第7話

 がしゃーん!!

「うー、またこけた。最悪だ。つか、いってー」

 翌朝のことである。今日は家の出入口で、坂なのに結構なスピードで上ってきた車にはねられそうになってすっ転んだ。昨日と違い転んだのはコンクリートの上。しかも石の門に頭をぶつけるおまけつきで、かなりローなテンションで一日のスタートを切るはめになった。

「つか、頭いてー。くらくらするし、ちょっと吐き気もあるし」

 打った頭に手を当てて、ぎくりと固まる。何かぬらっとしたものが手に触れたのだ。恐る恐る下ろした手を見ると、指先にべっとり赤いものが。

「うわっ、やべ。切った!?」

 慌てて自転車のかごに積んでいたバッグから絆創膏を取り出す。血はだらだらと流れてくるようではないので、おそらく傷はそう深くはないはずだが、ポケットティッシュでひとまず止血。血が止まったのを確認しつつ、傷口を指でなぞり、大きさを見る。なんとか絆創膏で事足りそうだ。

 絆創膏を貼り終え、戻しながらバッグの中身の無事も確認し、ほっと一息吐く。それから自転車を立て直し、坂を下り始めた。

 きぃこきぃこと自転車が軋むような声を上げる。さすがに連日の転倒にはこいつも悲鳴を上げずにはいられないようだ。少し申し訳ない気分になってくるのだが、俺だって、別に転びたくて転んでいるわけじゃない。まあ、自転車に言っても仕方がないので、ぽんぽんとハンドルを優しく叩き、ごめんな、と心の中で呟いた。

 そろそろと坂を下っていると、後ろからクラクションの音がした。反対車線だろうが、と怒りを込めて振り向くと、見慣れた顔が俺に手を振っていた。

「おはよー、みーくん」

「げ、リンか」

 園崎花隣。幼なじみで腐れ縁の少女だ。坂の向こう側に住んでいる。あまりにも縁が長いので、お互い渾名呼びが治らない。

「げって何よ。失礼しちゃう。ところで何それ? またこけたの?」

「五月蝿い」

 面白がるような声で俺を覗き込む瞳にぶっきらぼうに吐き捨てる。こいつを見ていると無性に苛々するのだ。こっちの不運を面白がっている雰囲気が気に食わない。

「ねぇ、今日こそ車、乗ってかない? これ以上怪我が増えなくて済むわよ」

「いらない」

 車に乗ったら自転車の意味なくなるだろうが、というツッコミも飽きるくらい繰り返したため、鬱陶しいという思いを乗せた視線だけ送る。するとリンは肩を竦め、窓を閉めた。

 速度を上げた車が颯爽と坂を下っていく。巻き起こった風が頬を叩いた。

 リンは何だか面倒な奴だ。俺をからかうためか、何かと声をかけてくる。それでいてさっきみたいに手を差し伸べるような言動を見せるのだが、どうしてもその態度が軽薄に感じられるため突っぱねると、妙に悲しげな顔で諦めるのだ。まるで、俺が悪いみたいじゃないか、と顔をしかめる。

 考えているうちに長い坂は終わり、学校が見えてきた。右折すれば昨日の花壇。誰が整えたのか、昨日俺が転んだ跡はなくなっている。

 そんな花壇を眺めていると、視界の隅に人影が映った。

「あ、海道くん」

「おう、半澤か」

 顔を上げると昨日の朝会ったときと同じように、じょうろを抱え、爽やかな笑みを浮かべた半澤がいた。俺は自転車を花壇の方に寄せ、止め金を下ろした。

「はよ。今日も早くから水やり?」

「おはよう。うん。日課みたいなものだから。おでこ、どうしたの?」

 半澤が心配そうに見上げてくる。

「ああ、これな。今日もまたずっこけて、ちょっと頭打ったんだよ」

「頭って、大丈夫なの? 絆創膏一枚で」

「あー、大丈夫大丈夫。いつものことだから」

 わたわたと焦る半澤に俺は苦笑混じりで答える。そうか、俺にとってはいつものことでも、こいつにとっては違うのか、と思うと、なんだか心が安らいだ。

 そうだ、とあることを思い出す。かごの中のバッグをがさごそとし、目的のものを半澤に差し出した。

 半澤がきょとんとして見つめる。

「これは?」

「カップケーキ。昼にでも食ってくれ。昨日の礼だよ」

 透明な袋に赤いリボンでラッピングされた簡素な贈り物。中は昨日のうちに作っておいたカップケーキだ。

 半澤は俺の言葉の意味を飲み込むのに時間がかかっているらしく、しばし俺と袋を交互に眺め、目をしばたかせていた。

「んあ、それとも何かアレルギーとかあるのか? う、思いっきり使ってんのが何個か……」

「いやいや! ないよ」

 俺が思い至って焦り出すと、半澤は首を横に振り、じょうろを置いて袋を受け取った。

「ありがたく、いただきます」

 爽やかな笑みを一つこちらに向けると、半澤はするりとリボンをほどいた。がさがさと袋からケーキを取り出し、紙カップを少し剥がしてぱくりと頬張る。今度は俺がきょとんとする番だった。

 いや、今食うのか?

 しかしそのツッコミは声になる前に立ち消えた。

「美味しい」

 半澤のその一言と、満面の笑みによって。

 瞬間、手が無意識に動いた。ズボンのポケットのケータイを取り出し、素早くカメラモードを起動。気がついたときにはシャッターがぱしゃりと切られ、カメラよりカメラくさい音が、朝の静かな空間にやたら響いた。

「海道くん?」

 半澤のきょとんとした声に俺は我に返った。ケータイの画面にはカップケーキを見つめて微笑む半澤。無意識とはいえ、どうやら俺は半澤を勝手に撮ってしまったらしい。

 けれど、綺麗だ。画面の中で微笑む半澤が俺には日だまりのように見えた。なんだか、坂を下るとき抱いていた苛つきが洗い流されたようで、清々しい。

 不意に画面が薄暗くなったかと思うと、中央に「保存しました」の表示。

「うおっ?」

「ん、どしたの?」

「いや」

 悪い、と謝ろうとして口をつぐむ。……悪かっただろうか。そんな思いがよぎった。

 脳裏に浮かぶのは昨日見た写真を撮る半澤の姿。


「見つけた」

 ぱしゃり。


 勝手に撮って、けれど純真無垢な笑顔を浮かべるから、怒る気にはならなくて。

 ──今、なんとなくあの瞬間の半澤の気持ちがわかった。

 だから俺は黙って笑っておくことにした。これでおあいこだと心の中で言い訳をして。

 黙っている俺をしばらく不思議そうな面持ちで眺めていた半澤は、何かを察したのか、柔らかく笑んで再びケーキを頬張る。

「写真、好きなんだね」

 そんな一言を向けられ、俺は見透かされたような心地がして、ふっと視線をそらす。

「お前もな」

「うん」

 恥ずかしさを紛らすために返すと、頷きながら、半澤が声を上げて笑った。俺もつられて笑った。

 足元に植えられたデイジーが、気持ちよさそうに陽光を浴びていた。



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