After Z
鍵崎佐吉
パンデミック
それは突然のことだった。いつもと変わらぬ月曜日、やや憂鬱な気分で仕事の段取りを考えながら愛車で会社へ向かっている最中、歩道に人だかりができているのを見かけた。いったいなんだろう、もしかして人でも倒れたんだろうか、などと考えながら通り過ぎようとしたその瞬間、街路樹の影から車道に向かってスーツ姿の男が一人飛び出してきた。ハンドルを切る間もなく鈍い音と共に男の体はボンネットに乗り上げ、フロントガラスに跳ね返ってそのまま車道の脇へ転がっていった。
一瞬の思考停止の後に凄まじい絶望が全身を押し潰す。故意ではなかったとはいえ人をはねてしまったのだ。もし彼が死んでしまえば取り返しのつかないことになる。俺は慌てて車を降りアスファルトの上にうずくまっている男に駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
俺が呼びかけると男の肩がぴくりと震えて低いうめき声を返す。どうやらまだ息はあるようだ。俺は急いでスマホを取り出し救急車を呼ぼうとする。しかし指先が震えてうまく番号を押せない。後悔と焦燥の中でふと家族の顔が脳裏をよぎった。
その時だった。男が急に起き上がったかと思うと俺のネクタイを掴んで引き寄せ首元に顔を埋める。ぞくりと全身に悪寒が走る。男の体からはまったく体温が感じられなかった。肉を抉られるような激痛の中で自分が男に噛みつかれているのだと理解するまで数秒を要した。必死にもがいて男を押し返すが不意に目まいを感じて俺はその場に倒れこんでしまう。いったい何が起こっているのか。気が動転していて気が付かなかったが、あちこちから悲鳴や怒号が聞こえてくる。何か得体の知れない危機がすぐそこまで迫っている。
「直美……」
薄れゆく意識の中で浮かび上がったのは今年で十八になった我が子の姿だった。
父親としては可もなく不可もなく、どこにでもいる平凡なお父さんという感じだったと自分では思っている。ただ妻にはよく「お父さんは直美に甘いんだから」と渋い顔をされた。一人っ子はわがままに育つなどと聞くが、それは子どもの問題ではなく親の問題だろう。「大きくなったらパパと結婚する」なんて常套句を聞かされたらもはや両手を上げて降参するほかなかった。
ところが女の子というのは残酷なもので中学に入ったあたりからあからさまに避けられているのがわかった。つい数年前まで俺に抱っこされてはしゃいでいた無邪気なお姫様は、冷酷で気難しい女王様になってしまった。それでいて妻とは二人でお出かけしたりしているのだから、父親というのは本当に損な役回りだ。それでも面と向かって「きもい」とか「うざい」とか言われていないだけマシな方だというのだから恐ろしい。
そんな家庭内氷河期も最近はようやく雪解けの気配を見せていた。地元の国立大学に進学するつもりだと言う直美に私大出身者として「私立でもいいんだぞ」と言ったところ「そういうのいいから」と返されてしまった。それでも一応「ありがとう」と一言付け加える娘に成長を感じるのは親バカというものだろうか。そんなありきたりな日々が俺にとっては何よりもかけがえのないものだったのだ。
体の感覚が酷く曖昧だ。首に負った傷の痛みも遠くから響く悲鳴も、まるで違う世界の出来事のように思える。どうにか立ち上がろうとするが体のバランスがうまく取れない。色々と試行錯誤した結果、両手を前に突き出した前ならえのポーズならどうにか歩けそうだった。ヨタヨタと歩きながら俺は自分の愛車まで戻ってくる。バックミラーにちらりと映った自分の顔はまるで別人のように生気がなかった。そういえば通勤途中だったことを思い出したが、今は会社よりも家族が心配だ。不鮮明な意識の中でも運転の仕方は体が覚えているらしい。俺はそのままUターンして自宅への道をアクセル全開で突っ走った。
過ぎ去っていく景色の中で両手を前に突き出して走り回る異常者と必死の形相でそれから逃げ回る人々が溢れかえっている。とはいえいちいちそんなものにかまっている暇はない。すると今度は前方の車道に土気色の肌をした半裸の女が突っ立っている。クラクションを鳴らしてみたが、あろうことか女はこっちに向かって突っ込んできた。今この瞬間にも妻と娘が危険に晒されているかもしれないのだ。この際異常者や変質者にかける情けはない。俺はアクセルをべた踏みしたまま女と正面衝突する。俺の愛車はその質量と速度にものをいわせてはね飛ばした女をそのまま引き潰した。フロントガラスに飛び散ったどす黒い血液をワイパーで拭いながら俺は考える。あの女だって誰かの娘で、帰りを待つ家族だっていたかもしれない。しかし感傷に浸る間もなくわらわらと異常者どもは湧いてくる。一人やったら二人も三人も同じことだ。俺の愛車は唸りをあげて突き進み、その様はもはや車というより精肉機の方が相応しかっただろう。しかし十人目をはねたあたりで急に動きが止まってしまった。外に出て車体の様子を確認してみると、ホイールと車体の隙間に誰かの足が挟まっていた。家まではあと数百メートルほどだ。俺は愛車を乗り捨ててふらつく足取りで必死に走る。
