夕焼け閑談

苺伊千衛

夕焼け閑談

「それでおじさん、あたしを家に連れ込んだ目的は何?」


 夕方のワンルームの一角。ベッドに寝っ転がったあたしは、すぐそばの座椅子にだらしなくもたれかかっている誘拐犯に聞いた。


「目的なんかねえよ。こんなガキに」


 かっこいいけど、どこかくたびれた印象のある誘拐犯は、無精髭を無意識に撫でながらそう言う。そして、涼やかな切れ長の一重で、あたしを流し目に見た。


 どうも馬鹿にされてる気がする。


「ガキじゃないもん。もう十二歳だよ」


「十二歳は立派なガキだろ」


 いいから寝ちまえ、と男はベッドに横たわったあたしの頭をくしゃっとかき混ぜた。




 夕焼けは綺麗で、死にたくなる。


 家に帰るの、やだなーと思いながらぶらぶら街を歩いて、もうそんなに仲良くなくなっちゃった友達のマンションに無理矢理押し入って、でも結局会う勇気が出なくて、その子の901号室の前でぼーっと突っ立ってた。


 そのうち、門限を過ぎて、多分今帰ったらママにいっぱい叱られるなーと思った。それは嫌だったのと、マンションの一番上の階から見える夕焼け空の橙色が、とても悲しげで、綺麗だったから。手すりから身を乗り出すと、ひゅうと風が吹いた。肌寒くて、もう秋なんだな、と感じた。そしてふと、ここから飛び降りたらどうなるんだろう、と、手すりに手のひらを置いたまんま、腕に力を込めて、足をぐーっと浮かせてみた。


 そしたら、すぐ後ろのエレベーターから、この男が出てきたのだ。


「お前、死のうとしてんの?」

 背後から声をかけられて、少しびっくりしたけど、あたしは、

「うん」

 とあっさり答えた。


 すると、この男は雑にあたしを抱えて、部屋……友達の隣のまた隣の903号室に連れ込んで、「とにかく今は寝ろ」とだけ言ってベッドに放り投げたのだった。


 つまりこれは立派な誘拐で、あたしはこの先何をされるかわからない、危険な状況に置かれているはずだ。


 でも、件の誘拐犯はあたしなんて見向きもせず、ずっと手首にぶら下げてたファミマのレジ袋から缶の発泡酒を取り出し、「酒だ酒だぁ」なんて言いながら嬉々としてプルタブを開けている。よくよく顔を見てみると三十代前半ぐらいなのに、仕草とか口調とか無精髭とかよれよれの開襟シャツとかのせいで、どうしてもパパと同じくらいの歳(だいたい四十代ぐらい?)に見える。だからあたしはこの人をおじさんと呼ぶことにしたのだ。


「ねえおじさん。本当に何も目的ないの? 身代金とか」

「身代金? お前んち、金持ちなの?」

「中学受験なんてさせようとしてるんだから、そこそこにお金はあるんじゃない?」

「中学受験……お前、受験生か。大変なこった」

 男は発泡酒をぐいっと呷った。

「それ、おいしい?」

「さあな。飲んでみるか?」


 缶をこちらに差し出してくる。飲み口からは、嗅ぎなれないアルコールの匂いがした。うちはパパもママもお酒を飲まない。


 珍しさから黙ったままじっと缶のラベルを見つめていると、男はハハッと乾いた笑い声をあげて、

「冗談だよ。ガキが飲んだら吐いちまうぞ、こんな安物」

 そう言って、缶の残りを自分で飲み干した。


 ふと窓の外を見ると、さっきまで橙色だった空が少しずつ夜の色に移り変わろうとしている。空の色は相変わらず悲しく美しいけど、カーテンレールにかかっている、染み付きの白いタンクトップのせいで、今度はあんまり感傷に浸らずに済んだ。


