*10 落涙の後に胸に刻んだ決意

「それが貴女の望みであることはよくわかった。ただし、それが叶えられることは万に一つでもあると思いあがらないことだ。俺は、欲しいものを手に入れるためなら、手段を選ばないのだからね」


 晩酌の終わりにゴウホウに告げられた言葉を反芻しながら、サチナは寝台の上で膝を抱えてうずくまっていた。

 天幕を巡らされた二畳ほどの拾い寝台にはやわらかな綿入りの絹の布団が敷き詰められているが、サチナはそれに潜り込んで休む気にはなれなかった。

 ただの呑気な商人のせがれだと思っていた彼は、彼女をここに閉じ込めると決めた時よりもいっそうあくどい顔だった。

 あくどい、などという可愛げのあるものではない。明らかにあれは性根の曲がった人間の顔つきだとサチナは思い返し身震いする。


(――あたしこのままここで、捕まえられた蝶のように飼い殺されるのかしら……)


 村を想い、村人を想い、中でも家族を想って行動をとってきたつもりだった。グドから任された月桂油の仕事を懸命にこなし、少しでも益を上げて村を豊かにしていきたいだけだった。

 それなのに、なぜ、こんなところに囚われなくてはならないんだろうか。

 月桂油の取引の値を人質のように取って、自分との婚姻を迫ってくるようなゴウホウに正面から拒絶を示すことはサチナにとって当然の権利であると思っていたのに、相手はそれを良しとはしない。

 こちらの良識における話が通じる相手じゃない――それを、先ほどの会話で思い知らされたサチナは、悔しさで視界をにじませる。

 自分が若い娘だからこんな目に遭うのだろうか?

 小さいとは言え長の家に生まれついただけなのにお嬢様と扱われるのは致し方ないことなのだろうか?

 そしてそのどれも、彼女にはあらがえない宿命の足かせとなって逃れられないだろうか?

 ふつふつと湧いて出る理不尽な仕打ちに、サチナの頬は涙で濡れる。


「大人しいだけの娘さんでないとわかり、安心しました。人が好いだけでは商売はできませんからね。それだけです」


 ふと、暗がりに自分の涙を受けて微かに光る紫の影が目に入り、そんな声が頭の中に響く。

 紫の涼やかな目許の長身の役人の姿がまぶたに浮かび、サチナは右薬指に嵌められている指輪をそっと握りしめた。


「何か身に危険が迫った時、この指輪を握って私を呼んで下さい。必ず、助けに参りましょう」


 石の滑らかな表面を指先で撫でながら浮かんだ言葉に、サチナは濡れた目を閉じてその名を小さく呟く。

 まるで、小さなまじないの文言のように、丁寧にそっと紡いだ。


「――ザング様、ザング様……どうかお助け下さい……」


 唱えた名前は、暗がりの寝台の天幕の内側で闇に紛れて消えていくだけで、特段何の変化もない。

 ザングは指輪にフリトと共に呪いを施したと言っていたが、なにか指輪から光が放たれるわけでも、不思議な魔獣が現れるわけでもなさそうだった。

 所詮はお守り代わりの呪いで、強い攻撃の術が授けられたわけではないのだろう。

 必ず助けに行くと言っていた彼の言葉にすがるような思いがわずかながらにあったのか、サチナは沈黙したままの指先の紫色の意思を眺めて溜め息をついた。

 しかし、先ほどまで泣き濡れて沈み込むばかりだった気持ちは、わずかながら上向きになっているように感じられる。


「――泣いているばかりじゃ何も始まらないわ。考えないと」


 声に出して上向いた心に浮かんだ言葉を口にすると、気持ちはさらに上向く。

 濡れていた頬と目許を乱暴に寝巻の袍の袖口で拭い、サチナはひとまず布団に潜り込んで目を閉じる。

 目を閉じて身体を休めながらも、その頭の中は忙しなく彼女のこれからに思いを巡らせていた。

 しかし同時にまたこれからの身の置き所に対する不安が足許から迫ってくるのを感じ、サチナは慌てて頭を振って打ち消す。

 大丈夫、きっと出来る――自らに言い聞かせるように胸の中で呟きながら、やがてサチナは眠りの中に落ちていった。

 彼女の手許で、小さく励ますように指輪の石がわずかな光を放ってすぐに消えたのだが、眠りの中の彼女は気付いていない。



 翌日、サチナは朝餉あさげを取りながら彼女の身の回りを世話してくれる侍女たちの様子を観察するようになった。

 サチナ付きの侍女は昨日夕方に明かりを灯してお茶を淹れてくれたユイハの他に二人いる。ユイハはサチナと歳が近く、他二人は三十代から四十代ごろと見ている。


「おはようございます、お嬢様。昨夜はよく眠れましたか? 大変でしたね」

「うん……まあね」


 昨日のゴウホウとの言い争いを知っているのか、ユイハは眠たげな目をしているサチナを心配そうに覗い、「そうだ、お目覚めに甘いお茶を用意しましょうか」と、微笑んでお茶の支度に取り掛かり始める。

