第8話 知ってしまった幸福感



「リア、おはよう」


「う、うん……おはよ」


 教室に入るなり輝かしい笑顔の秋斗あきとに、私はぎこちなく挨拶をして席に着く。


 先週、病気のお見舞いで秋斗にお粥を作ってあげたら、そのお礼にとキスされた。


 それ以来、秋斗のことを変に意識するようになった私だけど、秋斗のほうはなんとも思っていないらしく、隣の席で平然としていた。

 

 ダメダメ、私は今度こそ平凡な恋をするんだから、あんなデコキスくらいで揺れてちゃ──。


 私が頭を振って雑念を消していると、秋斗が不思議そうに首を傾げる。 


「どうしたの? リア。さっきから難しい顔して」


「えっと……今回のテストの出来がいまいちだったから……心配になって。ほら、もう来年は受験生だし?」


「そうなんだ? でもB大学なら今の成績で問題なくない?」


「……前から気になってたんだけど、なんで私の成績知ってるの?」


「なんでだろう」


 笑顔ではぐらかす秋斗に、ちょっとだけムッとしていたら、担任が教室に入ってくる。


「おはようございます。今からテストの返却を行いますので、呼ばれたら取りに来てくださいね」


 騒がしくなる教室で、南人みなと兄さんは楽しそうだった。


「にい──小金こがね先生、採点早すぎない? 英語のテストって昨日だったよね?」 


 私が小声で指摘すると、秋斗は苦笑する。


 兄さんは声高に告げる。


「それではまず百点の相智あいちくん、来てください」


「……先生、自己採点では九十八点でしたが、答案に何もしてませんよね?」


 答案を取りに行った秋斗が微笑みかけると、先生はゾっとした顔で首を振った。


「間違えました。百マイナス二点です」


「本当に……頼みますよ先生。教育者としてあるまじき行為は慎んでください」


「私ほど教育者に向いている人間はいないと思いますが。とくに保健体育は……」


「英語の先生ですよね?」 


「そんなことより、クラスで一位の相智くんには、特別に映画のペアチケットをさしあげましょう」


「……どうも」


 秋斗は先生から答案用紙と一緒に紙切れを受け取って戻ってくる。


 最初は難しい顔で紙切れを眺めていた秋斗だけど、帰ってきた頃にはいつもの笑顔に戻っていた。


「先生から映画のペアチケットもらったから、一緒に行かない? リア」


「ええ? 先生のお給料で映画のチケットなんて配って大丈夫なの?」 


「大丈夫だよリア、あの人の主な収入源は仮想通貨と株だから」


「え? 株? 仮想通貨って何?」


「ごめん、聞かなかったことにして。それより、映画の話だけど」


「なんの映画? ホラー以外なら大丈夫だよ」


「映画は選べるみたいだから、休み時間にまた聞くね」


「うん」




 ***




 南人兄さんから貰ったチケットで、映画に行くことになった私と秋斗は、学校以外で初めて待ち合わせをした。


「ちょっと早く来すぎちゃったかな」 

 

 おろしたてのワンピースを着るなんて、はりきりすぎだろうか。


 上からポンチョコートも羽織っているけど、制服ブレザー以外で会うのはドキドキだった。

 

 少しだけ緊張しながら、映画のポスターが並ぶロビーに立っていると──そのうち、秋斗が走ってやってくる。同じく私服の秋斗は、前を開けたコートから優しい黄色のセーターとジーンズがのぞいていた。


