幕間
第52話
「とーる!」
うみくんの緊張の混じった叫びに理解が及ぶ前に、とん、と突き飛ばされた。僕は歩道もレールもない道路から林の方へ落ちる。
尻もちをついた直後、バンッという音がした何かが固いものに当たった音。
うみくん!?
嫌な予感がして慌てて立ち上がる。上にはうみくんの姿はない。代わりのように赤いものが地面を点々と彩っていた。
僕はそれを追いかける。ウォオン、ウォオンと苛立ったようにアクセルを踏む音がする。もう一度、バンッという音がした。
跳ね上げられたそれは人の形をしていた。見知った男の子──
「うみくん!!」
障害がなくなったとばかりにアクセルを踏み込み去ろうとする音がして、咄嗟にシャッターを切る。撮れたかどうかを確認する余裕もなく保存、地面に打ち付けられたうみくんに駆け寄る。
つー、と細く赤い川が流れる。意識はない。頭から血を流している。制服もぼろぼろで所々破けている。
近くに転がっていた自転車はもう滅茶苦茶だ。タイヤは破け、チェーンが壊れて前輪が外れかかっている。ベルは粉々。かごは見る影もなくひしゃげていた。
辺りの状況を把握することで必死に冷静になろうとした。じゃないと、泣き出してしまいそう。うみくんが、僕のたった一人の親友が……その先の言葉を考えないよう、情報を詰め込んで、行動する。
一一九。
「すみません、今、坂で事故が起きて、人が車に轢かれたんです。救急車をお願いします」
一一〇。
「坂で轢き逃げがあって、はい、その坂です」
それから、それから。
鞄から包帯を取り出す。いつも持ち歩いている真っ白い包帯。どんな怪我でも治ってしまう、不思議な包帯。
これがあれば、いくらリストカットをしたって死なない。僕のように。
「うみくん、生きて。生きてよ……!」
頭の傷に巻きつける。すぐに血が染み込んで、赤く染まる。鮮やかな赤。圧迫しすぎない程度に二重、三重に巻いていく。
あっという間に一巻きがなくなった。呼びのもう一巻きを取り出す。あり得ない方向に曲がった手足に巻く。
うみくんに出会ってからはこの包帯をいつもより多く持ち歩くことにしていたんだ。うみくんは転んでよく怪我をするから。
でも、足りない。
息が苦しそう。保健の授業で習った気道確保とかやってみたけれど、もしかしたら内臓とか肋骨とかも危険な状態かもしれない。そこにも巻かなくちゃ……
幸い、なんでも治る不思議な包帯がどうやって作られるのかを僕は知っていた。
当然だ。この包帯は僕の血からできている。
初めてリストカットをした日──先輩の卒業写真ができた日に、僕は死にたくなった。生きていたくなかった。
だから、カミソリやカッターで手首を傷つけてお湯につけてみたりしたのだ。
意識が朦朧とする中で、何かが腕に巻きついた。それがひとりでに手首を固定し、徐々に遠退いた意識が戻ってくる。
腕を上げてみると、真っ白い包帯が巻かれていた。痛みはすっと消え、傷痕も残らない。
死ぬことが許されないのだと僕は絶望した。夜が来るたび手首を切って、包帯が増えていく。そんな無限の死ねないループ──うみくんに会うまでそう思っていた。
うみくんに出会ったとき、僕は初めて他人に対してその包帯を使った。そしたら、ありがとうなんて言うから。
こんな僕でも、不気味な包帯でも、人のためになるんだなって。
僕は鞄からカッターナイフを取り出し、ぎりぎりと刃を出した。
左手にした赤紫のリストバンドを外す。その下の包帯をほどいて、躊躇いなく切り裂く。
ざっくりと割れた傷口から赤い液体が地面に落ちていく。僕は絶え間なく腕を切りつけた。お湯がないから、動脈までしっかり傷つけないと、血がすぐ止まってしまう。
ふと、うみくんの家族のことを思い出す。お喋りなお姉さん、お茶目なお母さん、無口なお父さん……うみくんの家は近かったはず。電話をしようか。
いや、だめだ。僕がこんなことをしている姿を見たら、絶対に止める。うみくんの家族だもの。きっと優しい。
今はそれは、だめだ。うみくんが死んでしまう。
左手が痛い。切られている手首には感覚はない。けれど神経に触れているのか、小指や薬指の付け根がびくりと反応し、痛む。
危険危険危険。
頭がそんな警報を出す。それでも右手で握りしめた刃を離すことはない。
か、と刃が固いものに当たる。赤い肉の間に僅かながら白いものが見えた。それは何という名前だったかな? でも、そろそろいいだろうと刃を納める。
坂を滑る赤い水溜まりに右手で触れる。ぬらっとした感触の中から不思議なほどさらさらとして真っ白い布が出てくる。よかった。三メートルはある。これなら足りるはず。
傍らに倒れる少年を見た。この子は誰だっけ……? とにかく、うみくんを助けなきゃ……あ、そうか。この子がうみくんか。
うみくんの胸から腰にかけて、ぐるぐると包帯をかけていく。巻き終わり、一安心。
あー、なんだか左手の感覚がない、と見やれば、手首はまだ血溜まりを作っていた。でも包帯はない。
置きっぱなしのリストバンドに気づく。色は赤紫。うみくんから誕生日にもらったんだっけ? うみくんは気が利いている。この色なら血が滲んでも目立たない。本当に優しい、僕の親友。
遠くで、サイレンの音が聞こえる。瞼をいつの間に閉じたんだろう? けれど、瞼の裏が赤くちかちかしている。眩しい。
「通報者はきみかい?」
知らないおじさんの声が聞こえる。
「うみくんは、無事ですか?」
「救急車が今到着した。きみも乗るんだ」
救急車が……うみくんは助かるんだ。
知らないおじさんは質問に答えない僕に気を悪くした様子もなく教えてくれた。親切な人だ。
「うみくんが大丈夫ならよかった」
「……きみが大丈夫じゃなきゃ、美好は喜ばない」
知らないおじさん……と思ったら、うみくんのお父さんの声だ。
「肩を貸そう。立てるか?」
言葉回しがうみくんに似ている。僕は首を横に振った。やはり担架を、と去りかけるその人を呼び止める。
「僕は事故の目撃者です。警察に」
少し考えるとその人はわかった、と僕を担いでパトカーに乗せてくれた。
車の中で一部始終を語る。僕の包帯の話をしたら、疑う様子もなく、相槌を打ってくれた。
薄く瞼を開けても、景色は霞んでよく見えない。手探りで首から下げたデジカメを取り、渡す。
「もしかしたらこれに、犯人の車が写っているかもしれません……」
「そうか。ありがとう」
ありがとう。
その言葉に安心して、僕は眠りについた。
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