 ユイハとは歳が近いせいか、気が合うのか、食事の支度の合間に世間話を交わすくらいの仲だ。

 しかも、何故か他の二人に比べてゴウホウのサチナへの執心ぶりに、サチナに同情的な言葉をかけてくれることもあるのだ。

 ユイハぐらいの年頃の娘なら、ゴウホウのような若い好青年に言い寄られることは悪い話ではないといいそうなものなのに、と、サチナは自分の状況を棚に上げて不思議に思っていた。

 用意されたのは茉莉花の華やかな香りのするあたたかい甘いお茶だった。


「ありがとう、とても美味しい」

「それはよかった。甘いものは元気が出るといいますからね」

「そうね。……ねえ、ユイハ」

「はい?」

「どうして、あなたはあたしがゴウホウ様の態度に困惑していることを他の人みたいに嘆いたりし呆れたりしないの? だって、あなたの主人に当たる方なのに、まるで嫌っているような……」

「いやだわ、お嬢様。あたしはゴウホウ様を嫌ってなんかいませんよ。あんなに良い方なのに」


 サチナの言葉にユイハがおかしそうに笑うので、サチナは取り繕うように、「そうよね、ごめんなさい」と、言ったのだが、ユイハはわずかに困ったような顔をして首を振った。

 その仕草の意味を問うようにサチナが首を傾げると、ユイハは、「嫌ってはいませんが、好きではないですね」と、苦笑したのだ。

 意外な言葉が返ってきてサチナが目を丸くしていると、ユイハは辺りを見渡して、「ここだけの話にしてくださいね」と、声を潜めてこう続けた。


「あたし、ゴウホウ様は商いをされている方としてはすごいんだと思います、よくは知らないですけれど、いつも大きなお仕事されてるみたいですし。でも……なんて言うのか、人として向かい合うにはちょっと難がある方だなとは思うんですよね……」

「難がある?」

「ええ。ゴウホウ様は、商いだけでなく、お勉強も優秀ですし、剣術などの体術の腕も素晴らしいとお聞きした事あります。商いをされているのでお話も上手ですしね。ただ、あまりに色んな事が上手にお出来になるので、自分以外は大したことのないものだと思っていらっしゃる気がするんです」

「自分以外は……」


 ユイハの言葉に、サチナはなんとなく思い当たる節があった。

 ゴウホウは商売人として成功している方ではあるようだが、本人が豪語している通り、その手段は選ばない主義のようだ。

 その考えは自分自身にみなぎる自信から来ているのだろうが、それが少々ゴウホウに傲慢とも言える態度を取らせているのだ。

 成功体験も相まってか、自分の考えや取る手段に間違いはなく、この世の中心は自分だと言わんばかりの振る舞いをしているようだともユイハは言うのだ。だから、ユイハは彼があまり好きではないという。


「べつに、あたし達を殴ったりひどい仕打ちをなさるわけではないんですけれど……時々、あたし達を見る目が、まるでお店に並べる野菜や乾物を品定めするみたいな眼で、あたしは苦手なんです」

「……わかる気がする。あの方って、にこにこされているけれど、本当に心から笑っているようには思えないのよね」

「そうなんですよね。そして、気に入ると何がなんでも手に入れようとなさる。それが商いをされている方というものなんでしょうけれど……お相手の気持ちを考えると、ちょっと気の毒だなって思えてしまうんです。だから、あたしはご執心されているお嬢様がお気の毒に思えてしまって」

「まあ、そんな……」

「お嬢様は、あたし達みたいな者にも丁寧でやさしいお言葉をかけてくださいますもの。こんなおやさしい方があの方に独り占めされるなんて、もったいないですもの」


 内緒ですよ、とユイハは苦笑いして口許に人差し指を当て、サチナもまたそれに倣うような仕草をして微笑んだ。

 それから朝餉の支度を整え、サチナが箸を取りながら、ユイハの言葉を反芻していた。

 闊達で人当たり良く好青年と評判のゴウホウだが、身内とも言える従者の中にでさえその性分に難があると思っている者もいるようだ。人が万人に好かれることは不可能であるということであろう。

 だとすれば、これはひとつ利用しない手はないのかもしれない、と、サチナは考える。


(ちょっと賭け事みたいになってしまうかもしれないけれど、これは有効な手段になるわ……)


 自分の命運のかかった博打を打つ羽目になるかもしれないと思いつつも、彼女はそれに怯むつもりはなかった。

 博打のような手段に打ち勝つためには、入念な準備をしなくてはならない。そのための策を、サチナは朝の陽射しの降り注ぐ部屋の中で決意するのだった。



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