第16話
俺は今、ティーカップに注がれた紅茶の水面を眺めている。
せっかく来たのだから、と佳代さんに中に上げてもらったのだ。戸惑いで上手く応じることもできず、誘われるがまま、洋風な居間に通された。
半澤は着替えて学校に行ってしまった。日課の水やりだという。本当に毎日やるんだな。
「ごめんなさいね。昨日は通くんがお世話になったのに、当の本人がさくさく出ていってしまって」
「いえ。こちらこそ、昨日は突然連れ出してしまって」
申し訳ありません、と頭を下げながら思う。むしろ半澤がいない方が好都合かもしれない。半澤のことを色々聞くには。
両親は既に亡く、親戚の新田さんにお世話になっている、としか半澤は説明していかなかった。俺も根掘り葉掘り聞くのはどうかと思ったし、第一、この人からは嫌な感じはしないから、半澤が──自殺を考えるような原因は、この人にはないのだろう。
けれど、この人から普段の半澤の姿を聞くことならできる。半澤には直接聞けないことも。
「あの」
「なんでしょう?」
佳代さんが座るのを見計らって、声をかけた。
「半澤……通くんとは、いつから一緒に?」
すると、佳代さんは寂しそうに微笑んだ。
「通くんは、わたしたちのこと、話していないようね」
「それは、最近知り合ったばかりですから」
そう、知り合ってまだ一週間程度。それで勝手に家に連れてったり、家を訪ねてみたり、俺って図々しいのか、と思うくらいだ。
俺が気まずく思っていると、佳代さんはそれを察してか、首を横に振る。
「違うの。通くんにお友達ができたことは嬉しいし、そのお友達を連れてきてくれたことにも、とても喜んでいるの。わたしが気にしているのはね、自分たちのこと。……通くんにはまだ家族として、受け入れてもらえてないのかな、と」
「何か、あるんですか?」
人様のお家事情に足を踏み入れていいものやら迷ったが、訊いてみる。佳代さんは憂いに満ちた表情で答えた。
「わたしたちと通くんの間で、何があったというわけでもないの。ただ、通くんはまだ、ご両親、特にお父さんが亡くなったことから立ち直れていないんだと思う」
父親、と聞いて、昨日聞いたカメラのことを思い出す。
「そのお父さんと、仲良かったんですか?」
「ええ、とても。お母さんは、通くんが物心つく前に亡くなったから、小学校の中頃までは、お父さんが男手一つで育てていたの。通くん、いつもデジカメ持ってるでしょう? 写真好きなのね。きっと、お父さんの影響よ」
「通くんのお父さんも、写真がお好きだったんですね」
「ええ。いい景色とか見ると撮らずにはいられないくらい。通くんのお父さんと旅行に行ったことがあるんだけど、手元にカメラがないとそわそわしてたわ。そんなときにカメラ貸すと、ぱしゃぱしゃぱしゃって、立て続けに撮るの。面白くて、楽しそうだったわ」
半澤の衝動的に写真を撮るあの感じは父親譲りということか。血は争えない。
「でも、倒れちゃって。仕事で無理をしていたのか、体を悪くして……突然だったわ。一回、意識を取り戻したんだけど、そのとき、自分のカメラを通くんに、とだけ遺して」
俯く佳代さんにすみません、と頭を下げる。いいえ、と言ってくれたが、その声には涙が滲んでいた。
「辛いのはきっと、通くんの方よ。前はあんなに笑う子じゃなかったもの。無理して笑う子じゃ」
その言葉に胸を衝かれる。──前は笑わなかった。
じゃあ、半澤がいつも浮かべているあの爽やかな笑みは何なのだろう。あれは、取り繕った笑みなのだろうか。だとしたら俺は、半澤の何を知ったつもりになっていたのだ。
本当は無理して笑って、辛くて。それを押し隠して過ごしている。それを俺は、綺麗な笑顔、だなんて。──自分を笑いたくなる。
「写真撮ってるときとか、本当に幸せそうに見えるのに」
自嘲を含んだ呟きが落ちる。それに佳代さんがぱっと顔を上げた。
「写真を撮るときは、本当に笑っていると思うわ」
「え?」
「だって、それだけは前と変わってないの。お父さんがいたときと同じように笑ってる」
「そう、ですか」
「でも、一時期だけ……中学生のときに、あの子が笑わなかった時期があったわ」
例の、先輩方との件だろうか。
「あのカメラが壊れた頃かしら? カメラを壊してしまったことを気に病んでか、新しくデジカメを買っても、しばらく口も開かなかったことがあったの」
間違いない。が、あの一件を半澤は佳代さんには話していないらしい。やはり、半澤がこの人から一線を引いているということなのだろうか。
「そういえば、それからね。通くんの部屋に包帯が置かれるようになったのは」
「包帯、ですか」
出てくると思っていなかったワードが出た。俺が訊き返すと、佳代さんは頷く。
「買った覚えはないのだけれど、真っ白い包帯が、通くんの部屋の机に。通くんは特に怪我しているようでもないし、何なのかしら、とは思うけれど、なんとなく一線引かれてる気がして、聞けないでいるの」
「そうですか」
真っ白い包帯。覚えがある。半澤が言っていた"どんな怪我でもすぐ治せちゃう不思議な包帯"にちがいない。だが、中学時代との因果関係がぱっと思いつかなかった。
まさか、その頃からリストカットを始めたのだろうか。
よぎった予想にぞくりと震える。佳代さんが俺の様子に気づき、「どうしたの?」と訊いてきたが、答えるわけにもいかない。この人を傷つけたくなくて、半澤は隠しているのだろうから。だから俺は首を横に振った。
気分を変えるのに、紅茶を一口飲む。すっかり冷めていたが、喉にじんわりと染み渡り、心地よかった。
「お茶、ごちそうさまでした」
一心地つくと、俺は席を立った。
「あら? もう帰るの?」
「はい。すみません、用があるもので」
「あら、では引き留めるのも悪いですね」
「いえいえ。色々聞かせていただいて、ありがとうございました」
一つお辞儀をして、俺はその家を後にした。
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