一軒家を建てるのはなかなか勇気がいる決断だったが、いつか直美が結婚して子どもができた時に帰ってこられる実家があった方がいいだろう、というのが最後の一押しになった。その時はいっそリフォームをして二世帯住宅にしよう、と言ったら妻に笑われてしまったが、俺は結構本気だった。結婚の在り方も変わりつつある昨今ではあるが、それでもやはり嫁が旦那の家に入るのだという考え方は未だ日本社会に根付いている。良い悪いは抜きにして、俺はただずっと直美と一緒に暮らしていたかった。まずは受験に集中しようということで先の話はしていないが、今後の成り行きによっては直美が家を出て一人暮らしを始めるということも大いにあり得る。もしそうなった時、俺は笑って送り出してやることができるだろうか。正直その自信はなかった。
やっとの思いでたどり着いた我が家はなんだか様子がおかしかった。あたりに人の気配はないが、玄関が開きっぱなしになっている。そのままドタドタと倒れこむように家に入ってみると、そこには土足で誰かが入り込んできた足跡と争ったような形跡がある。さらにリビングの窓が開け放たれ、その近くにわずかだが血痕が残っていた。いったいここでなにが起こったというのか、考えれば考えるほど意識は混濁し全身の気怠さは増していく。
その時外から女の悲鳴が聞こえたような気がした。止まりかけていた心臓が息を吹き返すようにドクンと脈打つ。俺は気力を振り絞って声のした方へと駆けていく。すると狭い路地の先、割れた植木鉢やひっくり返った自転車の向こう側に、俺のかけがえのない家族がいた。
妻は手放しで美人だと言えるほど綺麗だったわけではないが、俺は彼女の横顔が好きだった。夫婦になれば俺たちは向き合うのではなく並んで歩いて行くことになる。だからきっとこの人こそが自分に相応しい人なのだと、若かりし日の俺は恥ずかしげもなくそう考えていた。
俺が愛した人のその横顔は一目で正気を失っているとわかるほど醜く変わり果てていた。直美はそんな母の姿を見てただ震えていた。まさに地獄絵図というほかない光景だった。かつて妻だったそれは奇声をあげながら自分の一人娘に飛び掛かろうとしている。その瞬間、理性よりも先に本能が、思考よりも先に体が動いた。
俺は妻の形をしたそいつに殴りかかり、髪を掴んで地面に引きずり倒す。そのまま馬乗りになってそいつの首を絞め上げる。みちみちと肉が潰れるような音がするほどの力で絞めているのに、そいつはまるで怯んだ様子もなく激しく抵抗を続ける。そいつの爪が俺の目や鼻を抉り、赤黒い血がどろりとその顔に零れた。
「お母さん!」
今にも泣き出しそうな直美の叫び声が聞こえた。その瞬間、ふとそいつの動きが止まる。俺は全体重を一点にこめてそいつの喉元に叩きつけた。何かが砕けるような音が聞こえて、指先から伝わってくる感触でそいつの首が折れたのだとわかった。かつて妻だったものは、ようやく妻の亡骸に戻ることができたのだ。耐え難い痛みと虚無感に襲われながらも、これでよかったんだと自分に言い聞かせる。直美さえ無事でいてくれるなら、俺はそれだけで——
強い衝撃と共に世界が揺れる。体の感覚が酷く曖昧だ。気づいたら俺は地面に仰向けに倒れていた。大きな鉢のようなものを手にした直美が俺を見下ろしている。視界は血が滲んでしまってその表情はうまく読み取れない。
直美は母を殺めた者を許せなかったのだろうか。それとも変わり果てた父を哀れんで終わらせようとしてくれたのだろうか。父親というのはいつだって蚊帳の外で、細かい事情なんてわからない。けれどどこかでこれでいいのだと思っている自分もいた。きっともう何もかもが手遅れだったんだろう。
俺はいい父親だっただろうか。直美はうちの子に生まれて幸せだっただろうか。その答えはいつか直美だけが知ることができる。だから他の何を犠牲にしてもいい、お前だけはどうか生き延びてくれ。遠のいていく意識の中で、俺は彼女の幸福を祈った。
After Z 鍵崎佐吉 @gizagiza
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