*3 兄の想いを汲まないことを矜持としてしまうことは

「ザングが水も滴るいい男だったんだって? 見たかったなぁ」


 夕餉の時間、屋敷の広間にグドをはじめ長の一族――母イチナ、末妹のアズナ、そしてグドの右腕であるフリト――が揃った時、客人であるはずのザングが自分たちと同じような服装をしていることに気づいたグドに問われたのをきっかけに、今日の昼の惨事を話す羽目になった。

 話したのは夕餉の支度を整えているウーマで、手際よく食膳を整えながらまだあの時の様子を思い出して憤慨しているのか、「ほんっとにもう、いくつになっても!」と、三回も口にしたほどだ。


「グド様、笑い事じゃありませんよ! ザング様は関文署の長官様なんですから、何かあったら大変なんですからね!」

「いえいえ、大事には至ってませんし、私は単なる役人風情ですから」

「そうは言いましてもね、ザング様……」

「私に免じて、お許しいただけませんか」


 苦笑気味にザングに言われ、ウーマは渋々と言った様子で了承し、「せめてお怒りになる前に、深呼吸なさいまし、サチナ様」と、サチナに言い残して広間を出て行った。

 サチナは伐の悪そうな顔を上げ、もう一度改めてザングに、「申し訳ありませんでした」と頭を下げた。

 ザングはもう一度、大事ないから、と言い、それから夕餉が穏やかに始まる。

 長であるグドを上座に、その隣に客人であるザングが座り、グドの右前にフリトが座っている。イチナやサチナたちは更に少し手前に並んで座る形だ。

 アズナは昔不慮の事故で片方の手をなくしているため、介添えにヨンヒという侍女がついている。


「サチ姉、ザング様を水に投げ飛ばしたの?」


 夕餉が終盤に差し掛かった頃、思い出したようにアズナが不意にそう問うてきて、サチナは食後のお茶にむせてしまった。

 「投げ飛ばしてなんていないわよ!」と、言い返そうにも、突き飛ばしてしまった事実は変わりないので答えに詰まっていると、「私が余計なことを言ったのでお仕置きをされたのです」と、ザングが代わりに答えたのだ。

 アズナは、それがザングの冗談だとわかっているのか、くすくすと笑っていたが、サチナはザングのあの時の言葉を思い出して溜め息をつくのだった。

 月桂樹の花が咲く頃、自分はどこにいるのだろうか。まさか、本当にあの豪商の息子の許に嫁ぐなんてことになっていたりなんて――


「サチナ? どうした?」


 空になった湯呑を手に俯いてあの手紙のことを考えていると、ふと、フリトに声をかけられた。

 フリトは右目が柘榴石ざくろいしのように赤く、その目の色は闇の精霊の血をひく証だと言う。そのせいか、彼は何かすべてを見通しているような気配をまとっているようにサチナはいつも思っている。


「べつに、なにも……」


 サチナは取り繕うように微笑み返し、ヨンヒに茶のお代わりを申し出る。

 お代わりにもらった茶を飲みながら、サチナはフリトがグドに眼差しだけで何かを伝えているのを見ていた。やはり、彼には見透かされているな、と思いながら。



 夕餉が済んでアズナとイチナが自室に引き上げてしまい、サチナも立ち上がろうとすると、グドが呼び止めた。


「サチナ、ちょっといい?」


 兄のグドは穏やかな碧い目でサチナを見つめているが、その奥には何かを問うようなものを秘めているのがわかる。

 まだ客人であるザングもいる中での声掛けに戸惑いつつも、サチナは広間にとどまった。


「何かお話?」


 広間にグドとサチナとフリトとザングだけになり、短い沈黙を破るように口を開いたのはサチナだった。

 グドがあえてサチナだけを呼び留めたのは、きっとアズナやイチナには聞かせたくない話題を登らせるのだろうと勘づいていたからだ。

 あえて明るい口調で切り出したが、グドもまたいつもの人の好い笑みを崩さずに、「今日もまたあの男が来たんだってね」と、簡潔に答えてきた。

 あの男とは、昼間少しこちらに立ち寄ったゴウホウのことだろう。サチナの許にたびたび取引に関係なく現れ、応対にも苦慮しているのをグドも知っているからだ。

 サチナは大きく溜め息をつき、袂に押し込んでいた手紙をグドに差し、「ほんの半刻ほどでお帰りになったわよ」と、付け加える。

 グドは手紙を受け取り、「それでもあいつが来たことには変わりないじゃないか」と苦笑し、そして手にしていた手紙を握りつぶす。


「次に乙巳に行くのはいつ?」

「明後日の予定。今季最後の月桂油を卸に行くの」

「それ、俺も行こうか?」


 月桂油の取引に向かうサチナに、フリトが同行すると申出たが、サチナは首を横に振る。

 「大丈夫よ、今度で最後にしようって思っているから」と、サチナは笑んで言うが、さすがのグドもフリトも不安そうに表情を曇らせている。


「そうは言うけど、向こうがあっさり応じるとは限らないよ、サチナ。今日だって勝手に来たんだし」

「でも、だからってフリトにあんちゃのお仕事の手伝いを放り出してまでついてきてもらうわけにはいかないわ」


 フリトは闇の魔術で様々な行事の適正な日取りを決めたり、失せ物を探しだしたりことを得意としているため、まつりごとにおいてグドの右腕となる祐筆役ゆうひつやくとしての職に就いている。

