第18話 風邪と追憶②

 迂闊だった。

 母が営むアンティークショップの手伝いをしていたから、古めかしい道具の目利きには人より自信があったのに。


 十四歳の私が足を止めた露天商にはいくつか目を引くものが売られていた。私はそこで一つの手回しオルゴールを買った。小さな木箱に彫られた幾何学模様が組み合わさった意匠が神秘的で心惹かれたのだ。

 店主である寡黙なお爺さんに断りを入れて試しに聞かせてもらったメロディー。それは美しく、穏やかに寄せては返す波、透き通った海原を連想させた。

 値段も手ごろで、嬉々として学院の寮室へと帰った。


 数日後の夜、それまでどおりに、オルゴールの外についているハンドルをゆっくりと回してその演奏を享受しようとした。

 しかしなぜか途中で演奏が止まり、オルゴールがガタガタと一人でに動き出した。そして何が起こっているのか確かめようとしたその時、箱が割れて黒いもやが私に襲いかかってきたのだ。


「傷一つなく無事に済んだのは、ソウセキが守ってくれたから。その命を犠牲にしてね。あの子が朽ち果てていく様は不思議と綺麗だったわ。黒いもやに襲われて床に落ち、のたうち回っていたのが嘘みたいに、その命がこの世界を離れていく瞬間は美しかったの。だからかな、しばらく何が起きたかわからず、呆然とした」


 悪い夢を見ているのだと思って、眠りについた。そうすれば目覚められる、何もなかった現実に戻れると信じて。けれど朝起きてもソウセキはいなくなったまま、壊れたオルゴールは音を失ったままだった。


 枯れるまで泣いてから、ふらふらと向かったのは図書館だった。気軽に相談できる、魔道具に精通している生徒や職員など知り合いにいなかったから、自分で調べるしかなかった。例の露天商を糾弾しに行っても無駄だとわかっていた。逆に今度はもっと強力な呪いでも与えられたらと恐れもした。


「原因を突き止めたところでソウセキが帰ってこないのは理解していたわ。でも、調べずにはいられなかった。黒いもやの正体をね」

「……わかったの?」

「ええ、いちおうはね」


 結論として、古い調度品に取り憑く魔物だった。世界的にダンジョンが同時多発的に発生した年代、すなわち今から百年ほど昔にはそこらじゅうの家に潜み、時には赤子や老人に害をなしていたのも判明した。やがて魔法使いたちによって対策がとられるようになり、一斉駆除が行われたおかげで、もはや都市伝説と化していた魔物。それがあのオルゴールを住処としていたのだ。


「上手に潜んでいたから私では感知できなかったの。とんだお笑い種よね、掘り出し物だと喜んでいたら、大切なものを失う羽目になるなんて」


 もとから図書館にはよく足を運んでいた私だったが、その一件を契機にほとんど毎日通い始めた。原因を究明した後も、私は弐番館で古い文献を漁るようになった。ソウセキのルーツを知りたくなったのだ。紙魚咲家に仕えてきたその起源は不明で、今となってはちゃんとした契約魔法を交わしていなかったのを悔やんだ。契約で繋がれていれば、ひょっとすると私の生命力を基にソウセキは死なずに済んだかもしれなかったのだ。


 結局のところ、あの頃の私は二度と会えないとわかっていながらも再会を夢見て図書館に入り浸る日々を送っていたのだ。


 そして季節が冬から春に移る頃、涙坂メリル学院司書に声をかけられた。

 そんなに本が、そして弐番館が好きならここの図書委員になってみないか、と。


「こう考えると妙な気分になるわ。オルゴールを買わなければ、そしてソウセキが死ななければ、私は図書委員になっていない。図書委員になっていなければヤトくんを探すために地下書庫へと入ることはできない。入ることがなければ……」

「私たちは会わなかった」


 リンカが哀しげな声で言う。

 私は椅子を下り、枕元に身を寄せて彼女の髪に触れた。この銀色が私を惑わし、惹きつけてやまない。でも、それが全部ではない。


「運命や宿命という言葉で物事を片付けてしまうのは、嫌いなことの一つよ。あなたはどう、リンカ」

「時に信じたくなる、ぐらいかな」

「そうね、それならわかる。どうか私たちが、古代の契約魔法で死ぬことのない未来こそが運命だと信じたいもの」

「ねぇ、ドロシー。もうひとつお願いしてもいい?」

「ええ、いいわよ。今度は何を聞きたいの。あなたがどこまで私を知っているのか、興味があるわ」


 私の意地の悪い言い方に、リンカは微笑むと「昔の話なら、ソウセキのことしか教えてもらっていないよ」と言う。彼女が観測していたという未来の世界、そこでの私はおしゃべりでなかったみたいだ。今と同じく。


「いっしょだと思っていないよ、お姉様とドロシーのこと」

「え?」

「んー……どう言えば誤解なく伝わるかな。私はお姉様が好きだけど、でもね、今ここにいてくれるドロシーは、えっと、その……」


 言い淀んだリンカ、その唇から目が離せない。それが再び動いて想いを告げる。


「大好きだよ」


 私は手を彼女の髪から額へと移す。


「熱がぶり返した見たい。顔が真っ赤だわ」

「それ、本気で言っている? 」

「……照れ隠しよ。それでお願いってなに」


 微妙な空気が流れる前に私は額から手を離して話題を戻す。


「あー……この流れだと言いにくくなったかも。ううん、もしかするとベストタイミング? うーん、どうしようかな」


 じれったい子。

 大好きだなんて言ってきたくせして、何を躊躇っているんだ。それとも今さっきのそれはそこまで深い意味はなかったのか。だったら、私の照れを返しなさいよ。


「言うだけ言いなさい。聞くだけ聞くから」

「…………ほしいなって」


 よく聞こえない。そしてそのことは私の反応から彼女もわかったみたいだ。「耳をかして」と言ってくるので、ただでさえ近い距離をゼロにする。


「今度こそドロシーからキスしてほしいの」


 囁き声は私に口づけを求めていた。相変わらず顔が赤い。そしてたぶん私も大差ない。


「どうして今なのよ」

「風邪、うつっちゃったらごめんね」

「しないから。元気になってからでいいでしょ。私にだって心の準備、あるんだから」

「そっか……。してくれたら、早く治りそうなのになぁ」

「ねだるような目つきはやめて。治癒魔法の適性がないのは話したでしょう?」

「思い出してよ、涙坂先生の話。ドロシーも、本来使えないような魔法が使えるかもよ? もしかしたらキスで回復もありえるんじゃないかな」


 目的が入れ替わっているのでは?

 元々は愛を育むため、二人で生き残るためにキスしてみようという話だったはずだ。それが適性の拡大なり無視なりをした魔法の行使になっている。仮に私がそんな魔法が使えたとしても……キスでこの子の体調を良くするなんての荒唐無稽が過ぎる気がする。いや、たしかにマジカルなラクロス・クロスも異常だけれど。


 やっぱりまた今度に、そう伝えようとリンカを見やると彼女は安らかな寝息を立てていた。私が思考に沈んでいる最中に、彼女のほうは眠りに沈んだみたいだ。


 私は静かに立ち上がり、椅子に座り直してまた本を読み始めようと思った。でも、立ち上がったところで彼女の寝顔を見下ろし、ふとある考えが浮かんだ。


 まずはリンカが狸寝入りしていないことを確かめる。瞼はきちんと閉じている。頰を軽くつつく。反応なし。寝息の規則性からすると、間違いなく眠っている。


「……練習だからね」


 私は独りでそう呟いてから眠る彼女にキスを落とすのだった。

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