「お待たせ……遅くなってごめん」


「大丈夫だよ。私も今来たところだから」


 というのは嘘で、本当は十分ほど待った私。


 いつも時間にはきっちりしている秋斗にしては、珍しい遅刻だった。


 けど、私の嘘に気づいたのだろう。秋斗は私の手を掴むなり、怪訝な顔をする。 


「手、冷たいね。本当は何分待ったの?」


「……五分くらいかな」


「本当にごめん。父さんと母さんがリアに会いたがって大変だったんだ」


「秋斗のお父さんとお母さん? なんで?」


「……なんでだろうね……それより、映画だけど。リアはアクションものがいいんだよね?」


「本当に私が決めていいのかな? チケットもらったのは秋斗だし、秋斗が見たい映画でいいよ?」


「僕はわりと雑食だから、なんでも見るよ」


「じゃあ、このカンフー映画で」 

 

 私が壁のポスターを指さすと、秋斗はニッと口の端をあげる。


「わかった。まだ時間あるし、飲み物買ってくるね」


「映画のチケットもらったし、それは私が買うよ!」


「遅刻したからおごらせて? 十分以上も待たせちゃったし」


「……わかった」


 またお詫びにキスされたら困るし、私は秋斗の申し出を素直に受け入れた。




 ***




 リアを先に劇場内に行かせて、売店に並んだ秋斗は、どうしても緩んでしまう口元を手で隠した。


 秋斗を待つ間、リアは始終落ち着きのない様子で、まるで恋人を待っているかのようだった。


 私服も頑張って選んだのだろう。何度も自分の姿をチェックしているのが、たまらなく可愛かった。


「まさか、おごる口実のために遅刻したなんて言えないけど」


 本当は早くから待っていた秋斗だが、何を買ってもリアが遠慮しそうなので、わざと遅刻したふりをした。


 待たせるのは申し訳ない気持ちにもなったが、それでも待たせている間、リアを観察する時間も幸せだった。


 そんなこんなで今に至るわけだが、売店でようやく順番が回ってきたかと思えば──


「いらっしゃいませ」


「すみません、コーラを二つ……オイ、なんでいるんだ」


 赤いシャツを着た店員を見るなり、秋斗の笑顔が凍りつく。


 深い緑の髪に切れ上がった三白眼。どう見ても、リアのいとこだった。


「カンフー映画と恋愛映画のすり替えでよろしいですか?」


「余計なことをしたら通報します。コーラ二つで」


「いくら暗闇だからといって、人前ではほどほどにしてくださいね」


「通報されるのは僕じゃなくて、小金先生のことを言ってるんです」


「人違いです」


「とにかくコーラ二つでお願いします」


「わかりました、恋愛映――」


「余計なことしたら、教師に戻れなくしますよ」


「コーラ二つですね」

 

 店員は無表情で、コーラをカウンターに用意した。




 ***




「お待たせ」


「遅かったね。そんなに混んでた?」


「そうだね」 


 すでに薄暗い劇場内で、隣に座った秋斗あきとがコーラを差し出した。


 なんだか疲れた顔をしていたけど、私と目が合うなり秋斗は可愛い笑みを浮かべる。

 

 それから始まったカンフー映画は、期待以上に楽しかった。


 恋敵に捕まった大切な人を救いだすため、マフィア相手に戦う主人公がまっすぐで、見ていて清々しいものがあった。

 

 ……けど、やっぱりラブシーンは苦手かも。


 主人公が奪還した恋人とのキスシーンで、私は思わず下を向いた。


 ただでさえ照れくさいのに、秋斗が一緒だと余計に恥ずかしくなった。


 長いようで短いラブシーンの中、なんとなく隣を盗み見ると、秋斗は無表情で映画を見ていた。


 ……もしかして、つまらないのかな?