 小さな村とは言え仕事はそれなりに煩雑で、それを放り出してまでフリトが付き添う必要がサチナにはないと思えるのだ。


「そもそも若い娘ひとりなんて危ないんだよ」

「そんなことないわよ。あたし以外にも取引に来ている商家や農家の娘さんはたくさんいるもの」

「だからってサチナが大丈夫だとは限らないんだってば。いつも取引に関係なく来られて迷惑してるんだし」

「あんちゃ、これはあたしの仕事なの。あたしがちゃんと務めを果たさなきゃ意味がないじゃない」


 口調は穏やかでやわらかいが、サチナは頑として次の月桂油の取引には自分が出向くと言って聞かない。フリトの付き添いもいらないという頑なさに、さしものグドも頭を抱えている。

 サチナは昔から責任感が強く、大人しくはあるが賢くて芯がしっかりした娘である。だからこそ彼女に月桂油の生産管理から販売まで任せてきたのだ。

 しかし彼女が例の豪商の息子・ゴウホウの執拗とも言える求愛行動に困惑しているのはグドもフリトも心配をしているので、どうにか引き離す手立てがないか頭を悩ませている。


「そんなに、その者に困らせられているのですか?」


 それまで傍らで話を見聞きしていたザングが事の仔細確認するように問うと、フリトが、簡単にサチナがゴウホウに言い寄られている話をした。

 ゴウホウがサチナに一方的に惚れて求愛しているだけならまだしも、最近では月桂油の値段の交渉にまで口を出すようになってきていて、「婚姻を前提とした交際をしてくれるのなら、月桂油を今までの十倍の値で買い取ろう」などとまで言いだしている始末だ。

 取引の得意先であるから無下にはできないと、なんとか求愛行動にも目を瞑ってきていたが、それも度を越してきているのではないかと言う話なのだ。


「暑苦しい手紙くらいなら全然煩わしくないんだよ。でも、今日みたいに勝手にここに来ることもある。手紙だって毎日のように飛ばされてくるんだ。来た時もすぐに帰るからもてなしはいらないとか言うし、手紙の返事も要らないとは言うようだけど、あの姿を見るだけで胸焼けがしそうだ」


 フリトの歯に衣着せぬ言葉にグドは苦笑しつつも、「まあ、こちらが迷惑こうむっているのは間違いないんだよね」と言って、表情を曇らせる。

 サチナとしては、村に来られるのは応対しなくてはならないので少々困ってはいるが、兄たちが言うほどにゴウホウの求愛行動を気にしてはいない。

 だが、それが月桂油の取引に影響することの方が気がかりなのだ。

 村の月桂油はようやく最近軌道に乗り始めた産業だ。それを自分の私情を巻き込んで崩すわけにはいかないと思っているのもサチナにはあるからだ。

 サチナがグドとフリトをそう説得するも、彼女の身を案じる兄たちは次の取引に彼女が向かうことを良しとしてくれない。

 サチナと違ったところで頑なであるグド達の態度に、サチナは呆れてこう言う。


「あんちゃはあたしを信じてくれているから、あたしにこの仕事を任せてくれたんじゃないの?」

「そりゃあ、サチナのことは信じているよ。でも、それとこれとは話が違う。月桂油の利益よりも、サチナの身の安全の方が俺は大事だ。たとえ何かの引き換えにされても、俺はサチナを選ぶ」

「村の長としてその考えはどうかと思うわよ、あんちゃ」

「でもねぇ、サチナ……」


 村の長であると同時に、グドはサチナの兄である。父を早くに亡くし、父親代わりだった祖父もない今、彼女を守ってやれるのは自分しかいないと思っているのだろう。

 しかしそれはかえって彼女の成人としての矜持を傷つけかねず、グドは頭を抱えているようだ。


(――あんちゃの気持ちは有難いけれど、あたしだっていつまでも誰かに手助けされてばかりじゃいられないもの……)


 夕闇の迫る広間に再び沈黙が訪れ、蝋の灯りがちりちりと燃える音が静かに響いていた。



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