私はゆっくりと身体を起こした。

 熱で少しふらつくけど、一眠りしたおかげで多少なら起きて歩けそう。


「まだお熱があるのですから、無理されずこのまま休まれていては?」

「……ありがとう、でも大丈夫よ。今日はがいるから」


 三日ぶりにベッドから出て、寝間着からドレスに着替える。


 と言っても、ミリエッタが寝間着を脱がせて……下着まで脱がせてくれて、さらに濡れタオルで顔や身体を拭ってくれて、下着を履かせてくれて、ドレスも着せてくれた。

 それから化粧をしてくれて、髪まで整えてくれる。


「熱で汗を掻かれましたから、こちらは洗い物として出しておきますね」

「いつもいつもご免なさいミリエッタ。あなたを侍女のように使ってしまって。同級生に、それも伯爵令嬢にさせることではないのに」

「わたしもいつもいつも言っているじゃありませんか。お気になさらないで下さい。わたしがエヴァノーラ様のお世話を焼きたくてしていることですから」


 心からの笑顔に、感謝と同時に申し訳なさでいっぱいになる。


「それに伯爵令嬢なんて言っても、所詮は四女ですから。未だに婚約者もなく、結婚も望み薄ですし、エヴァノーラ様がご結婚されたら、侍女として雇って戴けるとありがたいですね」

「もう、ミリエッタったら」


 茶化すミリエッタに、どういう顔をしていいのか分からなくて、誤魔化すように微笑んでおく。


「尽くされることを当たり前だと思わず、自分のことは自分一人でも出来るように……って学院の方針は共感するけど、侍女もメイドも付き添い禁止だと、体調を崩したこんな時は本当に不便ね」

「そして困った事があれば学友同士で助け合い絆を深めなさい……ですよね? わたしはエヴァノーラ様に尽くせるので、大歓迎の方針ですよ」


 本当にもうミリエッタったら……あなたの友情は素直に嬉しいわ。

 私の汗で湿った寝間着と下着を、まるで宝物のように抱き締めながらの浮かれた台詞でなければ。


 ちゃんと真っ直ぐ洗い物として出すのよね?

 あなたの良識を信じているわよ、ミリエッタ?


 でも、それの追求も今は時間がないから放棄で。

 だってこれから私の人生を、全てを、命を懸けた……いいえ私一人じゃ済まない、この王国に住まう全ての人々の未来すら左右する、そんな大それた計画を開始するため、最重要のキーとなる人物に会いに行かないといけないんだから。


「それでは少し会いに行ってくるわね。時間通り起こしてくれてありがとう」

「どうしても行かれるのですね……分かりました。エヴァノーラ様が無茶をしないように付き添います」

「ありがとうミリエッタ……本当はね、あなたならそう言ってくれるはずって、少し期待していたの」


 正直言えば、大それた真似過ぎて、何も知らないミリエッタを巻き込みたくない。

 でも、一人だとやっぱり不安で心細くて……。


「もう、それならそうと早く言って下さい。わたしに遠慮はなしですよ」


 嬉しそうに差し出されたミリエッタの手を借りて自室を出る。


 学院の女子寮の三階、廊下の窓から玄関前を見下ろすと、新入生のご令嬢達が荷物を抱えた使用人達を従えて、次々と女子寮へと入ってくる様子が見えた。

 それと入れ替わるように、部屋に荷物を運び終わった使用人達が帰って行く。


 あのご令嬢達は今日から二年間、使用人が側にいない生活を初めて送ることになる。

 期待と不安、果たしてどちらが大きいかしらね?


 私は不安の方が大きかったわ。

 こんな身体で果たして本当に計画を成功させられるのかしら……って。


 やがて階下の喧騒が収まっていき、ご令嬢達の入寮が終わる。


「エヴァノーラ様、お会いになりたい方はいらっしゃいましたか?」

「いいえ、まだよ。これから来るはず……ほら見えてきたわ」


 隣の……と言っても数百メートルは離れているけど、隣の男子寮の方から、一人の少女が小さな手荷物を携えて歩いてきていた。


 まだ遠くて容姿は判別が付かない。

 でも、私はそれが誰なのかを知っている。


「来たわね……レアナ・フロウッド。遂に始まるのね、『クルーウィックの学び舎で紡ぐ虹色の季節』のゲーム本編が」


 気持ちが高ぶり零れてしまった呟きに、これはミリエッタに聞かれたら不味いと、ハッとなって慌てて口を閉じ――


「――コホッ、コホッ、コホッ」


 思わず咳き込んでしまう。


「まあ、エヴァノーラ様大丈夫ですか!?」


 するとすぐに、私を気遣う優しい手が背中をさすってくれた。


「コホッ、コホッ……ありがとうミリエッタ」

「ずっと廊下に立っていてはお身体にさわります。もうお部屋に戻って、ゆっくりお身体を休めましょう?」

「いいえ、大丈夫よ。それにまだ目的を果たしていないもの」


 もう一度窓の外に目を向けると、レアナの顔立ちがようやく判別できるほどまで近づいてきていた。


 艶やかな桃色の長い髪。

 少し丸顔だけど、明るく快活そうな顔立ち。

 大きくてつぶらな紫の瞳と、薄紅色の唇。

 そしてモデルのようなスレンダーな体付きながら、豊かな胸の曲線。


 山奥の村から出てきたばかりなのに、ひなびたところを感じさせない、華やかなオーラを漂わせている。

 さすが我らがヒロイン、レアナ・フロウッド。


 ニコニコとやけに上機嫌なのは、道に迷った挙げ句、女子寮と間違って男子寮の方へ行ってしまい、攻略対象の第一王子ロズハルト様との出会いイベントを済ませたからでしょうね。


 待つことしばし、レアナが女子寮の玄関へと入っていった。

 頃合いよし、ね。


「では行きましょう」


 ミリエッタの手を借りながら、ゆっくりと階段を降りて玄関ホールへと向かう。

 途中、ミリエッタにはレアナに姿を見られないよう踊り場の陰で待っていて貰って、そこからは私一人で玄関ホールへと降りて行った。


 新入生達は今ごろ各自の部屋で荷ほどきをしている頃で、おあつらえ向きなことに寮内を出歩くご令嬢は一人もいない。

 そのせいで、一人遅れてきたレアナはどうしていいのか分からないみたいで、手荷物を抱えたまま困ったようにキョロキョロとしていた。


 その姿がなんだか可愛くて、ちょっと庇護欲をそそるわ。

 そういうところも、ヒロイン補正なのかしらね。


 深く息を吸ってお腹に力を溜めると、熱で怠い身体を気力で叱咤して、背筋を伸ばし、表情を改め、凛とした悪役令嬢、エヴァノーラ・ストックドーンらしく歩みを進めながらレアナに近づいていく。


「さあ、いよいよヒロインと初対決……ヒロインと悪役令嬢の出会いイベントを始めましょうか」


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