「リア、どうかした?」


 私が盗み見ていることに気づいた秋斗が訊ねてくる。そのいつもの様子にほっとしていると、秋斗は暗がりで意味深な笑みを浮かべた。




 帰りはいつものように秋斗が送ってくれた。


 人気のない住宅街で、道路照明灯でんとうが夜空を煌々こうこうと照らしている。


 映画の後ショッピングモールも回ったので、すっかり遅くなっていた。


「今日の映画、面白かったね」


 時間が経っても興奮冷めやらない私とは対照的に静かな秋斗。


 思わず顔色をうかがうと、秋斗は穏やかな笑みで頷いた。


「うん、意外と良かった」


「とくに最後、彼女が主人公じゃなくてパンダを選んだところが良かった」


「そこはちょっと僕には理解できなかったけど……全体的に楽しめたよ」


「アクション俳優さん、カッコ良かったなぁ」


「リアはああいうガタイの良い人が好きなの?」


「映画の主人公は、強い人がいいな。でも現実では怖い感じがするから、中性的な人が好きかな」


 私は口を押さえる。


 友達だけど、私を好きだと言う人に私の好みを伝えるのってどうなんだろう。


 中性的な人が好きだなんて……これじゃあ、まるで秋斗みたいな人が好きって言っているみたいだし。


「そっか」


 けど、秋斗は意外とそっけない反応で、いつもの笑顔が変わることはなかった。


 それはまるで笑顔の仮面のようで、その笑顔の下で何を思っているのか、少しだけ気になってしまった。


「今日はありがとう。今日だけじゃないけど」


「僕もタダでもらったチケットだよ」


「でも、先生は優秀な秋斗に渡したから」


「優秀とかやめて」


「え?」


「お願いだから、僕との間に壁を作らないで」


 秋斗はそう言って立ち止まると、突然私を抱きしめる。


 優しいけど、前回よりも少しだけ熱のこもったハグに動揺していると、秋斗は抱きしめる腕に力を込めた。


「……ごめん。僕のことが怖い?」


「そんなことないよ。秋斗が優しいことは知ってるから」


「でもリアは、優しくてカッコいい主人公より、最後はパンダがいいんでしょ?」


「映画の話? そうだね……パーフェクトな人より、パンダくらいがしっくりくるよ」


「僕もパンダになれたらいいのに」


「映画の話だよ」


「でもリアは……」


「秋斗?」


 気づくと秋斗は泣いていた。


「あ、秋斗、どうしたの?」


「僕はリアのことが好きだけど、この先ずっと僕が眼中に入ることすらないんだね」


 ぽろぽろと涙をこぼす秋斗を見ていると、映画の時よりもずっと胸が痛くなって、なんだか罪悪感を覚えた。


「そんなことないよ」


 秋斗に対する気持ちはよくわからないけど、好きじゃないわけでもなくて──それ以上は言えなかった。


 友達でいいって言った秋斗に、甘えすぎたのかな?


 秋斗は私を友達として大事にしてくれているけど、それって秋斗にとっては苦痛なのかもしれない。好きな人と一緒にいるって、そういうことだよね。


 過去の私も、王子様と一緒にいて切ない時があったことを思い出す。


 手が届くほど近くにいるのに、気持ちが伝えられないのは、私も嫌だと思うし──でも私は平凡な恋愛がしたいわけで……。


 なんてごちゃごちゃ考えていると、ふいに秋斗が離れて私の両頰を手のひらで包んだ。


 そして──


「お願い、一度だけ許して」


「え?」


 ふわりと柔らかい唇を重ねられて、私はこれ以上ないほど大きく見開いた。


 いつもなら、反射的に突き飛ばしそうなものだけど、その日の私はどうしてか秋斗を突き放すことができなくて。


 しかも間近で私の好きな甘い香りがして思わず脱力してしまった。


 触れるだけのキスに、目を閉じて身を任せていると、秋斗はゆっくりと唇を離した。


「……気持ちを押し付けないって言ったのに、ごめん」


 秋斗は動揺したように瞳を揺らす。


「映画に感化されたみたいだ」


「……わ、私も」


 きっとそうだ。映画を見たせい。この体で初めてのキスだったけど、こんなにも幸せで満たされるなんて信じられなかった。


 そして秋斗は二度目のハグをするけど、私は「今回だけ」と呟きながら、抵抗することなく幸せに浸った。

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