 男はローテーブルの上に置いた二本目の缶に手を伸ばそうとして、やめた。そして、あたしの方に身体をねじる。


「とにかく、寝ちまえよ。寝たら大抵のことはすっきりするぞ」

「無理だよ。だってあたし、ちゃんと八時間寝てるもん。寝てたって、毎日起きると、ああ一日が始まっちゃうなあ、嫌だなあって思うだけ」

「ばっかお前、睡眠って時間だけじゃないぞ。質も大事なんだから質も。どうせお前、親に言われた時間に寝て、親の決めた時間に起きてんだろ」

「なんでわかるの」

「お、当たりか。そんな気、したんだよ」


 男は顔をくしゃっとさせて笑った。目尻にできた皺がやけに無邪気で、ちょっとドキッとしてしまったのが悔しい。


「ガキってなにしろ逃げ場がないよな。疲れたっつって保健室に行ったところで、他にも保健室使いたい人がいるからって、すぐ帰されちまうんだろ。家に帰ったところで当然休まらない。そこで、ちょっと気が狂ったふりをしてホンモノの病院に入れられたら地獄の始まり。だから学校をサボるとか、そういう手段しかなくなる。それもお前みたいなガキにゃ難しいか。どこにも居場所がないんだよな、結局」


「よくわかってるじゃない」


「わかってなんかねーよ。当てずっぽうに言ってみただけだ」


 適当な言い草に呆れて、でも少し楽になった。


「……ね。ここをあたしの居場所にしても、いい?」

「許可なんていらない。お前が居場所だって思ったら、こんな小汚いワンルームだって居場所になるんだろうよ」

 小汚いワンルーム。確かにあちこちによれよれの洗濯物が散乱していたり、キッチンに空の缶が置きっぱなしになっていたり、うちでは絶対に見ないような光景だ。

 だけど、だからこそ、心地よかった。


「あたしね、頑張るのがイヤになっちゃったの。でも、頑張れない自分はもっとイヤ」


 聞こえるような聞こえないような声で呟くと、聞こえていたようで、

「おお、俺と同じじゃねえか」

 男は喉の奥でククッと笑った。


「俺もそれでどうしようもなくなって、会社やめちった」

「ふーん。後悔してる?」

「してない。俺はなんだかんだで自分の人生に後悔なんて微塵もないね」

「それは幸せね。あたしは後悔ばっかり」

「そんじゃ良いこと教えてやる。後悔なんてな、今の段階でするもんじゃない。失敗だったなって思うことだって、いずれなんだかんだで良い思い出だったって言えるかもしれないからな。だからな、本当の後悔って言うのは、死んでからすりゃいいんだよ」

「死んだら何も考えることなんてできないじゃない。消えてなくなっちゃうんだから」


 あたしが言うと、男はニィっと口角を吊り上げて、心底おかしそうにこう言った。


「それは違うなあ。だって俺は今こうしてここにいるじゃないか」


 一瞬、何を言っているのか理解できなかった。


 まさか、と思って口を開こうとしたら、男は畳み掛けるように、


「俺が、会社やめたあと、どうにもならなくて結局自分で命を絶っちまって、それでも成仏できずにここらへんでブラブラし続けてるって言ったら? そんで、自殺しようとしてる人間を見ると、ほっとけないんだって言ったら?」


 そうやって、悪戯な笑みを浮かべている。


 普通だったら、信じない。でもこの人は普通じゃない。だから、あり得ないはずなのに、本当のような気もしてくる。


 お酒を差し出してきたときみたいに、「冗談だよ」って笑い出すのを待った。だけど、待てど暮せど男はモナリザみたいな意味深な微笑みを浮かべ続けるだけだ。


 夕焼けが真っ赤に燃えている。世界が色を奪われて、代わりに夕焼けの色を塗り重ねられる。みんな同じような色になるから、それ故にそれぞれの本質が浮かび上がる。


 夕焼けの色に染まった男は、この世とあの世のあわいにいた。


 きっと困り果ててるあたしに、男は笑ったまま、


「言っとくけど、こっちから正解を与えることはない。お前には、世界を好きに意味付けする権利があるんだからな」


 あたしは迷った。


 迷って、迷って、そしてとびきりの名案を思いついた。


「……あなたが生きてようと死んでようと、あたしには関係ないわ。だって、どっちにしても、あたしはあなたのこと、好きだもん」


 そう言って、表情が見えないように枕に顔を埋める。はぁ、というため息が聞こえたような気がした。


「こりゃとんだマセガキだな。それとも、好きってのはただのライクか?」


「ふふっ。あなたには世界を好きに意味付けする権利がある、でしょ?」


 すると、男は「あっははははははっ」と偽りなしに愉快そうに笑った。久しぶりに聞いた、大人の、本物の笑い声だった。


 その笑い声を聞きながら、目を閉じる。枕は陽の匂いがして、暖かかった。


 今日は多分、よく眠れる。

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夕焼け閑談 苺伊千衛 @moyorinomogiri

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